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2011-12-01

[]DOCUMENTARY of AKB48


ぼんやり考えた妄想です。

AKB48における、ノースリーブス渡り廊下走り隊Not yetは、スマイレージももいろクローバーZ東京女子流に当り、AKB48ハロー!プロジェクトと同じ位の意味であるという前提での話なんですが。

派生ユニットって多分、魅力の見つかった順番だと思ってんですけど。これと濱野さんの初音ミク政治家にって話を合わせると、俺政治云々はよく分かんないけど、人材の発掘/育成/派遣を兼ねた会社になんじゃねえかなと思って。

少し前までは俺も、AKB48が今一番キツイのは人材流動性が担保されていない部分だと思ってて。匿名少女固有名を持った一つの人格存在になったら、入れ替えないと、一部の人間をヒロインにしただけで、それが終わったら、プロジェクトそのものも終わってしまうと思っていたからなんですが。

AKB本体を通して発掘/育成されるのは、決してアイドルに限らない、と感じてるんですよ。単純にモデル女優バラエティタレントなんかは、既にやられてますし、メンバーが考えたグッズやメニューっていうのもありますよね。少女女性になる過程を第三者に見てもらうことで、何に向いているかを発掘される場所ならば、機材運搬、舞台演出に向いている人や、企画/営業に向いてる人や客商売に向いている人材も発掘されるんじゃないかなって思ったんですよ。

衆目が集まる現場に晒される方が、漠然大学に行くよりも、寧ろ安心安全。お父さんも心配無し!手に職もつきます。的な。

例えば、AKB専用のコンビニで同世代の女の子達で売上を競わせてさ。セブンイレブンよりも店員が可愛い握手ができるみたいなのって今のCD on 握手券のことだと思うんよ(いやローソンの子の方がかわいいとか言い出す奴もいるだろう。既にそうか)。ザックリ言えば看板娘ですよね。

その売上がそのまま劇場ヒエラルキーになってもいいけど、単純にバイト代が上がってもいい。ただ漠然バイトしてる奴よりも、数倍出来る店員が出来上がるでしょうに。だって、店のために頑張る、結果が出れば給料として本人に還元される。ってできてる会社いくつあんのって話で。ただ24時間は難しいだろうなあ。強盗に狙われやすい店作ってどうすんの。

ただこういう事をしだしたら、金権主義のAKB地元コンビニ潰しにきた。って言われるかもしれない。外から来て定住してない奴らが街を荒らして、ダメなら撤退されたらかなわんみたいな。でもそれって、今のフランチャイズコンビニ個人商店にしてきたことじゃね。むしろセブンイレブンよりいいんじゃない。それと不細工はバイト先も無くなるのか。っていうのも多分あるだろうな。いや今でも顔が選考基準だったりするからな。

いやなんかAKBシステム使ったら、既存社会構造よりも効率良くなったりしねえかなっていうね。キッザニアAKBが同じようなね。いや実際やったら、研究生負担パないだろうし、やりがい搾取ガンガンいこうぜって感じになっちゃうかもしんないけどさ。

2011-11-13

[][]アイドルブームと子育てアウトソーシング


今年のアイドルブームを眺めていて気になった話として、アイドル消費の多様化が外に認知され出した事がある。その中でも、揺るぎない勢力だったベタな擬似恋愛が接触/認知だとするならば、音源/在宅(Ust)、ライヴ(Ust)/コール、振りコピなどなど、アイドルおたくとイクォールで結ばれるイメージがより一層広がった。その中でも、擬似親子消費について少し考えてみたい。

例えば今年も多くのスキャンダルが、俗に言うアイドルにかかわらず、憶測を含めファンを悩ませたが。上に書いてある通り、消費の形態がどんどん増えている事で、スキャンダルとの距離のとり方もまた多様化した。が逆に一人ひとりのファンとアイドルの距離は、握手会の例を出すまでもなく、ブログTwitterで話しかける位変化し、また一人ひとりのファンが自分アイドル消費を公や直接本人に表現する手段も多様化した。つまり、ファンの怒りや憎しみもまたアイドルに届きやすくなった。

一人でもお父さんはウザいのに、何万人ものお父さんに見守られ、干渉され、説教される辛さは中々経験できないかもしれないが。素人でもブログ炎上したり情報サイトで取り扱われ、急にその立場にぽーんと投げ出される可能性は常に秘めている。アイドルオタに関わらず、誰もが自分アイドルであることに無自覚ではいられやしない。アイドルを覗いている時、アイドルもまた自分を覗いているのだ(?)。

