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三国与太噺

2018-06-20

柿沼陽平『劉備と諸葛亮 カネ勘定の『三国志』』

 このブログを見返してみると、あんまり僕は本のレビューとかをやってこなかったみたいなんだけど、でもやっぱりこの本についてはひとつ書いておかなきゃなって思う。
 正直に言って、"あの"柿沼先生が書く三国志の本ってことで期待していたものとはまったくの別方向の本だったのだけど、その別方向で大いに勉強させていただいた本だった。
 想像とは違っていたけどいい本だった、ってのが僕のだいたいの感想です。
 
 まずなにより僕がいいと思ったのは、――本の中身とは直接関係ないことで申し訳ないけど、渡邉義浩先生の本じゃないということそれだけで、まずいい本だと思った。いや渡邉先生で悪いことなんてこれっぽちもないのだけれど、でもたまには、渡邉先生以外の三国志の本だって読んでみたいと思うじゃないですか。
 改めて言うことでもないけれど、三国志というテーマは(あるいは歴史学や文学という分野そのものが)、見る角度によってまるでいろんな見方ができる。取り組む人の数だけ三国志のかたちもある、ってのはけっこう誇張表現じゃなくて、そこに三国志の魅力のひとつがあると言ってもいい。渡邉先生の本が面白さもその辺にあって、この先生は非常に強固な渡邉義浩的三国志を持っていて、それを著書の中でたくみにひそませるからこそ――時には全然隠せてないけど、あんなに楽しく読めるんだと僕は思っている。
 だからこそ、それ以外の人たちの三国志ってのもそれと同じくらい見てみたいと常々思っていた。しかし専門家が一般に向けて書いた三国志の本は、ここ十年で見てもそれほど多くはない。思い返してみても、井波律子先生が最近たくさん書いておられるみたいだけど、それを除くと、たぶん満田剛先生や石井仁先生あたりまで遡ってしまうのではないだろうか。本当にこの十年あまり、めぼしい三国志の本はほとんど渡邉先生ひとりによって手がけられてきたのだ。
 そんな中で久しぶりに現れた柿沼陽平という先生は、渡邉先生とはだいぶ異なるタイプの研究者だと思う。もちろん、ふたりとも歴史学という点では共通するのだけど、渡邉先生が儒教だったり文学だったり士大夫的な名声(ようするに「名士」)だったりと、三国時代を文化的な要素から見ようとしていることに対し、柿沼先生が得意とするのは、経済、国家制度、あるいは出土文字資料という、今の中国史学の王道と最前線をゴリゴリと進むような研究である。とくに柿沼先生の専門とする貨幣経済に関すること(たとえば劉巴の話とか)は、やっぱりさすがだと思った。
 そうした意味において、これまで渡邉先生の新書を読んだことのある人にはぜひこの本も読んで欲しいし、逆にこの本が面白いなと感じた人は、ぜひ渡邉先生の新書も手にとってみてください。三国志もいろんな見方ができるんだなということが――ごくごく当たり前のことなんだけれど、実感できると思う。

 もうひとつ、この本のいいところは、その文章ということでも、その解説の中身ということでも、とにかく読みやすいってことだと思う。正直、読んだときに「ここまでか?」って思ったくらい、これでもかとわかりやすく平易な説明に徹している。
 冒頭、「期待していたのとはまったくの別方向だった」と書いたのはまさにこの点で、僕は最初、あの柿沼先生の書く本なのだから、きっと僕のまったく知らない新しい知見が盛りだくさんなのだろうなと期待していた。その点で僕の予想はまったく裏切られた。
 でも考えてみれば、新書というのはそのジャンルに興味・知識がまだあまりない人でも比較的手に取りやすいというか、むしろそういう読者の方が多数ともなるものだから、当然、読者は三国志を知らないか、ぼんやりとは知っているくらいを想定すべきなのだろう。僕が勝手に、たとえば講談社メチエとか東方選書みたいなレーベルで書かれる密度を期待してしまっただけのことで、それは裏切られて当然だったのだ。
 で、改めてそうした「わかりやすさ」に注目すると、この本は勉強になることが多かった。ご存じの通り、簡単に書く、と簡単に言うけれどそれを実際にやるのは想像するよりもずっと難しい。専門的知識を初学者にわかるよう噛み砕く難しさ、文章として読みやすい文章を書くことの難しさ。その難しさにはいろんな種類があるけれど、そのなかで個人的経験から言うならば、僕の場合は「書かないこと」が何より難しかった。ついつい書いてみたいことやってみたいことがあふれすぎて、出来上がった本はまあマニアックな本になってしまった。本当に申し訳なかったと思う。こういう欲求をおさえつつ、ニーズを正しく読み取って、大事な情報だけを整理して文章を書くというのは、少なくとも僕のような若輩には大きな忍耐を必要とすることだった。
 まあこれはあくまで僕の場合であって、柿沼先生のような経験豊富な人なら、その辺も苦もなくこなしてしまえるのかもしれない。ただそれでも、この本のあとがきを見た感じ、やっぱり少なからず苦労もあったんじゃないかなと思う。どうなんでしょうね。

