すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

なぜ「なぜ自殺してはいけないのか?」と問いたくなるのか?

はてなで質問をするとよく誤解されます。なぜか回答者は、質問内容と質問者を関係づけたがるなぁと思う。恋愛な質問をすると「うまくいくといいですね」とか、自殺な質問をすると「死ねば?」とか(それはなかったか?)。ここで言っておきますが、わたしが質問をするとき、たいていのケースにおいて、答えを知りたいのではありません。「他の人はどう考えているのか?」が知りたいのです。わたしは自分の信念体系がほかの人と異なっていてもまったく構わないし(じっさい大きく違うと思います)、合わせるつもりもぜんぜんないんですけど、ただ、距離を知りたいのです。そしてみながぶつからないようにたがいに距離を取って歩いているところを、ずうずうしくもその隙間まで使って歩いちゃおうというのが自分のやりかただと思います。

みなが信じられる美しい嘘、があればいいんじゃないですか?とか、思ってるときもあるみたいですよ?


ichinicsさんに件の質問を取り上げていただきました。

例えば「社会」に暮らしていない(無人島に1人で暮らしてるとか)人に対しては?


わたし自身が、たぶんあんまり社会に暮らしていないひとなのです。まえも書きましたが、わたしには、死なれたら悲しいという人はいません。誰が自殺すると言っても基本的に止めないと思う。例外はあって、それは別居中の奥さんですが。「別居中の妻が自殺した」ら、さすがに「世間体が悪い」ですからね。やや、生きにくくなる。(んでもってわたしのその彼女は、じじつ時々死にたいとかメールしたり電話したりしてくるので、またですかー?とか思いつつ対応してるわけですけど)

わたし自身は自殺はしないと思います。だいたいさ、「世界がある」ことをおもうだけでインスタントにハッピーになれる人は、そうそう死なないですよ。まいにち好き勝手やらさせてもらってるし。ひとりで好きなところに出かけて、本買って、CD買って、コーヒー飲んで、楽しいです。いいものもそうでないものも両方好きですし。ありえないようなキレイゴトを描いた映画でも「そうだよね!そうだよね!」ってちゃんと泣けるし、いっぽうで死刑判決を喜ぶ遺族みたいなニュースでも「そうだよねぇ…」ってゾクゾクしてきます。たいていのモノゴトを楽しめるようにできている。マイナスにはなりそうもありません。

でも絶対死なないか?というと、確証はない。世界に絶望したりはしないでしょうけど、なにかの目標を持って生きているわけでもないので、逆に、いま死ぬとしても後悔もなにもないのです。死なないのは、生きる理由があるからでなく、ただ、死ぬ理由がないからに過ぎない。たとえば、どちらを見ても同じように美しい風景だけがえんえん続くような場所を車で走っているとしたら、どうして、ハンドルを切ろうとか、ここで止まろうと思うでしょうか? 思うとしたらそれは「飽きた」「もう充分だと思った」ようなときしかないのではないか? でも当面、飽きそうもないですけどね。どう考えたって、世界には、一生かけてもアクセスしきれるはずもないほど大量の(美しい・よい・素敵な・面白い・不思議な・おいしい・カッコイイ、あるいは、そうでない)モノゴトがあふれてる。ビョーキとかにならない限り、世界は「終生、楽しさ保証つき」にしか、わたしには思えないのです。

技術がSACを加速する

雑誌『ユリイカ』10月号、特集「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」で、上野俊哉さんが「SAC」(スタンドアローンコンプレックス)を、「あるものが個性化、特殊化、独創性を目指せば目指すほど、ますます凡庸なものとなり、容易に他のものと同等なものに並列化してしまうこと」と定義されていました。

うん、そう、と思った。P2Pファイル共有ソフトを最初に使ったときの「ああ、これは、“みんなのHDDの中身を一緒にするツール”なんだ!」という感覚です。HDDの容量が、回線速度が、利用者の「意欲」が、上がれば上がるほど、各人のHDDの中に保存されているファイルは同じものになってしまうわけです。


同様のことが、Google・iTMS・はてなブックマークにも言える。誰がGoogleで「100件目」「1000件目」なんてとこにランクされたページを見るんでしょうか。iTMSでは「知っている曲」しかダウンロードされない。あそこで「ちょっといいバンド」を探すにはいったいどうしたらいいのか? ブックマーカーがその「仕事」を競い合い、利用者が旬のネタを求めるほどに、読まれるエントリは同じものとなり、頭の中が「並列化」されていくわけです。このようにして、新しい技術が出てくれば、世界が均質化されるまでの時間はどんどん短くなります。

そして技術は、あらゆる場面で「上」と「下」の差を拡大することにも貢献します。「上」は、仕組み上、加速度を付けて遠ざかっていきます(アクセス数が100倍違えど「注目エントリ化」の閾値は変わらず、そしてみな注目エントリしか読まない)。いったん「上」になることができれば、ある程度自動的に前進するようになります(あなたはどうやってアンテナに登録するページを探しましたか? アンテナに入れることと外すこと、どちらが多いですか?)。「なにもしていない人」は同じ所に留まっていられると思ったら間違いです。どんどん離されていき、相対的には「下」へ向かうのです。漕ぎ続けていなければ同じ場所にさえいられなくなる。いま行われているのはそういうゲームです。

流通する情報の総量が増加しても個人が処理可能な量には限りがあるので、「なるべくなら」とみなが「よいもの」を求める結果、みなが「同じもの」にアクセスし、同じ色に染まってしまう。きっと経済とか他のジャンルで起きているのも同じことなんでしょうけど、その辺はくわしくはわかりません。


問題の多くは、評価軸が「数」であること、でしょうね。アクセス数・リンク数・被登録数・ダウンロード回数、その他もろもろ。単純な「質より量」というわけではなく、個々人は「質を評価したつもり」でも結局は「量の評価に変換されてしまう」ところが難しいのだと思います。だからもっと、ちゃんと「情報の質」を評価できる仕組みが作られないと、世界はますますSAC化していってしまうのです。いまはせいぜいが「キーワードによる引っ掛け」くらいしかないですからね。自然言語検索か、あるいはもっと先の何かか? そういう技術が望まれているのだと思います。

……というオチを付けてまとめようかと思ったんだけど、それはありきたりだなぁ、と感じました。たぶんすこしチガウ。「みんな」はそもそも、読みたい記事なんてないんじゃないのか? ただ暇なんじゃないの? なにを読むんでもいいんじゃないの? 「受け」なんじゃないの? ってあたりがホントウなんじゃないかと感じてるんですがどうなんでしょうか。


上野俊哉さんによるSACの定義にはもうひとつあって、それは「あるものが徹底して個体性を排除し、情報や資源=手段の共有化、平等化、並列化を実現すればするほど、かけがえのない、他のものとは異なった、唯一特異的な行為主体が生じてしまうこと」とされています。これは、パッと見て、意味がわからなかった。そんなことあるの?って感じでした。しかし、ここで言う「唯一特異的な行為主体」とは、GoogleやiTMSやはてなそのもの、を指せる、指している、のかもしれない。