何もかもまとまらない。

まとまらないので垂れ流し。もといまずはただの日記。

昨日は学生の義務らしい健康診断へ。尿検査とか血圧とか思いっきり引っ掛るかと思いきや全部問題なく通過。レントゲンはどうだったんだろう? 問診票にありのままを書いたら、「しんどかったら、いつでも来て下さいね」と保健センターの人にえらく真面目に心配げに言われてしまった。ちょっと頑張ろう。あと、1月の体重と比較すると体重が2kgから3kgくらい減ってる気がする。激しくどうでもいい。

取り敢えず週休5日制になってしまった所為で激しく暇だ。

さて、健康診断を終えて遅めの昼食を と思っていたら学食で同学年の知り合いに遭遇。思わず挨拶してしまったのもあって相席。

私が健康診断を受けに来た旨を述べると、「え、何も異常なかったの? おかしいよそれって」とかある意味正鵠かつ無茶苦茶な発言をしてくださった。ついでに「デザイン系の人は立場が弱くなりがちだから、必ず対価を要求しないといけない。」とか何とか言っていたような気もする。内容は納得だが正直どーでもよかった。

で、最後のほうで内容は端折るが「解決策わかってるなら、それやればいいじゃん」てなことを仰っていた。取り敢えず「それができてりゃ今私はこうして凹んでないから」と回答しておいた。

…。どうしてこう話が通じないのかと内心苛々としたものを感じながら、まだ何か言いたそうだったところを立場的に私のほうが落伍者なので「はぁ、そうですね」と流す。

自分に何の疑いも感じない目で、「私すごい正論言ってるよね? 君もそう思うでしょ?」と言わんばかりの口ぶりで「今私いいこと思いついた教えてあげよう」ってな態度で語るのだ。あまりに純真な態度に僅かに殺意混じりの悪意を覚えることを悔悟しつつ、苦笑しながらその場は流した。

例の御仁は「作業が残ってるから」と急いで掻き込んでそそくさと学食を去っていった。

その後私は食べたものを戻しそうになるのを軽く抑えながら、健康診断を自費で受けた出費と今の精神ダメージとどちらが手痛いかを真剣に比較したりしながらとぼとぼと帰途へついた。

かの御仁はさぞかし有能なHackerになるだろう*1。外の世界を遮断して、躊躇いなく自己を振りかざせる感性は私が渇望してやまないものの一つだ。私の無駄な努力の一部はそれを志向してさえいる。狂気を渇望したり、確信犯として生きよと自らに言い聞かせたりとしていた訳であるし。

しかし、こうして具体的な形で相対するとどうしようもなく悪意を覚える。自分以外の一切への無頓着さとでも言うのだろうか? 相対してすら私は捨象されてしまっていたのだろう。無論、彼らが幸福であることは疑いようがない。彼らは「不幸なんて考えても仕方ない。次いこう次」を実践できるからだ。彼らの脳内では、幸福になるための手法以外の感傷は長期残留することなく捨象されているのだろう。

羨ましくもあり、救い難くもある*2。嗚呼、これは劣等感が見せる幻想なのだろうか?

*1:二十代は模索のときブログ - 「[模索]電車内で見る若者の「没頭する能力」について」を参照していただければ何となく解るかもしれない。聞いている限りでは本人もその道を志望しているようである。

*2:元より救う気など皆無だし、それは私の役目ではないだろう。寧ろ本人幸せなんだろうから、救われたいのは私かもしれない。

批判しておこう

ねこになりたい。 - 「何でもかんでも写真に撮りたがる無神経な人」

正直思考が虐殺モードなまま人を批判すると非難どころか罵倒になりがちで危険なのだけれど言及してみたくなった。釣られてみるとも言う。

まず第一点。正直、自身が人を貶すことに対して無神経である以上、人の無神経さをあげつらうには難があるだろう*1。主張が正しければどのような誹謗中傷をしても承認される という発想は危険である。そもそも、主張が正しいかといわれれば、それも怪しいが。そもそもシャッター音如きがなんだというのだ と言う見解を納得させるだけの材料がない。

たとえば、不快感を喚起させたものがシャッターの音ではなく、隣の客の不器用なテーブルマナーであったらどうだろう? ナイフをガチャガチャとしすぎる とか、スープを音を立てて啜っていた とか、間違い塗れの薀蓄をととうとうと垂れ流していた とか、ワインの飲み方がなってない とかであっても同意できるだろうか?

シャッターの音がどれだけ本人に失望を喚起したかは本人にしか知ることができない以上、まずはそれを粛々と語るべきである。共感を勝ち得たいならば、結果的に自分を悪人に仕立てることは上策ではない。

何より悪意を垂れ流すならば、自覚的であることが望ましい。不用意な悪意は意図しない結果を招きやすいものである。

第二点。見知らぬ人物を蒸し返して批判するくらいなら、その場で当人に異議申し立てしたらどうなのだろう? 内心に非難を飲み込んだままやり過ごしたとすれば、異議申し立ては果たして正当性を担保されうるのだろうか? それほど不快なら、何か異議申し立てをしたならばそのやりとりを開示することに積極的であったろう。

第三点。その場の幸福を追求すべしその場に没入すべし、可視化してしまうなぞ以ての外という主張も同意できない。そもそも可視化してしまうことも含めて没入し得るその場の幸福と感じているとするならば、どうなるというのだろう? 或いは没入する為の儀式だとしたら? 結局、思い出なんてものは本人しか回顧できないのだから本人が納得する形で思い出として定着させれば良いのである。ありようを誰かが偉そうに指示するものではない。無論、他者の不快感を徒にあおらない範囲で という点は重要なようだが。

取り敢えず、私は勘違いブロガーとやららしい。Blogを思考を整理したり再現したりするツールとして使っているつもりではいるが、誰かに読まれて評価されることを内心期待していたりするし、その為にリソースを無駄に投入しているのだから。

他者を無痛覚で断罪できるセンスが羨ましいと同時に、危うさを感じる。

*1:私自身がおそらく無神経な点については、多少なりに自覚済みであるので指摘の必要があるならば指摘願いたい。