 ともあれ、この本はこれから三国志を知る人に向けたものとして、本当に読みやすい。
 そしてそうでありながら、コアなファンをただ退屈させるものでも決してなくて、初学者が読む邪魔にならない程度に、興味深いキーワードが散りばめられている。多くは語らないけど、「こういうこともあるけどね」とわかる人にはわかる一言がそえられている。あるいはさらに興味を持った人が、よりディープな知識に触れることができるよう、ほかの書籍や論文への誘導も丁寧にされている。
 さっき、一緒に読むといいと言った渡邉先生の本とこの柿沼先生の本、どっちを先に読む本として勧めるべきか、ちょっと迷うけど、もしかしたら軍配は柿沼先生のほうに挙がるかもしれない。

 こんなところが僕の感じたこの本の「いいところ」なんだけど、一応不満だったことも挙げておくと、ところどころで、「それってそうだったけ?」と首を傾げるところもあった。まあそれは細かいところなので置いておくとして、全体的なことを言うなら、「既存の劉備像・諸葛亮像をひっくりかえす」ことにやけに前のめりな姿勢が僕は気になった。
 オビに「歴史学の最新知見が教える「名君」「天才軍師」のウラの顔」って書かれていることはまあよくあるキャッチーなコピーだとしても、本文中でも何度も、「本当に劉備はよく言われる仁徳の君主なのだろうか」的なことがくりかえし強調されている。
 で、こういう仁君としての既存の劉備像ってのは、要するに『三国志演義』的な劉備像のことなので、あんまりそういう話ばかりが出てくると、『演義』マニアとしては正直に言ってあまりいい気分にはならない。一般向けの三国志本でありがちな、『演義』を間違った知識・イメージの象徴として槍玉に挙げるような言いぶりで、僕としては「お?やるのか?」って言いたくなる。
 もっとも、こういうわかりやすいテーマを軸にしてくれたほうが普通の読者には読みやすいのだろうし、そういう意味でこれも柿沼先生の「わかりやすさ」に対する心配りなのかもしれない。
 それに当の柿沼先生はというと、『演義』については「史実と虚構が絶妙に混ぜ合わされ、一つの壮大なドラマが展開され、古来、中国民衆文学の最高傑作とのよび声が高い」「すばらしい文学作品」と絶賛しているわけで、自分自身のことも「中学校のときに横山光輝の漫画『三国志』を読んで以来、三国志の世界に魅入られてきた。だいたいどこの学校のクラスにも一人か二人はいる、三国志好きであった」と振り返っている。随所に三国志そのものへの愛も感じられて、そこまで言われてしまうと、こっちとしても「ま、今日のところはカンベンしたるわ」となってしまう。
 なんか全部、柿沼先生の手のひらの上な気がするけれど。
 
 

2018-04-25

『はじめて学ぶ中国思想』(ミネルヴァ書房)

 好きだったブログやpixivが、そのうち更新頻度がさがり、すっかり告知をするためだけのものになってしまってガッカリした経験、よくあります。
 管理人さんの環境の変化とか多忙とか、そういうのはよくわかります。でも正直ファックって気持ちも抑えられない。


