文科省役人様と教育関係者様、上を見ないで児童生徒を見てください(続き)

yukiwarisou 0222様に紹介いただいた、前川喜平氏の「面従腹背」についての発言に触発されて、さらに頭に浮かんだことを書きます。

前川元文科事務次官と現文科事務次官の「面従腹背」についての二人の考え方の違いは、単なる二人の次官の違いではないと思います。ここには戦後民主主義とそれを否定する安倍政権のせめぎ合いが端的に表れていると思います。別に言えば、戦後曲がりなりにも維持し発展させてきた民主主義そのものの危機が表れています。

絶対服従を部下に要求する現次官の上司は、柴山文科大臣です。この次官は面従腹背しませんので、文科大臣に絶対服従です。

お役人さんが「面従腹背」しないと、文科大臣→文科事務次官文科省役人という絶対服従のラインができるということです。その先には、文科省→各都道府県教委・市町村教委→学校長→先生→児童生徒という絶対服従のラインの確立が見えてきます。それが確立した時には、児童生徒という将来の主権者を、政権が思うように教育するということが完成します。この教育の国家統制とマスコミ統制は、ファッシズムそのものです。

さてここで柴山文科大臣の就任演説を思い出しましょう。それは「教育勅語はアレンジすれば今でも教育現場でも使える普遍性を持つ」という趣旨でした。

教育勅語は、明治憲法とワンセットです。明治憲法では、日本国は天皇の主権に基づいて運営されると決められています(第一条 大日本帝国万世一系天皇これを統治す)その主権者である天皇が、国民に「こう生きよ」と命令しているのが教育勅語です。

勅(語)とは天皇の命令です。それは文体にも表れています教育勅語の基本構成は、「爾臣民(なんじしんみん)・・・・すべし」。「爾」は対等またはそれ以下を表す二人称と、辞書にあります。臣民の「臣」は、○○家家臣とか君臣の別とか使われるように、家来という意味です。「すべし」は、勿論命令の意味を持つ古語助動詞です。結局、教育勅語は主権者である天皇が、統治の対象で家来である国民に「こう生きよ」と命令したものです。

小さい子供は知識・判断力が不十分です。そんな状態で「こう生きよ」と教えるのは洗脳です。yukiwarisou様に紹介いただいた前川氏の言葉では「思想・良心の自由を持つ個人」の圧殺です。「尊厳ある個人」の圧殺です。SPYBOYさんの言葉で言えば「自分の頭で考える=人間」の圧殺です。


私は、誰かに「こう生きよ」と命令されるのは絶対嫌ですね。親にだって先生にだって上司にだって隣人にだって、ましてや国家(≒多数者)に絶対服従で「こう生きよ」といわれるなんてひどく嫌だな。あなたはどうですか。あなたは上司や先生や親や多数者の言うことに絶対服従しますか。



もし、文科大臣→事務次官文科省役人→教委→校長→先生→児童生徒という絶対服従ラインが完成すれば、児童生徒という将来の主権者の主権を奪うことになります。主権者とは、国家のあり方を最終的に決める力を持つ存在です。そういう存在が政権に「洗脳される」ということです。

それは国民主権=民主主義の否定であり、個人の自由及び権利の喪失です。

もし政権(文科大臣)→事務次官文科省役人→教委→学校長→先生→児童生徒という絶対服従のラインが完成したとしても、それぞれの持ち場で、上を忖度せず、「面従腹背して児童生徒という主権者を育ててください。


それは現憲法の精神に沿うことです。それは「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」(12条)という厳粛な国民間の約束を守ることでもあると思うのです。