登れない

今日は登れたら登りたいなと思いつつ帰宅。上の子がスイミングの日なので宿題は終わってないだろうなと思いつつ。

とりあえず帰宅後洗濯物の仕舞やベットメイキングをしてご飯の用意を嫁から引き継ぐ。案の定宿題は半分。連絡帳を持っていくのを忘れたせいで紙に先生から今日の忘れ物という紙が添えられている。

いつもなら音読だけ聞いてあとはチャンとやれよで登りに行くんだが流石にフォローしとかんとまずいと思って諦める。今週は後半は全然無理そうなのでかなりションボリ。ヒローズの課題のゴールどりがとか思いつつ気持ちを切り替える。

とりあえず上の子、下の子を風呂に入れつつ洗い物をしてしまい部屋の片付けと掃除までは仕上げる。風呂上がりに2人の爪を切って耳掃除をする。

下の子は適当に遊ばせて上の子の宿題を見つつながらトレーニングをする。音読を聞きながら聴き終わるまでビーストメーカーのガバにぶら下がる。明日の用意を横目に指示しながらTRXトレーニングと子ども部屋に器具を付けた利点を生かす。

TRXのトレーニングは我流なのでグッぼるで講習早めに受けないと効率悪いなぁと思いつつなかなかその時間が取れない。まぁぶっちゃけトレーニング強度で言えば家でトレーニングしてる方が登りにいくよりあるんだよなぁ。。。。

なにを伝えたいんだろうな

僕は子どもになにを伝えたいんだろう。親としての自己満足だけど何かを残してあげたいと思う。魚ではなく魚の釣りかたというのは有名な話だけれど。

 

最近子供の失敗にどう対応するか考える。例えば食事中に食べ物をこぼした時叱る。曰く「こぼさないように、食べなさい」「そんな食べ方だからこぼすんだ」「集中して食べなさい」まぁ当たり前のようにいう言葉だと思う。大人からしたら造作もないことで当たり前のことなんだけど子どもにとっては当たり前でもないし、こぼさないことに意義を感じないという程度の話もある。どこまでを行儀が悪いと思うのかも実はかなり主観だ。

 

最初に戻って、じゃあ僕は子どもにどうなって欲しいだろうか?色々考えてみたら「こぼさない人」よりも「こぼしても大丈夫な人」になってほしい。親の保護下にいる特権は尻を親が拭けることだ。だとしたらどんどん失敗をしてどうしてそれに対応するかを体験して欲しい。むしろ尻の拭き方を教えることか。。。

 

こぼさないやり方を一方的に教育するのは簡単なんだけど過ぎると噛み砕かなくなる。大人から見たいい子を作ることは大人は楽になるけれど後が大変になる気がする。水をこぼさない子よりも、こぼしても自分で吹いて新しい水を汲んで来れる子になってほしい。

 

じゃあ実際どうしよう。こぼした行為を必要以上に叱らない。後始末のやり方を怒らず冷静に問いかけ考えさせる。自分でどうするか言わせて実際やらせる。やり方を間違っていると思う時は怒らずアドバイスする。根気よく続けるしかない。

 

大人になると出来なかったこと忘れてしまう。子どもの世界は思っているより狭い。その世界に降りて出来ない世界観で子どもたちの能力今できることを一緒に考えてあげることができたらいいなと思う。

 

 

授業参観

上の子の授業参観に行く。まぁ落ち着きがない。気がついたことはすぐに口に出していう、じっとしてられない、声がでかい。昔の自分に本当にそっくり。先生はほどほどにあしらっていたけどあれは下手するとイジメの対象になるな。まぁそれについては先持ってやめろとも言い難いところもある。

 

生きやすいベクトルか、個人を尊重してあげるのかどちらにしても良かった悪かったは結果論なんだしね。強制せずにこういう考えかたもあるとうまく示してあげられたら一番良いのかな。うまく伝えるのは難しいけれど。あなたのために言ってあげているのよ。というのはいつも大きなお世話だと思ってしまう。

 

小さな子たちに対する一言は一生縛られる呪いになることがある。よくなれば支えになるけれど、本当に毒にも薬にも。

 

授業参観が終わった後、感想を娘に聞かれたらどうしようか結構迷った。「よく頑張ったね。でもこういう所は直したほうがいい。」と「こういうところは気になった。でもよく頑張ったね」上げ下げのじゅんばんでも受ける印象は結構違うだろう。多分上の子は後者にしろ前者にしろ前半で感情が振れて後半は耳に入らないんじゃないかと思う。聞かれるということは本人は褒めてもらう期待を持っている。最初に下げるとそれだけでショックで凹んでしまって後半のタームは耳に入らないだろう。逆に最初にあげると舞い上がって後半は聞き流して耳に入らないだろうと思う。

 