 さて告知であります。
 




 この本が取り上げる中国の思想家は約80人。
 ……そんなにいたのか。
 彼らの個人の生涯と思想を見ていくことで、思想史の流れもだいたい掴めるようにっていう、そうゆうコンセプトの本です。
 僕が担当したのは、董仲舒・司馬遷&班固・陳寿&范曄・劉知幾・王夫之の5項目です。董仲舒の項目なんかはとくに楽しく書きました。でもほんとは関羽の項目を立てたかったんです。けどダメって言われました。ダメかぁ……

 
[ここがポイント]
◎ 原典を引用したQ&Aで思想の核心に迫る。
◎ 思想家の生涯、時代背景もしっかり紹介。
◎ 一冊で中国思想の大きな流れを捉えることができる。
◎ 資料としても、読み物としても充実。 


 こんな感じだそうです。
 書いた側からすると、「思想家との対話」と銘打たれたこのQ&Aスタイルがなかなか大変で、そしておもしろかったです。決められたスタイルがあるってのは時として難しくなることもありますが、同時にそれを逆に利用して工夫することもできますからね。董仲舒の項目で取り上げた「天人三策」なんてのは、武帝と董仲舒の対話そのものなんで、このスタイルのおかげでずいぶん書きやすかったです。
 
 初学者向け入門テキストってことですけど、扱う中身自体はわりと専門的で、僕んとこ以外はたいていどれも専門の先生たちが書いてます。
 よかったら読んでみてください。

2017-06-30

「銅雀台(邦題:曹操暗殺 三国志外伝)」を観た

 三国志だったらなんでもおもしろいおもしろい言う僕なんですけど、この「曹操暗殺」ばかりは...正直わかんなかったです。

 時は建安二十四年暮れ。
 滅亡間近の漢王朝を舞台に、董承の乱・伏皇后の乱・吉本の乱という3つの暗殺劇をモチーフにしたオリジナルストーリーが展開されます。
 はたして、曹操の命を狙う黒幕は誰か?
 伏皇后が?
 献帝か?
 それとも曹丕か?
 そもそも曹操とは、本当に斃すべき悪なのだろうか?

 そんな登場人物それぞれの思惑が絡み合う中から、少しずつ真実が紐解かれていくストーリー展開が本作の一番の見どころだと思うんですけど……。いかんせん、三国志を知ってる人にはどうしたって黒幕が分かっちゃうんですよね。
 まあ原典がある以上それは避けられないことですし、そういう縛りがある中でもなんとか工夫をしている様子は脚本から窺えます。中盤まで曹丕が糸を引いているかのようなミスリードをしていることもそのひとつですし、何より曹操の側近の道化男が実は医者であること、実は吉太医その人であることも、視聴者にはギリギリまで明かさないようにしています。でも結局のところ、黒幕はやっぱり原典通り吉太医なわけで、ミスリードを連発した分、どうにも肩透かし感があるのは否めません。
 そして「曹操は本当に悪なのか」というもうひとつのテーマにしたって...どうだろうこれは。そんな3周遅れの命題で、しかも出した答えは実に普段通りのいいヤツな曹操像。
 今じゃ悪者曹操を探す方がよっぽど大変なのに、本作の曹操はものすっごい普通のいい男です。民に慕われる名君にして、すごく強い覇者であり、その上漢の忠臣でもある。それどころか良き父親でもあり、愛する女には一途な想いを向ける。どう考えたって盛りすぎです。役満か。とにかくめくら滅法に美化してみましたって感じで、ちょっと考えちゃいます。
 つまり、三国志をちょっとばかし知ってちゃうと、最期までなんにも予想が裏切られないんです。そういう意味で、「三国志を知らなくても楽しめる」とはよく言いますけど、本作は「三国志を知らない方が楽しめる」なんです。ネットでレビューを探してみても、あんま三国志ファンのやつにあたらないのも、そういうことかなって思います。

