今の若者は良い物を知らない。について。

今の若者は良い物を知らない。

ファッション、アパレル業界に携わると、年に数回はこの言葉を口にする業界の方々と遭遇する。


その人達の言わんとする良いファッション、良い服、良い商品ってなんだろう?
それぞれ、自身が若い時と比べて現状がどうなのか?を洗い出すことにした。
昔と言っても全ての時代を網羅することは不可能なので、筆者がハイティーンだった頃(15〜20年前)と比べることにします。


ファッション(流行)について
昔:高校生の頃ネット黎明期だったので主な情報源は雑誌とストリートに限定されている。強いて言えばTVもその位置づけだったのかもしれない。
一地方都市で青春時代を過ごしたせいか筆者はストリートからファッション的感性や情報を汲み取る事を拒絶していたのを覚えている。
でも、セレクトショップの店員等からファッション情報を頂くことはよくしていたかな。
話を元に戻すと、主な情報の入手先は雑誌一択となり、勿論雑誌は生の情報を伝える事がタイムラグと編集により一歩どころか周回遅れ的に遅れている。もしかすると、ファッション=流行は過ぎ去った後に触れる事だってあったかもしれない。

今:最強市民のツールであるネットが発達したおかげで、流行に関する情報は震源地よりリアルタイムで波及する。雑誌の作り方も、ネットの瞬間最大風速有りきの編集となり、より踏み込んだ情報を提供する雑誌が生き残っている感がある。


よって、今と昔ではファッションに限って言うと質(変なバイアスが係らないという意味で)も量もスピードも今の若者の方が筆者の青春時代よりも環境は整っている。そう断言できる。


洋服のクオリティについて
昔:デザイナーズブランドが売れに売れた。インポート物でも売れに売れた。そして、こぞってみんなはそれを買ったものだ。恐らく『今の若者は良い物を知らない』と嘆く方々にとって、売れに売れた時代のデザイナーズブランド、インポートブランドが良い服といった所だろう。
悔しかったエピソードとして、バイトして買った某スーパーブランドのシャツを一回洗濯に出した時、付いていたボタンのほとんどがとれてしまった事件がある。勿論たたんでネットに入れて洗ったつもりだがそうなってしまった。
洗濯絵表示も手洗い、ドライ表示の指定はなく、普通に洗えるじゃないか!と嘆いた思い出がある。その他にも、数回着ただけで激しく色泣きするインポート製品や、水洗いOKなのに激しく収縮するアイテムなど、上げればキリがない。
この前筆者が19〜20歳ごろによく着ていた同じくスーパーブランドのカットソーを偶然タンスの奥深くから発掘した時に気がついた事がある、そのカットソーは生地をバイアス断ちにしているだけの普通のモダール混の素材で組み立てられていて、外見のデザインはプリント無しのいたってシンプルな仕上げ。買った当初はその着心地にとても満足していた。しかし、今考えるとそれに1万〜2万円以上のお金を出していたかと思うと正直ゾッとする。


今:超長綿が激安で売られる時代であり、量販店の吊るしのジャケットだってスーパー150のウールを使用しセットアップで3万円位で買えちゃう。
ファストファッションのクオリティだって悪いじゃないか!と言う声も聞こえてきそうだが、ファストファッションブランドはそもそも数万円するカットソーなんて作らない。
実際に一番びっくりしたのは、リネン関係の素材を扱った時、同スペックの中国製リネンよりもインポートリネンの方が発色が悪く、縮絨し、色泣きする。勿論価格は中国製のほうが1/4位の値段で買えちゃうわけです。
さっきのモダール混のカットソーだって、駅ビルに行けばそっこうで見つけ出すことも可能なくらい流通している。そして価格もかなり手頃ときた。

作りに関しても、高いお店の商品はプレスで誤魔化している場合が多く、完全オーダーメイドでなければ、サイズ感や着心地は(吊しに限って言えば)昔買ってた激高商品も、今巷に溢れている安い服もそうそう変わらない。


