Hatena::ブログ(Diary)

三国与太噺

2015-08-16

華佗流鎮痛術

公袒下衣袍、伸臂令佗看視。佗曰、此乃弩箭所傷、其中有烏頭之藥、直透入骨。若不早治、此臂無用矣。公曰、用何物治之。佗曰、某自有治法。但恐君侯懼耳。公笑曰、吾視死如歸、有何懼哉。佗曰、當於靜處立一標柱、上釘大環、請君侯將臂穿於環中、以繩繫之、然後以被蒙其首。吾用尖刀割開皮肉、直至於骨、刮去骨上箭毒、用藥敷之、以線縫其口、方可無事。但恐君侯懼耳。公笑曰、如此容易、何用柱環。

関公が肌ぬぎになって臂を差し出すと、華佗は言った。
「これは鏃の毒で、烏頭が塗ってあるため、毒が骨にまでしみております。早いうちに治しておかねば、この腕は使えなくなりましょう」
「どうして治すのじゃ」
「療法は心得ておりますが、荒療治にござりますぞ」
関公は笑った。
「わしは死をもいとわぬ者じゃ。心配せずともよい」
「さらば、静かな部屋に柱を一本立てて鉄の輪をとりつけ、それに腕を通していただいたうえ、縄でしっかり縛り、顔を布でかくしていただきます。そのうえで、わたくしが鋭利な小刀で肉を切り裂き、骨をむき出しにして、骨についた鏃の毒を削ぎ落とし、薬を塗ってふたたび縫合いたせばよろしいのでござりますが、いかがでござりましょうか、おやりになりますか」
「なんだ、それしきのことなら、柱なぞいりはせぬわ」(立間訳)

――『三国志演義』第七十五回 關雲長刮骨療毒 呂子明白衣渡江






 なんで麻沸散を使わないの...?

2015-06-26

典韋の短戟



馬軍隊裏、一將踴出、乃典韋也。手挺雙鐵戟、大叫、主公勿憂。飛身下馬、插住雙戟、取短戟十數枝、挾在手中、顧從人曰、賊來十步乃呼我。遂放開腳步、冒箭前行。……韋乃飛戟刺之、一戟一人墜馬、並無虛發、立殺十數人、眾皆奔走。
 ――『三国志演義』第十一回 劉皇叔北海救孔融 呂温侯濮陽破曹操

 騎馬の隊から一人の大将が躍り出た。これぞ典韋。手に二本の鉄の戟をひっさげ、
「殿、ご案じあるな」
 と一声、ひらりと地面に下り立ち、戟を両の小脇にはさんで、短戟(短い槍。わが国の手裡剣に相当)十数本を握り
「賊めらが十歩のところまで来たら知らせろ」
 と供の者に声を掛けるなり、雨とふりそそぐ矢の中に突きいった。
…(中略)…
 その声とともに、典韋は息もつがせず短戟を飛ばせて、一戟一殺、一本もあやまたずにたちまち十数人を仆せば、他の者ども雲を霞と逃げ散った。(立間祥介訳)

 


 呂布との戦いに敗れて退却する曹操、その窮地を救った典韋の活躍として有名なエピソードです。
 ところでこの場面で典韋が投げつけている「短戟」という武器なのですが、これまで僕も和丸さんと同じく、「敵兵目がけて数十本投げてる」から短刀やクナイっぽいものをイメージしてました。また吉川英治ではここは「短剣」と表現されてましたし、横山光輝では盾の裏に仕込んだナイフみたく描かれてましたし。
 でも和丸さんのツイートを見たとき、もしかしてちょっと違うんじゃないかってふと思ったんです。
 だってこれ典韋ですよ。
 八十斤(およそ50kg弱)*1の鉄戟を振り回す豪傑に、「"投げて使ってる"から"投げて使う"武器」だろうという合理的な推測が、果して当てはまるんでしょうか。
 ひょっとしたらこの短戟、ホントは諸手で扱うような長物なんじゃないでしょうか?
 「それを投げるのかよ!?」っていう、本来の使い方を逸脱する典韋の破格を表現したエピソードなんじゃないでしょうか?