 もちろん、全体ではなく個々に目を向ければ面白いところもたくさんあるはずです。個人的には曹丕のキャラクターがけっこう好きです。献帝は見事にバカ君主でしたねぇ。あと玉木宏は文句なしにかっこよくて、あれしか出番がないのがもったいないくらいでした。アクションで言えば、僕は伏氏サイドの刺客がお気に入りです。まるでニンジャだ!
 しかし、そうしたことに三国志的な意味があるかと言うと、ほぼないと言っていいと思います。曹丕がああいうキャラになるのはよくあることでしょう。曹操から武人気質を抜いた感じですね。曹操を持ち上げるために献帝をバカにするのも今に始まったことではありません。
 たぶん、映画としてはよくできているはずです。そのあたりは僕には詳しくはわからないのですが、ただレビューでは好意的なものの方が目立ちましたし、僕にしても「退屈だなあ」とか思いながら観ていたわけではなく、けっこう楽しく観れました。
 それでもやっぱり、これが三国志かというと、僕は首を傾げないわけにはいきません。ストーリーや演出はたぶんおもしろい。でもたとえば、この作品から固有名詞を全部取っ払っちゃって、中国とはぜんぜん違う国に舞台を移して、でも脚本はそのままに撮影し直しても、もしかしたらそれでもこの作品はおもしろいままなんじゃないだろうか……?
 結局、この作品が三国志で何をやりたかったのか、作品を通して三国志に対し何を言おうとしていたのか、今の僕には考えてもわかりませんでした。。
 いずれもっと三国志に詳しくなったらまた観たいと思います。

2017-03-30

「関雲長(邦題:KAN-WOO 関羽 三国志英傑伝)」を観た

 関羽を主人公に、『三国志演義』の一幕である「五関斬六将」をクローズアップしたアクション映画です。
 面白かった。
 いや「レッドクリフ」でも「三国之見龍卸甲」でも僕いっつも「面白かった」しか言ってないですけど、これも本当に面白かった。見どころがたくさんありました。

 見どころのひとつ目は、言わずもがなですけどアクションシーンです。
 と言っても僕は中国映画ニュービーですし、アクションのことは全然わかんないですし。ドニー・イェンも初めて知ったくらい。
 だから、どこがどうすごいかはもちろんわかんないんですけど、ただただ圧倒されました。そんな動きさせちゃうんだって、ただびっくりしてました。
 僕的なベストバウトは、やっぱ五関の初っぱなを務めた孔秀戦です。こんな強い孔秀見たことない。でももちろん、五関のどれも面白かったです。どうしてもワンパターンになりがちな5つの戦いをきっちり差別化してました。
 そう、孔秀と言えば、彼の口元の傷跡がなんかかっこよくて印象的だったんですけど、あれメイクじゃなくてホンモノなんだそうです。孔秀を演じたアンディ・オンがかつて「三国之見龍卸甲」に芝役で出演したときに北伐で趙雲に従って曹操軍と戦ったときに、敵兵の大刀が直撃してできた傷なんですって。あのやたらワイルドだった芝と同じ俳優だったとは気づかなんだ。

 見どころのもうひとつは、関羽をとりまくキャラクターたち。献帝とか綺蘭とか普浄とか。
 ネットだと、「曹操と張遼がカッコよくてよかった」とか、「曹操と関羽のラブストーリーがよかった」とかって感想をよく見ますけど、僕は正直、曹操についてはそんなに響かなかった。『演義』のなかで曹操が一番よく描かれてるのがこの「五関斬六将」なんで、当然こうゆう曹操(関羽の「義」の最大の理解者)になるでしょう。吉川英治も「恋の曹操」って言ってるし。だからあんま新鮮味はなかったです。逆に言えば、そうゆう『演義』をきっちり踏まえてるってことでもあります。
 それに、「レッドクリフ」や「三国志 three kingdoms」しかり、やっぱ今どき曹操をただの悪役にするってのは中国でも流行らないんだろうなって思います。

