アーティスト・ファイル2009—現代の作家たち 国立新美術館

◆福永治(国立新美術館副館長兼学芸課長)セレクト
・大平實
木材のチップを使った彫刻作品は、どこかプリミティブな生命力を持っている。それは作家のメキシコ滞在経験と関係しているそうだ。その後も各地を訪れている大平の作品には、確かに生命力がある。しかし、グローバル化の中で成長著しい後発国における生命力は、現在ではもっと違った形で表れているように思われる。大平の作品に内在するムラ的生命力は今でも確実に存在しているのだろうが、それを表現するにはもう一つ進んだ直接的表現が必要なように思われた。

・金田実生
福永はカタログの中で、金田の作品における技術的な展開を詳細に記述している。そして、20年というキャリアの中で一歩一歩進歩していった彼女について「器用な作家ではない」「遅咲きの作家」であると言う。金田の作品には絵画に向き合う真摯な姿勢が見られる。淡い色と浮遊感の漂うイメージは、観る者に心地よさを与えてくれる。しかし、不器用な作家であればやはり戦略的な手法をとっても良かったのではないか。彼女の真摯な態度には非常に好感を持つのだが、それ以上のインパクトを与えるまでには至っていないように思われた。

・村井進吾
幾何学的に削りだされた黒御影石。鋭利にくり抜かれた部分に水が張られている。ミニマル・アートの中に自然の流動性を持ちこんだ日本的作品である。技術も高いし、作品の謂わんとすることも捉えやすい。それは村井の強みだ。しかし同時に容易に言語に置き換えられてしまう可能性を持っているという意味においては弱みでもあるだろう。

福永は作家の選出に当った職員の中で、最も長いキャリアを持っている。従って、その他の職員との差異化を図るためにも、比較的キャリアの長い作家を選出している。展覧会の内容から考えても妥当な選出である。そして、それら作品にはキャリアの分だけ、蓄積を見て取ることができる。その蓄積は現代美術の歴史に相当するものだ。従って、本来ならば作品同士を関連付け、その関連を歴史にフィードバックすることでストーリーが作られるべきである。そのようなストーリー作りが美術館の主要な役割の一つである。しかし、この展覧会ではそのようなストーリー付けは初めから意図されていない。よって、実際の展示でもストーリーは全く展開されていない。歴史性=ストーリーを必要とする作品群に、ストーリーがつけられなかった点に今回の展示の弱さがある。福永のセレクトした3作家の作品だけでも、詳細なキャプションを付けるといった対処が必要だったように思われる。




◆南雄介(国立新美術館主任研究員)セレクト
・平川滋子
国立新美術館の屋外に植えられた木につるされた無数のフリスビー(?)私が訪れたときは、透き通った桜色だった。このフリスビー状の円盤は日光によって、色を変えるそうだ。時間の変化、自然光の変化を作品に取りこむ作業に、我々は見せられてきた。そして、今でもその美しさには感嘆してしまう。自然破壊に対するアンチだ、などと言うことは容易いが、率直に作品の美しさを享受することが最も前向きな捉え方ではないだろうか。

・ペーター・ボーゲルス
グリッドの向こうに映し出されるのは、高尚な理論を展開する科学者の映像。手前の空間には、天井からつるされた複数のスピーカーが何やら一斉に相槌を打っている。スピーカーに近寄ると、映像とは無関係な歌を歌っているようだ。詳細については展示を見て頂きたいのだが、物事を共有することの困難さをシュールかつ理路整然と示している。

南がセレクトした2作家は「国際美術展的作家」である。どちらの作品も、今ある世界に普段とは異なる角度から光を照射することで、観る者の世界観を更新していくことが意図されている。それは、いまある世界へのアンチであると同時に、共有への渇望でもある。付言すれば、平川がフランス在住、ボーゲルスがオランダ在住であるという点に、居住地が喚起する「国際性」の存在を認めなくてはならないだろう。そして、「国際美術展的作家」の少ない日本の特殊性の存在にも気付かされる。



◆加藤絢(国立新美術館研究補佐員)セレクト
・津上みゆき
VOCA賞受賞、大原美術館のレジデンスプロジェクト参加と、近年活躍著しい作家だ。彼女の抽象的な作品は、内的体験としての風景画だそうである。気になった風景はスケッチブックに描きとめているという彼女の作品には、風景に魅せられた感動とその記憶を描きつけたいという衝動がある。また、膠を使った技法にも作家の画家としての理想像を見てとることができる。確かに力強い作家である。しかし、1950、60年代の氾濫以降、抽象画は受け入れられにくい。抽象画が必然的に要請する個性は、コミュニケーションを過度に志向する社会及びアート界にあって、(極端に言えば)見向きもされない。このような現状に対して、作家が取り上げたコンセプト=二十四節気は、日本の原風景を個性をとおして再現する試みである。ただ、こうした過去の歴史的コンセプトは、「三丁目の夕日」のようにノスタルジックな観衆によって、アッと言う間に消費されかねない。この危うさを防御し、反転させる作品を描いてほしい。


石川直樹
七大陸世界最高峰を世界最年少で達成した作家は、写真家になることを決意した。彼の作品には物語が存在している。それは、作家が意図したことではない。極限状態を何度も体験した作家の目は、無意識の中で風景に物語を貼り付けてきたのではないだろうか。そうして、物語というフィルターを通すことで、普段より8000メートルも近くから受ける直射日光から自らの目を守ってきたのだ。静かで冷たいイメージの中に、ゆっくりと浮かび上がってくる物語。その物語に、人間の本質を見たような気がした。