年頃なんだから彼氏くらいはっていうお母さんは、この擬似お父さんとの間に入って「まあまあ」と守ったりはしてくれない(その話はお母さん消費とジャニーズ/ヴィジュアル系の時に)。やはり本当のお父さんとは決定的に異なるのだ

逆にアイドルアイドルのオタであることを自称し、キャラ化することは当たり前になっているし、アイドルとファンの境目は事実かなり曖昧になっているといえる。


こうしてアイドルとファンの関係を、一方的なお父さん消費と見なおした時に、カレログも、Ustも、アーカイヴから過去プリクラ掘るのも、それに対するコミットの仕方や態度が違うだけで、根っこにある動機は同じなのかも知れないと思うに至った。

例えばお父さんは、娘の安全の為なら後ろめたさを厭わず日常監視に(擬似的であれ時間を)課金しているということなのではないか。課金さえすれば気軽にコミットできるし、アイドル個人を傷つけない限り(多少周りの空気を悪くした所で)決してイケナイ事でもない。だがだからこそ、こちとら金払ってるのに(父にとっての)安全(つまりセックススキャンダル)が保証されなかった事に憤るのではないか。

誤解を与えてしまったとしたら申し訳ないが、これはキモオタうざスwwって言いたい訳ではなく、むしろそんな人に限って(無自覚に)芦田真奈ダルビッシュmixiの擬似お父さんだったりしている訳で。つまり、アイドルからとか、おたくからとかいう話ではなく。今起こっているアイドルブームは、アイドルじゃなくて、貧困時代子育てブームなんですよね。


話は少し変わってしまいますが、このアイドル消費(の一形態)=子育てアウトソーシングという話で、孤児院へのタイガーマスク運動を思い出した。変な意味じゃなくて、貧しい子供を養育し、写真手紙が送られお父さんになるっていうのも、アイドル文化の文脈を借りると見え方が随分変わって見える。もしかすると、最もエクストリームアイドル事務所はあしなが育英会かもしれない。CD写真集っていうマテリアルに対価を払っているワケじゃなくて、パラメータの回復時間を短縮するように、アイドルと共有する時間課金するシステムから、何枚も同じCDを買うという言い換えも出来るのかもしれない。課金には上下の際限がなく、誰が偉いとか○○だからダメだとかいった縦割りの関係性をキャンセルし、同じものを楽しめるといった時代の空気を捉えているといえる。


ちなみに、K-POP外人からか成人感があるからか分かりませんが、そういった不安課金で紛らわす擬似親子関係を築き辛いイメージがある。言い換えれば、出来上がっている作品が、中の人間の不祥事云々によって、価値上下しない。その代わり物語コミットして操作(プロデュース)している感覚が薄い部分もあるかもしれない。

そういう意味国外を作品、国内ゲームと見ることも出来るかもしれないが。ここには韓国人の(擬似的)お父さんの目線が抜けていて、韓国にも熱愛への義憤や過去恋愛ググる文化はあるわけですけどね。


ラブプラスとアイドルマスターの話を入れるのを忘れてた

2011-09-06

[][]体験するアイドルから音楽ダンスについて7 -人力初音ミク。-


体験するアイドルから音楽ダンスについて

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もう出し尽くしたと思ってたんだけど、もう少しだけ今のアイドルってこう言う風になってるのかなってはなしをば。ではホラー唐突に始まります

前山田健一変名ヒャダインが、何故アニメファンから好かれないのかは、彼自身の言う「良い楽器」を本人が持っていないからじゃないか。これはアニメファンという「場」に特徴的ですが、良い楽器の音は聞きたいが、弾いてる奴の顔なんか見たくない、作家性ではなく身体性を求めているという欲望の表れで(声優の多くは作家作詞作曲をする)。例えるなら声優ファンタジーだが、前山田の声は実写だということだと思う。


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そして本人もそれを知ってか知らずか、自分の声を加工するヒャダル子といったペルソナを持っている。これは神聖かまってちゃんが声を変える(ファンタジー/二次元に近づく)のと同じで、自らを初音ミク化/人力初音ミクにするということ(逆にアイドルの側からかまってちゃんをやるとBiSに代表されるDIYアイドルになる)。


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人力初音ミクといえば、渋谷慶一郎口ロロ声優を呼んできてやっている作品、そしてなんといっても相対性理論が思い出される。また前山田健一は自らと同時に、ももいろクローバー私立恵比寿中学といったアイドルや、麻生夏子ゆいかおりといった女優/声優をもシーケンスしている。彼は女の子の声を加工しない事で、自分の声を加工しているわけですね。