 それよか、僕がびっくりさせられたのは献帝のキャラクターでした。
 これ、観た人にすごい聞きたいんですけど、一体どの時点で献帝が黒幕だと気づきましたか?
 僕はまず、序盤で孔秀が関羽暗殺の勅命を受け取ったその時点で、もう混乱しました。献帝がそんなこと命じるはずないからこれは当然偽勅のはず。ということは曹操が黒幕か。でも原典を考えれば曹操が黒幕なんてのはやっぱあり得ない。
と思ったら中盤で曹操が容疑者から外されて。いよいよもって献帝が黒幕っぽそうな仄めかしがされて、でもやっぱり漢王朝が関羽の命を狙うなんてシナリオはもっとあり得ないはずだから、献帝黒幕と思わせといてもう一段どんでん返しがあるはず・・・。
 ってな具合だったので、ラストでマジで黒幕は献帝と明かされたときは、そりゃもう度肝を抜かれました。最期までマジで気づかなかった。
 「曹操は関羽の最大の理解者」、「漢と関羽は一体で不可分」という『演義』の大前提を利用した、絶妙なミスリードだったと思います。思いたい。 

 そんなわけで、とにかく僕は献帝の扱いに度肝を抜かれました。
  関羽「愚かな君主め!殺してやる!」
  曹操「約束する。天下を平定したら、私がこいつを殺す!」
 もう最初に観たときはひっくり返って爆笑しました。
 献帝の不遇は、たぶん上で書いたような脚本上のしかけのせいだと思いますけど、それでも本作に限らず最近の作品だと献帝の扱いはあんまよくないですよね。というか漢そのものの扱いが悪い。
 それは、漢の敵対者である曹操が人気なせいってのもあるでしょう。中国人は曹操を改革者として強調したがるから、どうしても献帝は旧弊にしがみつく、「封建的」な、ダサい暗君になりがちです。映画「曹操暗殺」がまさにそんな感じでしたね。
でもそういう相対的な理由だけじゃなくて、漢っていう言葉の説得力が落ちてるんだろうなって思います。漢と言えばそれだけで正義を意味した時代は昔のこと。漢室再興を唱えさせればそれだけで善玉になれた劉備が、今はもうそれだけじゃ通用しないですもんね。

 見どころの最後のひとつは、ドニー・イェン演じる関羽のキャラクターです。
 ドニー・イェンじゃ関羽にしては小柄だし、途中からトレードマークの髯もなくなるしで、ファンからの評判はあまりよくないみたいすけど。
 僕はビジュアル的なところは全然気にならなかったっすけど(とゆうか、髯がなくなることも気づかなかった)、
 ただ、この関羽は僕が知ってる中で一番強くない関羽でした。
 『演義』の関羽は、物語中でもっとも強い存在として設定されてます。もちろんそれは腕っぷしの強さなんてのじゃありません。関羽は「義」において一切のブレを見せず、どんな時も「義」を貫き続けます。そんな「義」を貫く姿は、「義を見て為さざるは勇なきなり」の言葉通り、強さを伴います。関羽は絶対に迷いません。「義」という絶対の価値観の体現者そのものだからです。
 でも本作は、関羽が迷い続ける物語です。自分が果たしたい義と、欲望と、あと民の平和との狭間で、自分がどうあるべきかと最期まで問い続け、しかも最期でも答えを出せてない。民のためとはいえ劉備を棄てようとするとか、惚れた綺蘭のために皇帝を殺そうとするとか、ちょっと関羽とは思えないです。
 それに、周囲のキャラクターがみんな関羽につらくあたるのが面白いと思いました。バカな献帝はもちろんのこと、義兄弟の韓福や、関羽に命を救われた秦もが関羽と敵対する。仁徳篤い王植すらも関羽の義を信じない。綺蘭は関羽を誘惑してその道を阻もうとする。滎陽の民は関羽に石を投げつける。おそらく劉備も、関羽を信じ切ってはいない。
 しかし関羽と対立する彼らは、決して悪い人たちじゃありません。これが『演義』だと、善人=関羽の味方、悪人=関羽の敵っていうすごく単純な構図になるんですけど、それは『演義』が生前の関羽をも「すべての善人に慕われる神」として描き出すためです。でも本作の関羽はまだ神になる前の、生身の人間です。
 実際、監督はDVD特典のインタビューで、「第一に考えたのは関羽のイメージを壊すこと」「関羽という人間の迷いや苦悩にも注目してほしい」って言ってます。現代のエンターテイメントとして面白さと深みを与えるために、関羽の孤独と苦しみと弱さはきっと不可欠だったのでしょう。関羽は神の座から降ろされたわけです。
 それでも、本作を観ている限りではそんな関羽のキャラクターにもあんま違和感を覚えませんでした。たとえ『演義』の関羽とは全然違っていても、少なくとも作中での関羽像にブレがなかったからだと思います。それはつまり、『演義』関羽から非常に丹念に神様要素を抜いていたってことです。「義」を貫き通す強さ、万人からの無条件の思慕、劉備との絶対の信頼関係などなど、関羽を神たらしめている要素をひとつひとつ丁寧につぶしてました。つぶしのこしがないからキャラクターにちぐはぐさがない。かと言ってやりすぎちゃって関羽の関羽らしさまでつぶしたら、それはただのドニ―・イェンが映るだけの映画になっちゃう。その線引きもうまいと思いました。
 関羽という扱いづらい神さまをアクション映画にお招きするにあたって難儀な交渉を重ねたんだろうなっていうのを窺わせる、そんな映画でした。