 そこで改めて、『演義』での「短戟」の用例をざっくり探してみました。

 兩個棄了鎗、揪住廝打、戰袍扯得粉碎。策手快、掣了太史慈背上的短戟、慈亦掣了策頭上的兜鍪。策把戟來刺慈、慈把兜鍪遮架
 ――第十五回 太史慈酣鬥小霸王 孫伯符大戰嚴白虎

 孫策と太史慈は槍を捨てて殴り合い、戦袍はばらばらにちぎれ飛んだ。孫策が素早く太史慈の背中の短戟を奪えば、太史慈も孫策の兜を取った。孫策が戟で太史慈を突けば、太史慈は兜でそれを防ぐ

 ここでは両者が取っ組み合うように戦っており、その様子からすると短戟も近接戦闘で使われるもののように思われます。ただ、太史慈がこれを背中に装備していたってのがちょっと気になりますけど。


 芝整衣冠而入、行至宮門前、只見兩行武士、威風凜凜、各持鋼刀・大斧・長劍・短戟、直列至殿前。芝曉其意、並無懼色、昂然而行。
 ――第八十六回 難張溫秦宓逞天辯 破曹丕徐盛用火攻

 芝が衣冠を正して宮門まで来ると、そこには武士たちが威風凛々、それぞれ鋼刀・大斧・長剣・短戟を手にして殿前まで左右に並んでいた。芝はその意を悟ったが、しかし懼れる風もなく、毅然として進んだ。

 こちらは、孫権が近衛兵だか儀仗兵だかで芝を脅したという場面です。芝を威圧しようという孫権の思惑により、兵が手にするのは鋼刀・大斧・長剣という物々しい武器ばかり。とすると、そこに並ぶ短戟もまたそれなりの得物でなくては迫力がないんじゃないでしょうか。
 ちなみに儀仗兵が短戟を持つというのは、正史でも見ました*2。儀仗兵が持つのですから、きっと見栄えのするものなはずです。手中に収まるような投擲武器とはちょっと違うかもしれません。


 『演義』で短戟が出てくる場面は大体こんなものです。意外と少ないんですね。
 ちょっと決め手に欠けるなあと思っていたところ、どうも短戟とは「手戟」のことらしい、という説明を百度百科で見つけました。
 なるほど、そういえば一個目に挙げた太史慈の短戟も、『三国志』太史慈伝では「手戟」と記されてました。
 手戟ならば、『釈名』釈兵篇に「手戟、手所持摘之戟也」と、手に軽く持って使う戟だとはっきりあります。 
 『三国志』やその注にも用例がいくつかあって、董卓が呂布の密通を見つけて投げつけたとか、劉備趙雲を謗った者に怒って投げたとか、孫策が厳輿に投げて殺したなどとあって、明確に投擲するものであることがわかります。
 というわけで、本当に短戟=手戟かはもっとちゃんと調べないとダメですけど、もしそうだとしたら短戟もまた投げて用いる武器と言えるかもしれません。


 が、それでも典韋は破格でした。

典韋、容貌魁桀、名冠三軍。其所持手戟長幾一尋。軍中為之語曰、帳下壯士有典君、手提雙戟八十斤。
 ――『太平御覽』巻四百九十六 人事部一百三十七 諺下 引『江表伝』

典韋は、容貌逞しく、名声は三軍に抜きんでていた。その手戟は長さ一尋近くもあった。軍中ではこのために、「帳下の壮士に典君あり、手に双戟八十斤を提ぐ」と語られた。


 一尋は八尺、三国時代の度量衡だとおよそ193cm
 明らかに片手で使うものじゃ、ましてや手中に十何本も握って投げつけるものじゃない!
 もちろんこれは『江表伝』の一節ですから、このイメージを『演義』が踏襲してるかどうかはわかりません。ただ典韋とは、典韋が扱う武器とはこうゆうものなのだそうです。
 だから、「典韋が投げてるからきっとそれは投げて使う武器」ってのは、1000年後の人が「DIOが投げて使っているから、きっとこのロードローラーという道具は投げて使う武器なのだ」と考えるようなものだったのかも。

 実際、毛宗崗はこう言ってます。
 「百歩箭不敵五歩戟、奇絶」と。
 百歩箭、つまり呂布が160m先の戟を弓で射たことよりも、典韋が8m先の敵に「短戟」を投げつけたことの方が凄まじい、ということです。

*1:典韋の鉄戟は、すでに『三国志』に「帳下壯士有典君、提一雙戟八十斤」とあります。後漢末の度量衡で換算しても、八十斤は18kg弱。化け物か。

*2『新唐書』巻二十三上 儀衞志上 衙に、「黄麾仗、左右廂各十二部、十二行。第一行、長戟、……。第二行、儀鍠、……。第三行、大矟、……。第四行、小戟、刀、楯、……。第五行、短戟、……。第六行、細射弓箭、……。第七行、小矟、……。第八行、金花朱縢格楯刀、……。第九行、戎、……。第十行、細射弓箭、……。第十一行、大鋋、……。第十二行、金花刔愕塀歸瓠◆帖帖廚箸△蠅泙靴拭

