すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

自由意志の幻が生まれるところ

これはichinicsさんの「言語と自由意志」というエントリの冒頭からヒントを得たものです。


例を挙げて説明します。休日に、さて出かけよう、と思う。友だちとどこかへ遊びに行こうか、それとも1人で映画でも見ようか。考えて、映画にする。で、メッチャつまらない。1番、「あーあ、友だちと遊んでたほうが良かったなぁ」。まぁ、帰るか、と思うと急にすっげー土砂降りでズブ濡れに。2番、「あーあ、こんなじゃ出かけなければよかった…」

で、ぼくの言いたいのは、1番はアリかも知れないけど2番はナシだよな、ということです。この人は、家にいた時点では「今日は出かけない」ということを一度も考えてないわけです。その選択肢は、存在しなかった。しかし、「出かけなければよかった」と、言葉を使うことによって、未来の時点から語れてしまう。そのせいで、そういう行動を取ることもできたはずなのだ、というように錯覚してしまうのです。でもそれは過去の改変/捏造でしょう、とぼくは思う。

これがナシであるそのわけは、「やらなかったこと」はいくらでもどうとでも語れてしまうからです。今度は逆に「家にいること」を後から語ることを考えてみます。「買い物にでも行けばよかったんだけど、家にいた」「遊びには行かないで家にいた」「外に行けば出会いがあったのかもしれないけど家にいた」「知事選には立候補しないで家にいた」。でもこれ、この人をビデオで撮ったらどうなるか考えて見ればわかります。全部同じ、「ただ、家にいる人」が映ってるだけです。ひとつの物理的現実に対してそれを描写する言語の世界は複数、つーかいくらでもあって、そっちのほうが広いわけです。しかし「遊びには行かないで家にいた」が通用するなら「知事選には立候補しないで家にいた」と言っても構わないはずです。これらはどれも同じレベルですから。

こういうの、よくあるなぁ、と思います。そんなことこれっぽっちも考えもしなかったのに「あっちの会社にすればよかった」「あの馬を買えばよかった」「あの時もし声を掛けていたら」とかね。でもこれは逃避ですね。そう言い出す人は、現実をちゃんと見つめるのがイヤなわけです。でもまぁ、自分も、例えば事故で身内を亡くした人が「あの時もし声を掛けていたら」とか言ってたら「それは逃避ですね」とは言えませんが。それは有り得ない選択だったし、そう考えるのもなぐさめにしかならないけど、でもなぐさめにはなるわけで。


というようなことを考えていて、思った。中学生になって英語を初めて習ったころ、"I do nothing."みたいな言い回しを、「わたしはnothingをしている」なんて、ガイジンはへんなこと言うんだなーとか感じていたんですが、これは実は日本人のほうがヘンなのではないかというふうな理解になってきた。「なにもしていない」というほうがおかしい。人がいれば、座ってるとかぼーっとしているとか呼吸をしているとか、まぁこれじゃコドモのヘリクツみたいですけど、ぜったい何かしているわけです。最低でも、beであり、存在はしている。在るものが「なにもしない」ことはできない。現実は「アレをするかコレをするか」であって、「アレをするかアレをしないか」ではない、ということです。

2番は「ナシ」。しかし1番はほんとうに「アリ」なんだろうか。なんとなく攻略できそうな気はするのですが。

跳べ(全裸で)

アムステルダム――オランダのヘトレン町にあるスポーツジムは、日曜朝に限り「ヌーディスト」のための特別コースを設ける、と発表した。3月4日から開始する。

ロイター通信によると、要望が多いことを受けた措置。「不純な動機」を持った参加者は追い出す、とも宣言している。賛否両論の反応が殺到しているという。


別に水着くらいならば、つけていてもまったく運動の妨げにはならないと思う。しかしなんか開放したいのでしょうねーいろいろと。