2017-02-23

「三国之見龍卸甲(邦題:三国志)」を実況せんとす

(06.44)「常山はここだよ」と得意げに説明する羅平安の地図、常山が長江沿いにある。
 ………。
 まあ、それはそれとして趙雲たちが今いるのは青州らしいです。ってことは、今は官渡の戦いの直前かな?

(08.17)羅平安の地図、ところどころにメモ書きがあるんですけど、洛陽に「董卓が洛陽に進軍し、宦官を誅殺した。兵は五万である(董卓進洛陽、誅宦官。兵五萬也)」とか、常山に「俺たちはここに生まれた。曹操を討ち、漢室を再興する(吾等生於此。征伐討伐曹、匡扶漢室)」とかあるのはともかく、赤壁に「曹操は赤壁に駐屯して水軍を訓練した(曹屯赤壁、□練水兵)」とか、長坂に「主公の阿斗を助けた(救得主公□阿斗)」とか明らかに未来のことが書いてある。ガバガバすぎない?

(12.50)よもや曹操の手の者かと思った胡散臭い男は、なんと諸葛亮でした。えらく胡乱で陰気な孔明ですけど。新しすぎる!あと、趙雲が参入した頃は諸葛亮まだいないはずじゃ。

(14.36)味方の勝利を確信し、「次なる戦地に指南に行かねば」と言って去る諸葛亮。戦場を転々として軍略を授ける軍師って、なんか墨家みたいです。

(18.00)これが長坂坡の戦いだったってことがやっと明かされます。全然官渡の戦いじゃなかった。青州で戦ってた話はどうした。時代考証は投げ捨てるものではない…

(18.00)本作のカギになる鳳鳴山が登場。『演義』では、北伐で趙雲が韓徳らを破ったところです。つまり長坂とは全然違うところです。考証は投げ捨てるもの。

(18.04)本作のカギとなる仏像が登場。でも三国時代には仏教はまだそんなに広まってないはず。考証など趙子龍の前にはゴミクズ同然だ!

(22.40)趙雲がかっこよすぎです。長柄武器のアクションはやっぱいいですね。たまんないです。趙雲を兄弟と認める関羽・張飛がまたかっこいい。短い登場ですけど、しっかり印象的なキャラクターになってます。

(32.26)ここで青が出てくるのかー。

(34.25)影絵の実演は初めて見ました。

(37.07)光のあたり具合のせいか、ちょいちょいアンディ・ラウがミスター鈴井貴之に見える。

(38.35)エンディングのクレジットによると、この女の子は軟児というそうです。たぶん民間伝承に由来する趙雲の妻、孫軟児が元ネタです。

(41.48)劉備の即位や五虎大将任命の流れは正史とも演義とも微妙に違いますけど、かっこよくまとまってるからいい感じです。考証はおいてきた。あいつはこの戦いについてこれない。