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もし彼女たちを楽器見立て前山田健一NARASAKIバンドだとしたら、それは彼女たちを通して実写の作家を見ていることになる。我々はアイドルが好きなのか作家が好きなのか。個人的にはももいろクローバーを見ている時に、作家を消費していると感じたことはないが、この事を常に突きつけられ続けている事は確かで(オトナが仕掛けた罠をくぐり抜けっていいますしねえ)。逆にこの緊張感が無かったら面白く無いのかもしれない。しかし、自分ももクロの新曲を聞く度に毎回感じる「またももクロの勝ちか」という思いとも重なるのだが(彼女たちが宮崎駿なら脅かしてみろよって言うでしょうねえ)、ここにおいて何が勝ち負けなのかというと。音楽で言えば楽器という特性の持つ限界のようなもの


90年代音楽進化がそのまま機材の進化に置き換え可能になった時、そのアンサーとしてROVOなどの隆盛によって人力トランスというワードが流行り、ポストロックエレクトロニカを経由しその後のマスロックを準備したという文脈があり(雑ですが、機材はアイドルの身体性。人力トランスは人力初音ミク)。

まり何が言いたいのかというと、アイドルというのは、プロデューサーアイドルの身体性を引き出しているわけではなく、同時にプロデュース側もアイドル作家性を引き出されていて。このバランスのせめぎ合いで少しだけアイドルが勝つのが(コドモがオトナに勝つ)、アイドルの魅力なのではないかということなのでーす。


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そのどちらかが突出してしまうと途端に白けてしまう。例えば、しょこたん前後に「〇〇アイドル略して○ドルです」という慣用句で界隈は敷き詰められていたけれど、そこには自己プロデュースの荒野しか見えなかったですよ。たまにアイドル自分歌詞を書く時に一斉にガッカリしてしまうのもその為。だからといって、みんながみんな秋元康バリネームバリューで仕掛けを引っ張ってこれるわけでもなく、結果アイドル冬の時代に比較安価ライヴ(地下)アイドルがすし詰め状態になるのも頷ける。この文脈を逆に読み解けばゴールデンボンバーの説明にもなる。アイドルの身体性を人力MMD的にシーケンスし、曲は書くけど、もっとうまい人に弾いてもらう訳ですから


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今は楽器で例えたから音楽の話をしているように見えますが、これはプロデュース全般の話で。楽器じゃなければ、例えば早すぎて乗りこなせない乗り物。作家に限らずプロデュースする立場の人間たちは、自分は乗りこなせないが理論的には可能な筈の夢の乗り物を作っている。だからこれはある種勝負。もしかすると女の子を殺してしまうかもしれない勝負。音楽の話を切り離せばAKB48プロデュースもこのアナロジーで説明可能。なぜ総選挙にドキドキしてしまうのかといえば、乗りこなせなかったら死んでしまうことが分かるから総選挙において、何位以内に入らなかったら何票以下だったら、自分アイドル足らしめるインフラの底が抜けている事を自覚することであり、やはりそれはアイドルという自意識の死なのです。しかし身体が擦り切れながらも最終的にプロデュースを超えるから震えるわけですよ。


この様に、私自身がアイドルアイドルたらしめるアーキテクチャに語りを引き出されてしまう事自体が、私が負けたことを象徴しているわけですね

2011-08-11

[][]アイドルは死んだがキャラバンは続く


アイドル概念自体は既に死んでいる。誰もが自分メディアを持ち自己プロデュース出来る時に、アイドルとは生活の中に自分発見するモノであって。それのパッケージ化―カタログ化―が美少女図鑑美人時計美人すぎる素人。そういう意味で、アイドルは居るけどいない、霊のようなものだといえ。見えないものを見ようとするその目が、ただの人間アイドルたらしめている。


それはアイドルの単価辺りの価格が著しく下がったということでもあって、どれだけ売れていてもアイドルは、カリカチュアライズされたごっこ遊びと本質的な差異が無くなる。一人ひとりが自分だけのタイムラインをセカイと認識した時、国民の総意としてのアイドルは、その役目を終えたと言える。すなわち、それでも今アイドルをやるということは、本人がやりたいからやってる、とファンが言い訳出来てしまう所があって(事実そういった側面は大きいがポップは縮小しても消費財)。この期に及んで、本人のやりたくない(かもしれない)事をやっているってことは、ファンがやらせているという事で、自分レイプである(かもしれない)姿を鏡写しにするセクシャルな活動は見たくないのかもしれない(セクシャルに的を絞らなければ、ネタ選考型で本人が置き去りになっている活動は、運営のドヤ顔ウザスになる)。