それは、流行の服をどれだけ効率よく手に入れることができるか?を考えた場合もしかり。
ZARAに行けばそれっぽい現地の流行を踏んだ商品を格安で手に入れることだってできるし、ワンシーズン使い捨てなんて揶揄の対象にもされるけど、ファッション(流行)を追っていく上で、ファストファッションもデザイナーズブランドもワンシーズンの使い捨てに他ならない。

昔と違い、数分の一のお金で最新流行を身に纏う環境が整っている。そう考えると今の若者のファッションを取り巻く環境は・・・昔よりもいいんじゃね?となるのである。

ZARAプレタポルテのパクリでしょ?なんて声も聞こえてきそうだが、筆者は洋服の持つ感性、流行、情報のクオリティと質、スピード、手に入れやすさを語っているのであって、意匠権の話をしているのではない。

確かに量の増加は質の低下を意味する場合がある。流行りものを時差なしにリアルタイムで身に纏う事にステイタスが無くなった今、筆者のような弱小ブランドデザイナーにとってのチャンスはより明確になり物事を打ち出しやすい。我々にとって良い時代になったのかもしれない。


総括
『今の若者は良い物を知らない。』は商品が売れなくなった、ファッションアパレル業界の見苦しい言い訳ではないのか?


自分自身への戒めとして

『己の間違いを正さず、他に原因を見つだそうとするのであれば。ムーブメントは今後一切起こせない。』

しっかりと胸に刻みます。

宇座にもロマンがあるのだね

ロカ岬のルイス・デ・カモンイスユーラシア大陸と自国のロマンを謳うのなら

ぼくらのふるさと読谷村宇座部落にも同じような場所とストーリーがある



敬愛する元参議院議員山内徳信さんがぼくに熱っぽく話してくれたぼくらの出身部落である“宇座”の由来だ



宇座部落は沖縄県本島の東シナ海側のちょうど真ん中あたりに古くから存在する残波岬周辺の小さな集落


琉球王国時代から(いまでもそうか)弱小で読谷山(読谷村の旧名)では今で言ういじめられっ子のポディションだった


内陸部の他の集落からはいじめられ、ぼくらの祖先は残波岬まで追いやられた
そう、目の前には海しか無かった、前に進むためには海へ帆を張るしかなかった

当時、海は宇宙を意味した
海は未知であふれ、その向こうには高度な文明や反対に未開の文明もあった
当時の宇座の人たちは海の向こう側にこの世の果てをも想像した

宙を目の前にする民

ぼくらの祖先は自分たちを宇座の民と名乗るようにした

コザのパーティへ参加しました

先日、中学時代のクラスメイトである比嘉くん(比嘉くんはsadaharu higaというブランドを沖縄でやってます)に誘われblackberrryさんの一周年パーティへ参加した。
※blackberrryさんの服及び審美眼は90年台後半のストリートファッションがブランドの背骨になっている


祖父の”誘われたパーティは多少無理してでも全部いけ”という言葉通り(注:今回は無理して行く部類のパーティではなく”行きたかった”部類のパーティ

お店を閉めてからパーティ会場があるコザへバイクで直行!比嘉くんとblackberrryの店主のトミィさんのパーティ内で行われるファッションショーへギリギリ間に合う


ファッションとはステイタスシンボルとして使われることや、一般社会と同化する為に利用されたり、反対に一般社会から乖離するためにも使われる事が多い


然しながら、上記2人やパーティに参加しているゲストを見ていると、服でステイタスや一般社会での評価を決める(若しくは高める)なんて微塵も考えないで、純粋に自身の服(スタイル)が好きでおしゃれを楽しんでいる姿勢がとても印象深く心に残った

比嘉くんにしろ、ホストのトミィさんにしろ交流を深めると服に対する逸脱した愛情が垣間見える

純粋に服が好きな人たちは自身の服をメタファッションとして捉える事はあるのだろうか?