(42.37)すごい劉禅っぽい劉禅。劉禅ってどれも同じ人が演じてるんじゃないかってくらい、いつもそっくりです。

(44.33)老趙雲のかっこよさと言ったら。いや趙雲だけでなく、この作品ではみんなすごくいい老け方をしてます。

(46.51)諸葛亮が趙雲に秘策入りの小袋を授けるのは、『演義』第五十三回がモチーフですね。劉備の嫁取りに同行する趙雲に授け、見事にその窮地を救ったあれです。

(54.40)やけにヒゲが大胆な韓徳が登場。韓徳は、『演義』では北伐で四人の息子ともども趙雲に蹴散らされた人です。かませ犬です。ですが、この韓徳がやたらとかっこいい。なにせ演じるのは「三国志 three kingdom」で関羽を演じた于榮光その人。いやしかし、関羽の時よりもずっとかっこいい。

(56.35)四兄弟を倒すシーンはけっこう『演義』に忠実です。最期の一人(たぶん次男の韓瑶)だけが絞め殺されてるのも、『演義』で韓瑶だけが生け捕りにされたことをモチーフにしてるんだと思います。

(57.25)やたら荒々しい趙雲の副官、なんと芝でした。魏延あたりかなと思ってたんですけど。いやたしかに、北伐での趙雲の副官と言えば当然芝ですよね。でも全然気づかなかった。この人が孫権と交渉するところが全然想像できない。

(59.08)何の因果か、ふたたび鳳鳴山に戻ってきてしまった趙雲。本作の趙雲にとって鳳鳴山ははじまりの地。出発の地にふたたび戻ってきた、ということを強調するために、あえて冒頭の長坂坡の戦いで鳳鳴山を出したわけですね。考証?犬の餌にでもしろ。

(60.25)授けられた秘策が、まさか趙雲を囮にするためのものだったなんて。もちろん、正史でも『演義』でもこの時の趙雲は陽動担当なので、本作の展開もそれをなぞるものです。でもさっき書いたように、諸葛亮の秘策袋の元ネタは趙雲の窮地を救うためのものでしたから、まさか趙雲を騙してたとは想像してなくて。一瞬展開が理解できないくらいびっくりしました。趙雲だけでなく視聴者まで裏切るとは、諸葛亮……やはり天才か。

(61.53)冒頭のシーンでの「勝利のためには捨て駒も必要だ」という諸葛亮の台詞は、この伏線だったんですね。

(62.07)諸葛亮に欺かれ、今まで戦ってきたことの意味すら見失う趙雲。意外なくらいショックを受けてます。羅平安の言う通り、諸葛亮は最初からそんなやつだったのに。けどこの趙雲の迷いは、ラストシーンに向けてストーリー的に必要な迷いと言えます。

(66.06)本作の悪玉にしてヒロインの曹嬰。曹叡や夏侯楙あたりをモデルにしたキャラクターでしょう。毛皮があったかそう。

(71.44)ここで青が出てくるのか!

(75.32)関興たちはすでに負けていた。『演義』だと関興・張苞が罠に陥った趙雲を助けるんで、同じようにラストには助けにくるもんだと思ってたのに。びっくり。

(76.12)公主が戦うのはいいとして、大刀なんていう重量武器を選ばせるのがすごい。そしてやっぱりアクション重点な作品だけあって、一騎討ちの迫力は同時期の「三国志 three kingdom」や「レッドクリフ」と比べても抜き出てます。

(77.59)あれ、てっきり密通者かと思ったら、ここで助太刀するのか羅平安。

(78.08)矢も射れないのか羅平安。

(78.11)弓なんて渡してどう使えというのか羅平安。

(78.21)弓とはこうやって使うのだ。

(78.43)常山いい加減にしろよ…

(83.22)やっぱミスターに似てるよなあ…

(89.28)「寧ろ我をして天下の人に負かしむれども、天下の人をして我に背かせじ」。ここで曹操の言葉を持ってくるのが最高です。曹嬰はオリジナルキャラクターですけど、曹操の孫としてすごくいい感じのキャラにデザインされてると思います。曹操の生き様を継承しつつ、同時にそれが彼女のトラウマにもなってるところが、とくに。ベタって言ったらベタなのかもしれないですけど。