この時に、うしじまいい肉が逆説的に浮かび上がる。セクシャルかつ本人がやりたいからやっている(ように演出された)人の極北であり、森万里子パフォーマンス・アートの文脈でも捉えられる(この間に熊田曜子ほしのあきだったり中川翔子仲村みうといったグラデーションが見える)。

セクシャル男性原理によるハラスメントはべつに、男だけに実行権が握られているわけでもなく、開かれているのだ。特定の性的嗜好を持った男性がいやがっている女性しか興奮しなかったとしても、そこにあるセクシャリティは演出でしかない。殴ったら殴り返されるのだ。この人痴漢ですと手を取られたら主従関係は逆転する。そういった男性セクシャリティ暴力を、小学生女子に奪われるのが、漫画/アニメ作品『こどものじかん』だと言える。冤罪だとしても。


ウーマン・リブ運動でも、マドンナでも、おされヌード(セルフ・ポートレート)でも、ある種ネタ対象としての側面も引き受けつつ―受け流しつつ―、長年セクシャリティの実効支配権を巡る争いは連綿と続いてきた(そんな知らないのでサラっとだけ)。ある文脈に置いては、AVも主体的に選ばれる選択肢の一つであるだろうし、ヌードも若い内に美しい体を残しておきたいという、客体が取り除かれた自己表現としての側面を持つし(抑圧もあろうが)。セクシャリティの、客体から逃れ主体を獲得する歴史においても、うしじまいい肉のセクシャリティはラディカルに映る(昔ワンダフルという番組を見ていて、男を食うと表現していたのを聞いて、こりゃあ大変なことになって来たゾと思った記憶がある)。ということは、恵比寿マスカッツピチカート・ファイヴかもしれないのだ。


話を戻すと。アイドルも運営も、なにを言われようとやりたいことをやってよくなった。愉快なら見るし、でなければ見ない。その位、敷居は低い。アイドルマスターよろしく、やりたきゃ自分勝手アイドルを消費する。オリコン○位は即ちモチベーションに繋がるけれど、定期イベントの一つであって、実は何位であっても見たいから見てるに過ぎない。ランキング圏外だから興味がないって人は、一位でもお金を払わないだろう(勿論知ってる/知らないっていう認知度はあるだろうけど、検索技術twitterフォロワーの偏りでかなり左右される)。金払ってんだから文句言うぞってのはもうお終いでいいじゃない。誰もがオブセッシブに振る舞う必要はない。ただそこに存在しているだけで、会いに行く日もあればケーキ食う日も映画見る日もある。するとアイドル映画館レストランとも並ぶ(という言い方をするとAKB劇場を思い出すだろう)。

例えばあなたが毎日通うコーヒーショップにタイプの異性(同性)店員がいたとしよう。毎日通っている内に、お昼の休憩の為にショップに通っているのか、店員に会いたくて通っているのかは漠然とする。その時に購入するコーヒーと、アイドルの握手会参加券を有したCDを購入することに違いはあるのだろうか。はたまた何の気なしに入った隣のバーガーショップの店員が、コーヒーショップの店員とはタイプの異なる、だがしかし確実に心をつかむチャーミングな店員だったとしたら。

我々がショッピングモールに行き、どの店に入るか/入らないかは自由なのだ。同時に近所で馴染みの店で買い物をするのも、生活を圧迫しない程度にはライフスタイル選択の自由だ。


そうなるとアイドルの全てを消費する、大作RPGスタイルではなくなり、本人たちは常に初めてのお客さんを相手に敷居を低く設定するだろう。日常生活の隙間に、小さな物語の断片を消費したりしなかったりする、例えるならばモバゲーグリー的なものになるのではないか(んでそういったものとしてUstを活用できている女子流ちゃんヤバす)。


といった変化を、好き/嫌いから快/不快の時代になったと捉え、社会の根幹をなす思想的な概念が変わった/変わっているのではないかという仮説が思いつく。例えば嫌韓なんて文字通り好き/嫌いで、嫌なら見なきゃいいってのは、快/不快。といったように、今起きている対立の多くは、この思想的対立が根幹にあるのかもしれない。好き/嫌いによって強く紐付けられる〜しなければいけないっていうのは最早幻想しか無く、各々の個人的問題でもなけりゃやりたくてやってる人を、見たくて見てるだけで、必ずしも男性原理女性原理も強者じゃない。開かれたセクシャリティとどう出会い消費するかは、少なくとも受け手にとって自由になったと言える。言い過ぎた