2015-05-08

曹操の玄孫

 さっき新漢籍全文を使っててたまたま見つけたやつです。

曹侯村 魏武帝玄孫曹叔良所居、今相公橋左王宅園是也。
 ―『重修曹谿通志』卷一 山川形勢第一 古蹟

山初未有名、因魏武玄孫曹叔良避地居此、以姓名村。而水自東遶山、而西經村下、故稱曹溪。
 ―『重修曹谿通志』卷一 建制規模第二



 『曹谿通志』に曰く、むかしこの地に曹操の玄孫である曹叔良が遷り住んできたことから、これになんで村を「曹侯村」と名付けた。さらに東の山から西へ村に流れる川があったので、これを「曹溪」と名付けた、と。
 へー、、、
 曹叔良って誰なんでしょうね。というかどこなんでしょうこれ。

 
 ちょっと眺めてみた感じですと、『曹谿通志』とは、禅宗の高僧である大鑑禅師慧能が住まわった曹渓宝林寺に関する地理志みたいです。そして曹渓は現在の広東省韶関市曲江区(後漢の荊州桂陽郡曲江県)にあるようです。⇒wikipedia「慧能」
 慧能とは、「中国禅宗(南宗)の第六祖」であり、「後の五家七宗全てがその一門から出た」ほどの中国禅宗史における重要人物なのだそうですが、仏教には疎いもので、、、

 ちなみに、『曹谿通志』にも「曹溪六祖大師、俗姓盧氏。其父行瑫范陽人」とあるように、慧能は范陽出身の盧氏だそうです。范陽の盧氏といえば、そう盧植。もしかしたら同族とかかも。あ、慧能は初唐の人物です。
 さらにちなみに、曹渓山に遷った慧能に寺社を提供した人物こそ、他ならぬ曹叔良だったって話もあるそうですよ。
 ちょっとなんか不思議な感じですね。

2015-04-26

子を棄てて甥を助ける

攸字伯道、平陽襄陵人也。
……永嘉末、沒于石勒。……石勒過泗水、攸乃斫壞車、以牛馬負妻子而逃。又遇賊、掠其牛馬、歩走、擔其兒及其弟子綏。度不能兩全、乃謂其妻曰、吾弟早亡、唯有一息。理不可絕、止應自棄我兒耳。幸而得存、我後當有子。妻泣而從之、乃棄之。其子朝棄而暮及、明日、攸繫之於樹而去。
……攸棄子之後、妻不復孕。過江、納妾甚寵之。訊其家屬、説是北人遭亂、憶父母姓名、乃攸之甥。攸素有行、聞之感恨、遂不復畜妾、卒以無嗣。時人義而哀之、為之語曰、天道無知、使伯道無兒。弟子綬、服攸喪三年。
 ――『晋書』巻九十 攸伝

攸は字を伯道といい、平陽襄陵の人である。
……西晋末、石勒(西晋を滅ぼした異民族)に囚われた。……石勒が泗水を渡ると、攸は車を捨てて、牛馬に妻子を乗せて逃走した。また賊に遇い、牛馬を奪われたので、自分の子と弟の子である綏を負ぶって歩いて逃れた。しかし二人とも連れるのは無理と考え、そこで妻に「私の弟は早くに亡くなり、ただ息子一人がいるだけだ。理は絶ってはならない、我が子を棄てて行こう。幸いに生き延びることができたら、子はまたできる」と言った。妻は泣いて従い、子供を棄てた。しかし棄てられた子がまた夜に追いついてきたので、次の日、攸はその子を木に縛って立ち去った。
……攸が子を棄てた後、妻は再び子を成すことはなかった。江東に逃れてから、攸は妾を置いてとても寵愛していた。しかしその家族を訊いてみると、なんと攸の姪にあたることが分かった。攸は普段から行があったが、これを知って後悔し、二度と妾を置かず、後継ぎがないまま亡くなった。世間の人は彼を義として哀れみ、「天道はご存じないのだろうか、伯道をして子を無からしめんことを」と言った。助けられた甥の綬は、攸のため(本来は九ヶ月でよいところを、父母に対して行うのと同じ)三年の喪に服した。