(89.35)『演義』ではただのかませ犬だった韓徳を、ここまでのキャラクターにするんですねえ。すごいですねえ。動揺する韓徳がやがてすべてを納得するまでの表情の変化がそれは本当によかったです。同じように大将に欺かれて茫然とするしかなかった趙雲たちとのきれいな対照になってました。魏の将軍としてこれ以上ない描かれ方だと思います。

(93.16)「自分で運命を切り開けると思ったが、天が定めた運命を生きていたにすぎない。勝利も敗北も無意味だった」と言う趙雲。本作のメインテーマです。仏教的な無常観っぽいです。冒頭から繰り返し仏像が映されてきた演出もこのためですね。

(93.55)そして劉備から賜った鎧をついに脱ぐ趙雲。それを脱がすのはかつてそれを趙雲にまとわせた羅平安。「輪」というキーワードの通り、後半のストーリーは前半のそれを逆になぞるような構成になってます。
 そして、さっきは「出立の頃からなにも変わっていなかった」と嘆いていた趙雲が、ここではそれをありのままに受けいれるに至っています。迷いはもうありません。悟ってます。劉備の鎧を脱ぐのはその象徴です。
 また、ここで映される「一切有為法、如夢幻泡影……」という文言は、『金剛般若経』が典拠であり、「空」の思想を表現する代表的な箇所です。仏教わかんないんでググりました。でも『金剛般若経』は三国時代にはまだ漢訳されていないはずでは?あなたがたにはっきり言っておく。そう思っていたあなたは反省して頂きたい。歴史ドラマは時代考証をするためにあるものではない。ゲーム脳になっていないだろうか?家族と話をしているだろうか?

(97.46)三国を統一したのは魏でも呉でも蜀でもない、晋だった。これも無常です。そして「古今の多少の事はすべて笑談の中に付す」は、『演義』冒頭の言葉。趙雲の言う「輪」のように、本作のラストは『演義』冒頭で締めくくられるのでした。

 アクションのかっこよさ、ビジュアルの美しさは、今まで観た三国志の映像作品のなかでも群を抜いてました。趙雲のかっこよさは言わずもがな、曹嬰・韓徳がまた光ってましたね。出番は少ないですけど、関羽や張飛も渋い。本作があまりに話題にならないせいか、そういう見栄えの面は微妙なのかなと何となく思ってたので、かなりびっくりしました。
 三国志的なところで言えば、ストーリーやキャラクターの面々をはじめオリジナリティが非常に強いですが、一方では随所に『演義』を踏まえた演出・表現も見え隠れしてます。それに、「運命とは」っていうメインテーマがおもしろいですね。
 さっき趙雲が言った「人は天が定めた運命を生きるにすぎない」という運命観は、『演義』にも近いものがあります。『演義』は、運命の存在を肯定します。と同時に、その運命のもとで人とはどのように生きるべきなのか、ということを追い求める作品でもあります。たとえば、劉備は漢の滅亡を必然と言われながらも、「それでも私は漢の末裔ですから、漢をお救いせずにはいられません」と答えます。また諸葛亮は、天が漢に味方しないことを予見しつつも、なお漢のために戦い続けることを死ぬまでやめませんでした。
 運命の存在を肯定することと、人としての道義(忠とか義とか)を重視することは、一見するとなんかちぐはぐなようにも思えますが、これはつまり天に普遍的な摂理(運命)があるのと同じように、人にも普遍的な道義(道徳)があるはずだ、という朱子学の思想が根底にあるためです。…たぶん。
 これに比べると、本作はすごく仏教っぽいです。運命の存在を受けいれることそれ自体を重視してるところに、そんな感じがあります。そしてそれを受けいれたあとの趙雲の台詞も、「自分は常勝将軍などではない」「勝利があれば敗北がある」「趙雲の人生は大きな輪をぐるりと描いたようなものだ」など、仏教的な無常観や「空」をイメージさせます。作中の演出でも何度も仏像が強調されてましたしね。
 『演義』とはまた別の方向から三国志にアプローチした作品という印象であり、僕はすごくよかったと思いました。