本当はそんな事全く必要ないと思うが。もし今アイドルを再定義するとしたら、日常生活乱数で入り込むバグや隠しキャラ(はたまた幽霊お化け)のようなものだろう。彼/彼女たちは、社会に潜んだゾーニングを超えた日常の侵略者なのだ(デデーン)

2011-07-28

[][]体験するアイドルから音楽ダンスについて6 -音楽ダンス-


体験するアイドルから音楽ダンスについて

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そういえば最初の問題定義のアンサーをしてなかった。折角アルバムも出たし、前山田健一を主としたももいろクローバー<Z>の楽曲ダンスを紐付ける話が出来ればと思います。いやアルバムの話はしないのですが、アルバムへの導入・助走としてうかつに切り捨ててられない、そもそもなんでこうなってるかを分かりやすく説明できるよう頑張ります。またどうせ長くなると思いますが、最後までお付き合い頂けたら幸いでございます。


まず自分語りしますね。御多分に漏れ自分も怪盗少女入り口になった口なんですが、正直最初に聞いた時は、奇抜だけども最近アイドルはこげな変な曲もやるのか、ただ(他の曲は別段カッコイイと思わないし)奇を衒って変になってるのかな。というイメージでして、今よりも距離をとったジャブを打ってました。

んで、伝説の誉れ高いMJのライヴなんですが、この時はYouTubeで聞いた時に比べ届いたんですね。

今なら分かりますが、もし彼女たちがアイドル史を本当に更新したのだとしたら、彼女たちのダンスが曲を牽引している部分が非常に大きいと思います。この力関係は今でも変わらなくて、個人的にはPVよりもライヴの方が断然ショックが大きい。

そこから行くぜっ!怪盗少女を何回も聞いて自分なりにこの曲を納得させる過程で、これJ-POP最先端だろという興奮に体がガタガタ震えてたんですけども。それは同時に、自分なりの答えを裏付けるように新曲が機能する、という意味でもあり確認作業になっちゃう恐れもあったんです。が、次に届けられた曲がTOKYO IDOL FESTIVAL10でやったココ☆ナツな訳ですよ。コチラの甘い予想を完璧にブチノメスバカ曲。それ以降は、混乱と同時にももいろクローバーの事しか考えられない期に突入ですよね。なんですよ。


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少し迂回しますが、自分ヴィジュアル系音楽が好きだったりするのですが、この頃よく聞いていたバンドは、今や当たり前の前提にすらなってしまっているんですが、クラブカルチャーのサウンドじゃなくて、その構造バンドアンサンブルに落とし込んでいる部分で。具体的に言えば、一曲の中で複数の曲をMIXして繋いでいるような所なんですが。その断面がクリアに見えると、転調やプログレっぽいとか言われたりするのですが、そういった洗練とは何か異なる、好きな曲の好きな部分だけ繋げたら最強じゃねっていう。これがヴィジュアル系シーンの安直スクリーモ化に食傷気味だった自分にはまったんです。以降そういったバンドを掘るのが趣味になったというお話なのですが。これが、前山田健一の怪盗少女分解の時に非常に役立った。


前山楽曲はそれどころじゃなく、更にカットの精度が細かいエディットが施されているという部分が最初に耳に飛び込んでくるのですが、あえてとか狙ってだと思っていた部分が、彼なりの快楽原則に従っていることが同時に浮かび上がってきて。すると今までナメてた部分が単なるポップソングとしてちゅるっと耳に入ってくるようになり。言葉は違うのですが、つまりこれは日本のフックソングなんだと思ったわけです。K-POPの文脈で語られるフックソングは、むしろココ☆ナツの方が近いのかな。ちげえか。ええと、だから前山田さんの曲にはフックしか無いんですよ。それが普通美メロとか泣きの旋律とかに行きがちなんですけど、前山田さんはモーニング娘セクシービームとかホイッだけで、一曲にしちゃっているような所があって。玉ねぎの皮を一枚一枚向いていったところで、コアの部分が無いんですよね。いつまで経っても断片のアイデアフェティッシュしか見つからない。これってベタ楽曲に落としこむとandymori的なものになると思うんですよ。