 死んだ兄弟の子を助けるために自分の子を見捨てる、という逸話は美談としてこの時期によく見かけるような気がします。
 たとえば三国志マニアとしては夏侯淵*1の例を思い出しますし、また探したら後漢初*2や西晋末*3にも例がありました。
 古代中国において、後継を絶やすというのは大変な不孝だったといいます。死んだ人の霊を祀り慰撫することができるのは、その人と血縁のある子孫だけとされていたからです。つまり自分が後継ぎを遺せなかったら、自分の祖先たちに対する祭祀も絶えてしまうことになります。もちろん自分自身も死後祭祀を受けられないし。これらの逸話が単に「兄弟の子を助けた」のではなく、「"死んだ"兄弟の子を助けた」である理由です。

 でも攸の場合は純粋な美談と言っていいのか、なんとも微妙なオチがついてることが面白いです。
 知らずとは言え自分の姪を妾にするという不義を犯し、それがトラウマになって子をなせぬまま死んでしまうという、我が子を棄ててまで義を果たしたのにあんまりな結末。
 これは美談っていうか、むしろ子供を棄てたことへの因果応報を表現しているようにもちょっと思えます。
 それでもこの攸のエピソードは、ほぼ同じ形で『世説新語』徳行篇にも収められていますから、少なくとも六朝時代当時にあってこのような行動は高く評価されるものだったはずです。
 しかし、唐代に編纂された『晋書』の評価はちょっと違うようです。

史臣曰、……而攸棄子存姪、以義斷恩、若力所不能、自可割情忍痛、何至預加徽纆、絕其奔走者乎。斯豈慈父仁人之所用心也。卒以絕嗣、宜哉。勿謂天道無知、此乃有知矣。

史臣曰く、……しかし攸が子を棄てて甥を助けたことは、義を以て慈しみを断つことで、もしどうすることもできなかったら、当然情を割き痛みに堪えるべきで、どうして(子を)縛ったりして、逃げられないようにしたのだろうか(?)。これがどうして慈父仁人のすることであろうか。後継ぎないまま死んだ、よいではないか。天道は(伯道に子がないことを)ご存じないなどと言うな、(子を棄てたことを)ご存じだったからこそなのだ。


 自分の漢文読解力ではちょっと怪しいのですけど、たぶん『晋書』は攸の子棄てを激しくなじってるんじゃないでしょうか。
 こないだ、明清の研究をしてる先生が『世説新語』でこのエピソードを見てえらく不思議がってました。
 明清の家族倫理からすれば、亡弟とのためとは言え自分の継嗣が絶えるリスクを犯すなんてのはとんでもない不孝なんだそうです。
 その時はやっぱ六朝と明清じゃ感覚が結構違うんだなって思っただけでしたけど、『晋書』の論評を見るにもしかしたらこの辺に転換点があったのかもしれません。

*1:「魏略曰、時兗豫大亂、淵以饑乏、棄其幼子、而活亡弟孤女」(『三国志』巻九 夏侯淵伝裴注)

*2:「更始時天下亂、平弟仲為賊所殺。其後賊復忽然而至、平扶侍其母、奔走逃難。仲遺腹女始一歲、平抱仲女而弃其子。母欲還取之、平不聽曰、力不能兩活、仲不可以絕類。遂去不顧、與母俱匿野澤中」(『後漢書』列伝二十九 劉平伝)とあるように、劉平という人物が賊から逃れる際に、自分の子供を見捨てて亡き弟の娘を助けたとあります。

*3:「太和中、拜吳興太守、加秩中二千石。……餘杭婦人經年荒、賣其子以活夫之兄子。武康有兄弟二人、妻各有孕、弟遠行未反、遇荒歲、不能兩全、棄其子而活弟子。嚴並褒薦之」(『晋書』巻七十八 孔愉伝附孔嚴伝)とあり、呉興太守だった孔嚴が、自子を売って夫の兄の子を養った婦人や、弟の子を助けて自子を棄てた兄を褒賞したとあります。

2015-03-14

曹操の娘と関羽の恋 【曹月娥】

 「淮劇」(揚州一帯の地方劇)に『関公辞曹』という出し物がある。その内容はまた少し変わっていて、曹操の娘曹月娥が関羽に恋する悲劇である。関羽は曹操に助けられて一時曹操のもとに身を寄せたが、その恩を返したのち、別れを告げて許昌を離れる。それを知った曹月娥は、必死になって関羽に追いつき、「同行させて」とすがる。だが関羽は、奸臣の娘をつれていくわけにいかない。悲しんだ曹月娥は、関羽の前で自殺してしまう。関羽の恋……これは民間芸人の大胆な創造であった。関羽を"神"と見なしている人たちにとっては、とんでもないことだったろう。
 −丘振声著/村山孚訳『『三国志』縦横談』(新人物往来社、1990)



 こんな物語があったなんて、初めて知りました!
 父曹操のみならず、その娘までもが恋するとは、さすが関羽は英雄...