それから、やっぱりコザの土臭い感じは居心地がいい
那覇のイベントはヨーロッパで、コザでやるイベントは南米な感じ

インダストリアルプロダクション

1950年台のシャトル織機、国営バッヂ、社会主義市場経済によって逆コミンテルンと化したライン上の作業工員たち

写真をみているとロマンを感じた

http://www.52rkl.cn/tuhua/0Q3360332014.html

去年の夏に紡績工場へ行った

日中気温30度台後半の夏、古い工場に空調設備は勿論ないので室内の温度は過酷を極める
特に古いビンテージ織機は想像以上にうるさく、十数分間部屋に滞在し、外にでると毎回耳鳴りがしているのに気がつく

それでも、工場のラインリーダーをはじめ作業工員たちは驚異的な集中力で業務の溢れを見逃さない
流動性がある職場だが、長く働いているベテランは自分の仕事に情熱とプライドを持っていた


はたしてどれだけの日本人が自身の仕事にプライドと情熱を持っているのだろうか?



インダストリアルプロダクツにも生産現場の人間の血と情熱が通っていて



途上国にある軽工業に携わる労働者の過酷な労働環境が・・・
とか
大量生産大量消費の時代で・・・
とか
多少高くても良いモノ(意味あるモノ)を・・・
とか
どこかのパクリデザインじゃないの?
とか


そういうことじゃなくて、途上国の工場の現場は
貿易会社やアパレル企画生産企業、小売よりもそして意識高い消費者よりも意思あるアーティストたちが沢山いた





1999年に敬愛する元工場経営者が高校生のぼくに放った言葉がある

うちの中卒工員の月給は1000人民元程度、給料の半分以上田舎の家族の為にとっておく工員が殆ど
それで家族に新しいテレビや携帯、コンピュータを買ってあげるんだ
そして少しでも昇給しようと真面目に働いている
月数千香港ドルのお小遣いをもらいクラブで軽いドラックをやっている香港の金持ちの息子と、俺の工場の工員を比べるのならば、自信を持って”うちの工員の方が幸せだ”と断言できる
強いて言えば日本の高校生 ”お前” よりも幸せだと思う

読谷村民と寄留民と嘉手納町民

本当に、恥ずかしい思いをした。



ぼくは沖縄県読谷村出身であり、現在も読谷村に住んでいる。
ここ10数年で沢山の『寄留民』が村内に移住してきた。特に福島原子力災害以降の増加が目立つらしい。
※別の土地から引っ越してきた人の事を「寄留民」と沖縄では読んでいるのですが、昔は差別的な意味を含んでいたみたいですね。でも、ここでは一般的に沖縄で使われている「寄留民」という言葉を選びます。ここで使われている「寄留民」にネガティブ要素は含まれていません。



ぼくらの村をわざわざ選んで住んでいるのだから、恐らく村のことを嫌いではない。地元民として、正直うれしい。



然しながら、ぼくの村は暫し閉鎖的な側面もあることは事実。
「寄留民」の方々もそう感じている人はいるだろうし、ぼくが村出身者として村の内側から見ても排他的な村民性と疑われても仕方がない場面に遭遇することもある。




つい先日、隣の嘉手納町の町が管理する施設を利用する機会があった。
嘉手納町は金持ちなので、町が運営管理する施設のクオリティが結構高い。
そこでの出来事なんだけど、恐らく嘉手納町民(施設スタッフ)2人が以下のような会話をしているのが耳に入った。


断片的だったので、要約するとこんな感じ

読谷村民は閉鎖的なのに、人の所にはズカズカ入ってくる。
・利用する比率が嘉手納町民よりも読谷村民が多い日もあるんじゃないの?
・そのくせ、村内の寄留民とかには冷たい。


その他、村民として耳を塞ぎたくなるような話が聴こえたものの。。。
正直、村民として言い返す言葉が出なかった。




いや、思いつきもしなかった。




残念ながら、読谷村にはそんなところもある。




「寄留民」と地元民が一緒に笑って生活するにはどうしたら良いのか?
嘉手納町に迷惑(?)がられている事実をどう回避するのか?
行政サービスのとても大事な仕事のテーマでもあると同時に、各村民が意識しないといけないと感じたのでした。