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簡単に言うと、やりたい音のやりたい所だけやってサッと曲を終わらせちゃう(コレが彼らの魅力の全てという事では勿論ない)。でもこれが同時にロック足枷を浮き彫りにしていると思っていて、やりたい部分だけだと曲じゃなくアイデアにしかならないので、最低限のABサビCって構造だけはいじれない。しかしそれさえうっちゃれば、全部サビ、全部好きな所みたいに出来る訳ですが。これをどうやるかが問題だったわけですよ。


いやPro Toolsとか初音ミクとかとっくにあったし、ダンスカルチャーナードコアの文脈で、エディットとかカットアップものはそれなりに聞いてたつもりなんすけど、アイデアの手触りこそ最初は惹かれたものの、どこか大喜利になっていっちゃって暫く聞いてなかったんですよ。だからtofubeatsRemixとか入ってるのは、分かりやすくソコの文脈だと思いましたし。

ただポップソングにしてはアイデアの数に比べいかんせん長い。いっとき楽曲がCDからmp3に変わっていく過程で、曲は長くなっていくなんてどこかしこで耳にしましたが、前山田さんのアイデアはホント剥き出しのゴロッとしたアイデアで、お膳立てもフォローも一切ないんで、たぶん一曲に30曲とかそれ以上のアイデアが詰まってるんだけど、曲は4分程度でまとめてくれるんですよ。これって、いわば一曲が5秒とか10秒になってるってことだと思うんですよね。自分前山田さんの作るポップソングの経年変化を説明する時にいつもする喩えが、フリッパーズ・ギター→(ドラゴンアッシュ→)オレンジレンジ前山田健一なんですけど、これは一曲が包括する曲数が上がっているという話でして。前山田さんの作曲で一番感動しているのは、オレンジレンジまで存在していた元ネタ地場に縛られていない所なんですよ。フリッパーの頃は、完コピとか原曲への愛とか元ネタディスクガイドみたいな文化があって、DAになるとサンプリングオマージュ文化になって、レンジの頃はうろ覚えメロディへの無邪気なアクセスになり、ついには誰も前山田健一楽曲元ネタについてなんて気にしなくなった訳ですよw。ばんざーい!パクりだなんだってガタガタ言うやつを相手にしなきゃなんないくらいなら、元ネタとかどーでもいいよー。

かしこれは、前山田健一ヒャダインとして培ってきたエンターテイメント性だったり、ナードコアだったりキャラソンの文脈を背負うクリエイター前山田健一さんへの評価であって、別の人や自分に書いている曲とももクロの曲にある決定的な違いによって、もう前山田ヤベーからアイドルは別にいーやとは思わせないんです。


1でも話しましたが、自分ももクロライブを見て始めて、本当の意味アイドルが歌って踊る意味をつかんだと思いますし、それを体現し続けているグループだと考えています。それは以降mp3だけで聞く音楽が全て色あせてしまう程の革命で。以前まで遡って、様々なアイドル音楽ダンスシンクロさせる為にどのような経緯を経て、Pufumeや少女時代がどういったステージで戦っていたのかに、遅ればせながら気付かされ。それについて、この連続アイドル語りで多少語ってきました。この体験は感動でなんか語らないとあふれ出る勢いだったんですよ。

自分は前のシークエンスでロック足枷の話をしましたが、優位性もその一方である筈で。それは最初の方にも書きましたが、アイドルちゃんは自分で曲をかかないしアレンジを考えないし楽器をつかって表現をしない、という思い込みに端を発していた訳です。しかし、実際に見たライブは全く異なっていて、彼女たちの振りやフォーメーションのひとつひとつが、楽曲をまさに演奏することでライヴさせている部分の感動だったのです。つまり、ライブ以降感じる音数の少なさは、彼女たちの身体性から出されるダンスの音数で。例えばこう手の動きがキックの裏のリズムになっていて、歌詞がその動きのコールアンドレスポンスになっていたり。また単純にファンの人達の声があることで完成する部分もあって、見る度に曲のアレンジが洗練されていくように感じたり。またライブに行く前までは全く興味のわかない楽曲も多くありましたが、ダンスを見ることで音の意味を変えて、踊っている人を見てやっと、だからここの音がこうなってたんだと分かるようなものも沢山あります。