 ところで、丘振声先生はこの物語を「大胆な創造」、「関羽を神と見なしている人たちにとっては、とんでもないこと」と見ておられますけど、僕にはむしろ伝統的な関羽像に則った話に思えました。
 というのも、仙石知子先生によれば、関羽によって表現される「義」には実はさまざまな種類があるのですが、そのうちのひとつに「男女の義」というのがあるのだそうです*1
 これは要するに、男女の関係・女性の貞節とはかくあるべきだというのでして、仙石先生が具体例に挙げられているように『演義』の随所で見られます。その中でもひときわ有名なのが「秉燭達旦」の故事です。
 下邳から許都へ向かう途中、曹操は関羽の君臣の義を乱そうと、あえて関羽と兄嫁たちを同じ部屋に泊らせる。しかし関羽は一晩中部屋の外に侍立して兄嫁たちの節を守り抜いた、ってやつです。
 この故事は元来『演義』にはありませんでしたが、毛宗崗はこの故事が史実でないと承知の上で敢えて挿入しました。如何にこれが関羽の「義」において重要なものであったかが窺えます。


 文芸上の関羽は好色とは無縁の人物ですから、一見すると女性との縁がほとんど描かれていないように思われがちですけど、むしろこの「男女の義」ゆえに割と接点が多い方じゃないかと思います。
 そうした時、僕が曹月娥の物語と似てるなって思い出したのが、「関公斬貂蝉」のエピソードです。
 『演義』が成立する前後から広く知られていた故事でして、もともとは「呂布滅亡後、曹操に囚われた貂蝉が保身のために関羽を籠絡しようするが、それを関羽が不義不貞と断じて、禍の元として斬り殺す」といったあらすじでした。
 しかし後世、『演義』の影響で貂蝉を忠節の人物と見なすようになると、貂蝉を単に断罪するだけだった「斬貂蝉」はだいぶ変化します。
 つまり貂蝉が純粋に関羽を慕って側に置くよう求めるようになったり、関羽が貂蝉の不貞(漢朝のため董卓と呂布に通じたこと)を義の成す上でのやむを得ないことと認めたり、です。さらに作品によっては明確に関羽と貂蝉の恋を描くものも出てくるようになります。
 しかしそのような作品でも、関羽は最終的には義を通して貂蝉を拒みます。そして関羽に拒まれた貂蝉は、貞節を守るために自害(あるいは出家)するのです*2

 このように「斬貂蝉」は、関羽と貂蝉の悲哀を描きつつも、義や貞節という「男女の義」を根底のテーマとする物語です。
 ここまで来ると、だいぶ曹月娥の物語と似てきませんか?
 曹月娥の物語も関羽が曹操の元にいた時という舞台設定ですし、また関羽が義の上で曹月娥を拒むこと、そして拒まれた曹月娥が守節のために自ら果てるという基本テーマも「斬貂蝉」とそっくりです。ヒロインが共にやむにやまれぬ不義(貂蝉は国家のための不貞、曹月娥は奸臣の娘)を内包しているという点でも共通していますし、貂蝉の役割をそのまま上手く曹月娥に移し替えたって感じです。
 このように、一見して奇抜に見える曹操の娘と関羽の物語も、男女の悲哀を描くと同時に「男女の義」をも表現しているって言う点で、実は伝統的な関羽物語を踏襲するものなんじゃないか、と僕は思うのです。



 また付け加えれば、そもそも英雄が悪玉の娘と悲哀を演じるっていうプロット自体が古今に広く見られるものですよね。
 最近でも趙雲を主人公とした「三國之見龍卸甲」(邦題は「三国志」)ってゆう映画では、曹操の孫娘がヒロインになってたそうです。

*1:仙石先生による関羽の義に関する研究には、「毛宗崗本『三国志演義』における関羽の義」(『東方学』126、2013)、「毛宗崗本『三国志演義』における「関公秉燭達旦」について」(『三国志研究』9、2014)があります。

*2:関羽と貂蝉に関しては以下の研究があります。
後藤裕也「「斬貂蝉」のものがたり 清代の説唱文学を中心に」(『関西大学中国文学会紀要』24、2003)
伊藤晋太郎「関羽と貂蝉」(『日本中国学会報』56、2004)
大塚秀高『関羽が貂蝉を斬るのはなぜか 弾唱小説と異端小説』(『狩野直禎先生傘寿記念 三国志論集』、2008)
仙石知子『毛宗崗本『三国志演義』に描かれた女性の義』(『狩野直禎先生傘寿記念 三国志論集』、2008)