※村内の部落で相性が悪い部落同士があるのであれば、各々、愛嬌でカバーしましょう。

パーティでの出来事、深センにて。

深センにいます。
昨晩、深センで少人数のパーティに参加しました。
全員デザイン関係。北京の大学の先輩がいたり、日本や海外に留学経験のある人たちばかりだった。

以前、作家の佐藤優氏が海外のインテリと話をする時、村上春樹の話題はよく話に出るといっていた。
それを聞いて、小説をあまり読まないぼくも、村上春樹の新作が出る度に彼の作品を読むようになった。
実際、ある程度教養がある人と話しをする際に、村上春樹作品の話題は高い確率で話に出る。相手と親密になるきっかけと潤滑油の役割を村上春樹の作品は担っているのだ。


昨日のパーティでは村上春樹作品以外にも、日本の文化を贔屓している人たちが多く、平家物語の話から、SUBARU(中国でコアな層に人気)のレース活動の今後、満州国中国東北部に残した、文化的な生活や、美術品まで話題にのぼった。
※いきなり中国語で「祇園精舎の鐘の声……」と言われた時には、何の事だかさっぱりわからなかった。ぼくは日本史の教養が全く無いので、平安貴族の没落具合がどんなに侘しいものかを話されても、イマイチ理解できなかった。無念。


その中の一人が、あくまで日本に一度も行ったことがないけど。と断った上で日本との出会いについて語り出した。

彼は70年代生まれの社会的に成功を収めたちょっとイケてる中年グラフィックデザイナー。

はじめは、日本人は残酷でイカれている民族と信じていたので、どうやったら同じ人間がここまで鬼畜になれるのか?を知りたいがために、日本史を勉強したり、大陸では手に入れることのできないような日本視点の歴史を調べたり、日本の和歌、純文学からSF小説まで読んだりしたそうだ。

彼曰く、日本を知れば知るほど日本人が人類史上もっとも残酷で凶悪とは到底思えない。今こうやって話しをしている、日本人のあなたが中国で一般的に語られる残忍な日本人と同じ民族とは到底思えない。そう感じるそうだ。しかし、ここまで自発的に日本の事を知ろうとする中国人は稀だ。

国家間の信頼関係の構築は、トップだけがやるのではなく官民問わず、文化交流やビジネスでの交流などの小さく細い毛細血管のような人と人との繋がりの束が国家間の信頼関係を築いていくものだと。ただ、なんとなく、なんだけど、少し胸が熱くなった。


※漫画太郎の作品が中国で圧倒的に出回ると、日本人はやっぱり人類史上最もサイテーじゃねえか!ってなるのかな?!

アカの他人とお漏らし〜大陸鉄道編〜

お久しぶりです。僕は今、中国深セン市にいます。昨日までは上海市にいました。
中国はネタが尽きないのでブロブ更新します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

海南駅から深センまで、無慈悲な大陸列車の旅をまた決行。
(前回の無慈悲な大陸列車の旅)
然しながら、大陸はそんなに甘くない。30歳を越えてもなお、列車の旅を行うのは経費の圧縮が一番の理由だが実際、怖いもの見たさの部分も多少はある。

列車内の様子は前回のデジャブーなので今回は上海南駅で列車に乗る前の出来事を紹介しよう。

 列車に乗り組む45分前に、僕は既にウェイティングエリアでペプシを飲みながら20時間越えの長旅のシュミレーションを脳内で反芻していた。
隣では、乳飲み子を抱える僕より少しだけ若いとみられる田舎の女性が幸せそうに座っていた。
彼女はこの乳飲み子の母親らしく、列車に乗り込む前にその乳飲み子にオムツを履かせようとしていた。
この乳飲み子は、最近上海ではなかなか見かけなくなった、ケツの部分がまる開きのズボン(开裆裤)を履いていて、母親は列車の中でそのままおしっこやウンチをこの乳飲み子がまき散らさないようにオムツを当てようとしていたのだった。
※ケツ部分がまる開きズボンとは。本来、子供が何処でもすぐに排泄が出来るようにした、幼児用ズボンで、そのズボンを着用中の時は基本下着は履かない。中国語では『开裆裤』