つまりももクロの音を全部聞きたかったら、ライブに行かなきゃ聞こえないんじゃないかってことなんすけど。この感じって実はMC BATTLEに見出してたモノなんじゃないかって気がしていて。現場ロックしたもん勝ちってMJのももクロと同じじゃんみたいな。ただMC BATTLEって見てる側もやってる側も、リアルタイム作詞作曲をしてるようなもんだからハマると演出の施された音源に懐疑的になるし、ドメスティックなものにフォーカスを向け現場思考になるけど。落ち着いて考えりゃ音源面白いし、海外にも死ぬほど現場があるってのは当然で。現場って魔法がかかってて、演出を極力自力でしないといけないから本質が炙り出るみたいな気分に陥りやすい。だからここまでいっておいてなんですが、自分現場主義が苦手なんですよ。だから実際の土地を表す現場ではなくて、リアルタイム的なパフォーマンスってことだと思うんですよ。たまにももクロのUst見てると、口パクじゃないのがいいって言ってる人もいるみたいですけど、普通に口パクもオンマイクも両方ありますよね。でもそれによって、それを知っても関係ないですよね。ももクロの持つある種の暴力性って、こういう所に現れていて。例えば、事故みたいな生放送に相対したら編集クオリティも上がらざる追えないし、結果パンチラインだらけみたいな映画とかドラマアニメも出てくるわで、全部がももクロみたいになってるとか思えて。あと本・ブログで腰据えて書く文章に対した、Twitterとかfacebookだってそうじゃないか。現場でのみ体験できるパフォーマンス価値が上がってると思いきや、現場的なリアルタイム性を作品単位に落とし込める作家が、現実の場所すら相対化してしまっている。といった感じで一つのグループの中で現場主義作家主義がせめぎ合って結果生まれる総合的な何かが、ももいろクローバーの魅力なんじゃないかと。しかもももクロUstreamっていう武器があるので擬似的な現場を立ち上げてくれるんですよね。ももクロ楽曲ダンスが強くシンクロしたパフォーマンスとUstの相性って抜群で、一曲だけ歌うスタジオライブや、PVでは掴み切れないアイドル性の気付きを促してくれる。また椅子に座ってビール片手に見たり見なかったり、のめり込み過ぎない距離感があって、遠足の準備みたいにすげえワクワクしながら頭がフル回転するんですよね。


更に、某イベントにおける前山田さんのももクロ作詞作曲の話は、自分が考えてきたこういった話を裏付ける、どうすれば音を出すようにダンスを踊るのかの説明にもなっていて、核心を深めたのですが。例えばユニゾンの多いアイドル楽曲の中でも、ももクロは取り分け一人ひとりの声を聞き分けさせる曲が多く。これはアメリカアイドルに非常に似ていますが。最もわかり易い例が、今は脱退してしまった早見あかりの、歌が余り好きでないという個性によって、ももクロラップ進化してきた側面があって。それ以外にも彼女たちのキャラクターを知っていれば知っているほど、なんでそこでその部分をこの人がこの声で歌っているのかが納得できる話しをされていまして。声のディレクションなど自分たちで考えさせるようにしているらしく。実際に楽曲制作の際には面談をするらしいですが、声のディレクションや楽曲振り付けのアイデア出しも積極的にメンバーにやらせるという話を聞いた時には、本当に編曲やダンスレンジの作者なんだと逆に笑ってしまいました。


最後に、自分ももクロと同じスターダスト所属の、私立恵比寿中学(エビ中)っていうアイドルグループがほぼゴールに近いんじゃないかという位完璧に好きなんですが、その彼女たちの楽曲を手がけているのも同じ前山田健一なんですね。


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正直楽曲的にはエビ中前山田の方が暴走が徹底しているし、アイドルとしての武器を何一つ有さない最弱さと最強のタッグを組んでいるとは思うのですが。逆に唯一、前山田健一の作るポップソングに勝ってしまっているのが、ももいろクローバーだと思うんですよ(上記した鬩ぎ合いの部分ですね)。

Z伝説のおふざけにさじを投げてしまう言葉も眼にしますが、それはちょっと彼女達の実力を舐めてるんじゃないかと思うんですよね。俺あの曲フザケてるとかそこまでは思わないんスよ。例えばBLUE!の所とかって、アレがないと、もしあかりんがまだいたらここの部分は…っていう想像をしちゃうと思うんですよ。でそれって過去への憧憬で、この曲って震災ダイレクトに、しかしシリアスでなく、かといってそんな事起きなかった架空世界お話にもしてないじゃないですか地震の前の世界に帰りたいって世界観じゃ無い。地震は確かに起きたしビビるけど、それを前提に前を向かなきゃって所と、あかりんは抜けちゃったけど、って所を同時に歌っているからあのBLUEっていう距離感はこの曲には絶対に必要だったし、それって超マジでしょって思うんですよ。名前についたZだってそうだし。マジ=シリアスではないし、笑ってるからって舐めてる訳じゃないって、それ実生活でも同じだと思うんですよね。深刻な顔で難しい問題を語るばっかりがダイレクトに問題と向き合うってことじゃないと思うんですよ。アイドルガチアイドルらしい歌をうたうのがアイドルだってことじゃないと思うんです。そういうのが好きな人、好きなタイミングは自分もありますし。今アイドルひとつとっても、音楽以外でも、めちゃくちゃ沢山のエンターテイメントは有るわけで、好きなものの断片だけでトータルコーディネイトしてしまうようなモノだってガチなんだって勇気をもらえるんですよ。