そんなことを考えながら結局、頑張ったねだけに留めた。どうやったらうまく伝えられるかな。。。

空回っている

仕事と家庭のバランスがうまく取れない。仕事は今めちゃくちゃ忙しいが上の子とのコミュニケーションも今とっておかないと今後の生活の中で大変になりそう。タスクの総量より数の多さに切り替えが追いつかないので無駄に時間を過ごしている感じ。

 

割り込み事象が多すぎてタスクを完結できない。まず落ち着いて整理しないと本当に沢山の人に迷惑をかけることになりそう。

子どもとの付き合いかたあれこれ

上の子のが小学生になって宿題や日々の用意などいろいろやることが増えた。子どもは本当に予想外で昔の自分を思い出したり。違いに驚いたりする。上の子と下の子でも同じ家庭環境とは思えないぐらいに違う。

 

自分としては子どもにそれほど多くのことは求めていないので忘れ物や宿題やらはあまりうるさく言いたくはない。だって自分もやってなかったし今でも別にそれで損をした気はしていない。自分が小学生のころ、なぜそれをやらないといけないのかを納得させてくれる大人は周りにはいなかった。学校でやることはバカバカしかった。今になって思うのは自分でもう少し学びかたを考えておけば良かったと思うくらい。

 

でも結局それも今になってからでも学べるし遅すぎたとも思わない。少なくともそれは自分で学ぶことであってうるさくいう大人の言うことを聞いて身についたとも思えないのだ。じゃあ今自分は子どもに対してどう接すれば自分が欲しかった親になるのだろう。親業も試行錯誤なんだけれど、最近思うのは宿題をやれということに合わせて一緒に考えてあげることかなと思っている。

 

上の子はとても自分に似ているのでまだやりやすい。先日算数の宿題を見ていたら答えに空白ではなく「わかりません」と書いていた。これはなかなか良いシグナルだなと思った。わからないことをわかりませんと書けるのはセンスがあると思う。無知の知、理解の本当の一歩目だ。本当にまずいのはわかってないことすら分からず、やっていないことすら無意識で空白なこと。わからないという考えたプロセスを記録に残せるのはなにも教えていないなら学習のセンスだ。

 

とりあえず上の子を呼んで「わからない」と書いてあるけどなにがわからないのか?お父さんと一緒に考えようといってみた。嬉しそうに「問題の意味がわからない」といってきた。問題は「4cmのテープが二本あって1cm重ねて貼ると□cmになりますか。」という問題でそれっぽい絵もついている。重ねて貼ってあるような絵面だったんだけど上の子には絵の意味がわからなかったようだ。取り急ぎそのへんの紙を4cmに2枚切って図と同じ状態にしてみる。それをみて「あぁそういうこと!どちらかが1cm短くなるんや」と普通に解けた。

 

このやり取りで子どもの学力をある程度把握できた。数学的能力と国語的能力の差異がわからないという結果を生み出していることがわかった。多分上の子になにかを教えるのは楽だと思う。短期的な理解度は高い、ただ集中力は続かない。あと視野狭窄がひどいので今の視野外の精度が著しく下がる。それを一旦切り替える術を学べば自分で大抵のことはできるだろうと思う。その術を教えてあげるのが当分の役目かなと考えている。

 

 

 

この歳になってからの趣味

2年前からボルダリングを始めた。自分にとても合う趣味でとても良い。

相手がいらない、相手は壁なので自分の実力が全て。身体能力と組み立てる思考とが両立していて気軽で良い。ちょうど家から自転車で10圏内にジムがあるのも良い。家事と子供世話を終えてからちょっとだけ登りに行く感じ。ジムでは滞在時間が一番短い常連と言われている。

 

課題があるおかげで短期的な達成感がある。場合によっては1月ぐらい同じ課題を打つんだけど外岩だとそれこそ年単位で打っている人もいる。身体にかかる負担は大きいんけど出来るだけ怪我が少なく長く続けられたら良いかと思う。f:id:AFTERZERO:20190611180307j:image

読み直す

はてなダイアリーがなくなってblogに変わる。そんな流れを横目に見ながら毎日を忙しく過ごしていたんだけど本当になんとなく過去の自分がなにを綴っていたか気になって読み返す。割と飾らずむしろウニャウニャとしていたものをズバリ出していたため今読んでも刺さるものは刺さるし、自分に感心もした。

 

どのくらい続くかは知らんけど少し定期的に吐き出して見ようかと思う。もうここを見ている昔の知り合いはいないだろうから廃墟に落書きを残す感じ。ある意味これは子供たちに親がなにを考えていたかを残す遺書のようなものかな。自分の中のドロドロとしたものを吐き出すのは嫌いじゃない。俺が死んだ時に20代後半からの親がなにを感じて生きていたかが残っているのは面白い。

 

文章を書くことをやめて久しい。リハビリも兼ねてボチボチやろう。f:id:AFTERZERO:20190610220049j:image