その乳飲み子はオムツを履き慣れていなかったのだろう。母親がオムツを履かせようとした瞬間、まるでなにかを嫌がる子犬のように暴れだした。なかなか、一人で履かせるには難しいと考えたらしく隣に座っていた僕に助けを求めた。
『この子を抱っこして。暴れないようにキツく抱いてほしい。貴方が抱いている間に私がオムツを履かせるから。』
断る理由もなく、僕は二つ返事で了承した。
先ほど、暴れているのを見ていたので、僕は乳飲み子をキツく抱くことにした。母親から乳飲み子を渡された時、最初の数秒は乳幼児とは思えない力で反抗していたが、すぐに身体の力が抜けて大人しくなっていくのがわかった。
それを見てひと安心した母親がオムツと新しいズボンをカバンから取り出してこの乳飲み子に履かせようとした瞬間。この母親の顔が真っ青になった。
それと同時に「アイヤ〜〜っっ!」と悲鳴を上げた。こんな至近距離で「アイヤ〜〜っっ!」なんて叫ばれると、こっちのほうが気が動転する。意味分かんないし。

母親が直ぐさま乳飲み子を僕の腕から取り上げた時、腕に『ヌルっ』っとした感触を覚えた。
そう、この乳飲み子は母親の手を離れた数秒間、ぼくのスラックスの上にウンチをしていたのだ。
乳飲み子なので、基本下痢っぽい。
悲惨だ、ぼくも瞬間風速的に母親と同じくらい大きな声で「アイヤ〜〜っっ!」と悲鳴を上げた。

母親に抱えられた乳飲み子はそれでも下痢を止めない。止めないので、母親は両腕を伸ばし出来るだけ、母親の身体と乳飲み子を離しにかかった。
乳飲み子はご機嫌。ダラダラと糞が流れ落ちる。んっ?!ん〜〜っ!!本日3回目の「アイヤ〜〜っっ!」である。

その流れ落ちる下痢の下には僕の旅のお供のスーツケースが。。。勿論、スーツケースも下痢まみれしかも、途中からこの乳飲み子は放尿もするわ、中には大事な商品が入っているので中まで糞尿の影響が無いように祈った。(後で確認したら中は無事でした。)

母親は烈火のごとく乳飲み子を叱りつける。当たり前だが、乳飲み子は一体何の事だか解っていない。母親は、僕に謝りながらも、乳飲み子を叱る。(どっちかにして)

そして、もう一人隣に座っていたおっさんが、助けを名乗り出て

おっさん:暴れる乳飲み子をホールド
母親:乳飲み子のケツ拭き及び乳飲み子の着替え
ぼく:床とベンチに飛び散った乳飲み子の糞尿掃除

と役割分担をし、マッハで自分の負担分を完遂。さっさとクソまみれの服を交代しにトイレへ向かったのだった。
クソまみれのスラックスは即捨てた。Tシャツも捨てた。そして、短パンと違うTシャツに着替えてウェイティングエリアに戻った。まだ、乳飲み子が暴れて、着替えがなかなか進んでいないようだった。僕はiPhoneを取り出し写真を撮った。


『写真は 上:暴れる乳飲み子を抱えるおっさん 下:母親に烈火のごとくキレられても憮然とした態度のケツを拭かれる乳飲み子。写真背景には糞尿まみれになった僕のスーツケース』


 無事、着替え終えた乳飲み子を落ち着かせるために、母親は何も躊躇もなく左乳房を僕とおっさんの前で露呈し乳飲み子に乳首を咥えるよう促す。そこにエロさは微塵も存在しない。
20代(たぶん)なのに垂れ下がった乳房が子育ての過酷さを物語っていた。

おっさんもなんの躊躇もなく乳飲み子に『おっぱい吸えよ〜♪』と可愛い声をかけていた。

ぼくは列車に乗る前からもう既にクタクタ。
『早く飛行機に乗って移動できるよう、稼がなければ』と誓ったのだった。