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最後ひとつK-POPからAKB、地下アイドルまで抑制・抑圧のダンスなのに対して、開放・爆発のダンス採用しているももクロは特殊だって話。

抑制が効くと少女から女性へと変わるという話を以前しましたが、凄く若い東京女子流でさえも(コンセプト的に)抑制しています。このくらい若いと短期間で身長や体型に過度な差が出てしまう為、振りを揃えるのが難しいですし。フォーメーションが進化しているので、うまい人とうまくない人の差の間で、ダンスを揃える要請に答えた結果だという話は前にしました。

ももクロ採用している全力パフォーマンスのように、個人の実力の120%を全員に出させたら振り付けは揃いません。そのせいかフォーメーションの過程で、あえて横一列になり同じ振りをし、バラバラになることを憚りません。またそれがすなわち拙さにならないのが彼女たちのチャームになっている。つまりももクロダンスはズレが最初から予定されているのです。それは声・ユニゾンの話でもした、キャラクターと声のディレクションが紐付けされている事と全く同じ話です。

地下アイドルは、むしろ自分自分にかすアイドル性かくあるべき世界観に近づくことが自己目的化している側面がある為、理想とするゴールが端から違う。またAKBも地下アイドルの手法を取り入れているので、近い所もあるのですが、今の規模に置いてのメディア戦略でいえば最近話題になった江口愛美等から分かるように、システムのこと(流動性が高い)も人数のこと(規模が学校な上、共学ではない為、目が異性でなく同姓)も考えた上で(ゲームマスターには絶対に勝てないがゲームは続く)、個別のキャラクターよりもタイトルが上位概念に立っているという部分が突出している。つまりAKBはモンハンとかMMORPGですよね。MMORPGなら変えの効かない(融通の効かない)パフォーマンス足枷にしかならない為、誰かがやめたらできない振りはない。

そういった意味では、パフォーマンスの内実じゃない部分で少女時代に近い。あれヘアスタイルとか衣装が結構重要で、ももクロに比べるとAKBもソシも俯瞰で見て同じ人がたくさんいる群れですからね(勿論没入からの推しはありますよ。いやそれはアイドルじゃなくてどこにでも。松屋だったら俺うまトマ推しだし。そういう意味で全て株券ですよ)。

それらに比べると、ももクロは曲に限らずダンスも文脈がひもづけられたキャラソン化している、ということだと言うことが言いたいわけです。まあ印象だけで話してますけど。ももクロは殆ど二次元というか、三次元二次元に読み替える要請が強い事は確実ではないでしょうか。

そして殆どのプロダクトがそうであるように二次元的なアプローチは、抑制によって齎す事が当然のように振舞われていますが、舞台上のキャラクターよりも、むしろ日常生活キャラクターアイドルにしてしまう方が、二次元的になる一つの例だと言えるでしょう。

これは京アニ的な世界観受け手教育を促し、その客を信じているからこそ出来るプロデュースかもしれませんし。彼女たちの存在そのものがレアケースであることもあり得るでしょうが。個人的な見解としては、Perfume型の育成方法が普遍的に模倣可能だという証拠なのかなと考えています。Perfumeの時だって彼女たちはレアケースだと言われ続けてきたワケですからね。

一言でまとめれば、プロダクトとして売っているものが、頑張ってる人か、楽しそうな人かの違いですかね。俺はやっぱ、やってる人が見ている人より楽しそうなものにしか今は興味ないですよ。

もし本当にそうなら、Perfumeと違って決まったジャンルの無いももクロは、アニメがワンクールなように常に「作品」が変わり続けないといけないかもしれませんね。それでも釘宮さんがずーっと同じキャラをやってるように、作品が変わっても、中の人と共に作品を跨いだ物語を意外とちゅるっと受け入れる素地はもう出来上がってると思うんですよ


http://d.hatena.ne.jp/ATOM-AGE/20110906/1315312222

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