加藤のセレクトした2作家は、どちらも個人的体験を通して風景を切り取っている。しかし、「原風景」という言葉が流行らないように、風景を共有することは非常に困難になってきた。私たちの「原風景」はすでに都会のビルディングや、6畳の個室になってしまっている。2作家はどちらも直球で風景と向き合っている分、観光旅行的風景や捏造された風景にならぬよう、細心の注意を払う必要があるだろう。それは、技術的な問題でもあるし、コンセプトの問題でもある。ど直球で勝負するか、こねくり回して敵前逃亡するか。二人には直球勝負で通して欲しい(僕が言わなくてもそうするだろうけど)。



◆本橋弥生(国立新美術館研究員)セレクト
宮永愛子
ナフタリンで造られた靴。カフスボタン。時計。蛙。宮永の作品はあまりにセンシティブで観ていて苦しくなることがある。滅菌されたような白には、幾何学的な結晶をもつ素材の危うい完璧さが透けて見えて怖い。この危うい完璧さは、宮永が陶芸家の家系に生まれたことに由来するのだろう。いつ割れてしまうか分からない陶器を、完璧な形へと手のひら一つで作り上げていく陶芸家の心理はいかなるものか、想像を絶する過酷さだ。ただ今回の展示では、その背筋のぞっとするような印象を、衣装ダンスと林檎箱によってうまく緩和していた。古いタンスの引き出しにおかれたナフタリンの造形物は、私たちが永遠に続く時間にコミットすることを許してくれる。時間とその経過を意味する歴史は、ナフタリンの結晶のように危ういが完璧な幾何学性を持っている。しかし、時間はいつでも私たちを受け入れてくれるのだ。普段は箪笥の奥にあって感じられないけれど。

齋藤芽生
細い筆で描かれたキッチュアクリル画。そのくすんだ色と昭和の情景から、ノスタルジーを感じずにはいられない。最高で最悪な昭和。私には昭和の記憶があるから、彼女の作品に接続される。しかし、展覧会に訪れていた私よりも年下の鑑賞者たちも彼女の作品に見入っていた。特に若い女性が長時間にわたって詳細に見入っている姿が見られた。ドレスや下着、ハイヒールが四畳半の祠に祀られているように、彼女の作品には女性の聖性がある。同時に、都会の室外空調機のような機械性を、画面上に出現させる。すると、女性の聖性など解体されてしまっていることになるのだが、彼女の作品では、それぞれのモチーフが同一平面上で関連しながら、独立している。また、遠近を含む空間性もバラバラなまま、同一平面上に描かれることがある。恐らく、斎藤の意識では、バラバラに解体していくよりも、そもそも解体されてしまったものを繫げる意志のほうが強く働いている。それは、度々登場する花輪というモチーフや紐、電線、陸橋に象徴される連環から読み取れる。
73年生まれの斎藤には、オタク的感覚が備わっている。彼女の作品のはシリーズとして制作される。そして、例えば花輪シリーズであれば、全く同様の花輪という構図の中に異なったイメージを複数入れ込んでいく。構図には一貫性があるのだが、内容に一貫性があるのか、ないのか判断できない(斎藤にとっては一貫しているはずである)。換言すれば、構図によってメタ視点に立ち、自らの体験からくる昭和的なモチーフや女性的なモチーフを組み合わせて絵画を成立させているのだ。これは、オタク的データベースに似ている。そして、どす黒い赤には、動物的な匂いを感じてしまうだろう。
観る者によっては、彼女の作品を美術における平面化と、文芸やインターネット空間における動物化という、「逃げ」の行為として受け取るだろう。しかし、彼女は少なくとも彼女自身からは逃げていない。団地の片隅で嗅いだ死の匂いと、少女と女の間に存在する暗い赤色のベール、そして成すすべなく絵を描き続ける空白の色を、描くという行為を通して受け止めようとしている。
例えその行為が自己言及に過ぎないとしても、私は彼女の作品が好きだ。
そして、出口で購入できる四畳半おみくじを引いて気持ちよく家路につきました。


この展覧会で最も優れた作品を提示したのは、齋藤芽生だ。会場での観衆の反応や、ブログでの反応からも、この意見に同意される方は多いだろうと予測される。恐らく次点で、宮永愛子が来るのではないだろうか(勝負じゃないけど)。従って、ベスト・セレクション賞は文句なしに本橋弥生ということになる。セレクトを行った職員の中でも、一種の役割のようなものは決められていたはずで、本橋は最も現代的な作品を選ぶ役割に該当したのだと思われる。
2作家に共通するのは、ある種のキッチュさを持っていることと、自身の生い立ちに誠実に向かい合い、そして受け入れている点である。世界にある真実を見せるために、鑑賞者の視点をずらしていく方法が最も現代的かつ国際的なのだが、彼女たちは現実をありのまま受け入れ、描写・造形する。そのような、受け入れる態度こそが、最も有効な対話となるのではないだろうか。




「アーティスト・ファイル2009 -現代の作家たち」展
会場: 国立新美術館
スケジュール: 2009年03月04日 〜 2009年05月06日
住所: 〒106-8558 東京都港区六本木7-22-2
電話: 03-5777-8600