三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

『通俗続三国志』卷二 あらすじ

 明代、酉陽野史によって成立した『三国志後伝』は、『三国志演義』の後を継いで、西晋末から東晋初までの動乱期を描いた章回小説です。
 そして江戸時代、これを翻訳した通俗小説『通俗続三国志』と『通俗続後三国志』がありました。
 こちらではその『三国志演義』の続編を、第一巻よりあらすじでまとめてみたいと思います。


☆巻之二、収録タイトル
     ・晋の武帝が大いに宗室を封ず
     ・陶璜と郭欽が撤兵のことを諌む
     ・関防が靳準の店に到る
     ・靳準の店中大いに鬧ぐ
     ・劉璩が名を改めて元度に投ず
     ・齊万年が馬蘭と郝元度に與す     

☆『後伝』
    第六回「晋武帝大封宗室」
    第七回「陶璜郭欽諌撤兵」
    第八回「関防孔萇相結納」
    第九回「劉璩改名投元度」
                   に相当する

・晋の武帝が大いに宗室を封ず

 晋帝国に早くも陰りが見え始めていた。
 まず武帝は、皇帝の藩屏のために宗族を対象に大規模な封建を行った。劉頌ら百官がこれを禍の種であると諌めるも強行されてしまう。洛陽を出る豪華絢爛な諸侯のさまを見て、心ある者は王朝の行く末を憂う。
 外に諸侯王を封建する一方で、内では楊皇后の父である楊駿が政治を専横していた。この楊駿はまったく凡愚の才能にすぎず、しかし権力を握っては皇帝に阿るので、武帝はこれを寵愛して官位爵位は通常ではなかった。これにまた郭奕らが諌めるものの、やはり武帝は改めることはなかった。

・陶璜と郭欽が撤兵のことを諌む

 続いて武帝は、天下が太平になった以上はいたずらに兵器を用いざるべしと諸軍を解体した。これには辺境の牧守である陶璜と郭欽が強く反対したものの、羌胡の憂いは天子の徳で以て教化すべし、と儒教経典で自らを正当化する武帝はこれも退ける。
 武帝はいよいよ政事を怠るようになり、後宮一万の女官は競って門戸に塩と笹を並べた。こうして天下は確かに富み豊かになったものの、同時に次世代への負債も積み重なっていく。

・関防が靳準の店に到る

 さて蜀漢の遺臣たちは、めいめいに成都を脱出したためにそれぞれ分かれて潜伏していた。劉據らの一行、張賓らの一行、そして関防らの一行である。
 関防らは成都を脱した後、河西の馬邑に逃れて靳準なる者の店に留まっていた。靳準はもともと胡族の出身であるが、才略豊かで天下の英雄と交友することを好んでいた。なので靳準はこの一行からただならぬスゴ味を見抜き、関防も彼が二心のない人物であると判断したので、事情を話して匿われる事となった。
 ある日、店に一目で豪傑と分かる一団が現れる。特に首領格の二人は威風堂々、並々ならぬ風貌であったため、関防が靳準に問いつめれば、これこそ孔萇と桃豹であるという。
 孔萇はかの孔融の孫であり、野墅山に怪物"穿山夜叉"を退治した英雄である。
 また桃豹は弟の桃虎、桃彪らと共に孔萇と義兄弟の契りを結んだ仲で、これまた孔萇に劣らぬ英雄であった。
 兄弟は靳準と旧知の仲であり、常日頃からこの店に通っては大酒を喰らっていた。靳準は彼らの酒癖の悪さを知っていたので、関防らにあまり関わらぬようにと忠告する。

・靳準の店中大いに鬧ぐ

 しかし靳準の心配は的中してしまった。桃豹が酔いに任せて店の者に暴力を振るったので、見ていた関防は思わず怒ってこれを咎める。桃豹は面白くない。たちまち両者は掴み合い殴り合いの喧嘩となり、孔萇たち王彌たちも加わったので一族郎党巻き込んでの大喧嘩となってしまった。
 そこへ騒ぎを聞きつけて県城より刁膺が現れ、一行を捕縛しようとする。しかし桃豹は騒ぎの中で関防らの尋常ならざることを見抜いていたので、これを庇って自ら刁膺に罪を詫び、その場を収める。
 その夜、騒動を気に病んだ関防らは店を去る。これを知った桃豹ら、慌てて関防らを追いかけ、昼間の不明を詫びると同時に、今後のことを任せてほしいと願い出る。桃豹と孔萇が誠実に言葉を尽くすさまを見た関防・王彌はこの申し出を受け入れ、かくして孔萇兄弟の根城に匿われることとなった。

・劉璩が名を改めて元度に投ず

 こちらは劉璩らの一行。
 再起のために拠点を求める劉璩に、齊万年は羌胡に援けを求めるべきだと進言する。羌胡はかつて蜀漢の恩を受け、今なお諸葛丞相や馬超将軍の徳を慕っている為、かならずや協力を惜しまないだろうと言う。劉璩はこれに従う。
 ただ劉璩には懸念があった。羌胡の中には自分たちの出自を知って魏に内応する者もいるのではないか。すると廖全が進言して、ここで劉璩の名を改めてはどうかと言う。劉璩はこれを然りとし、そこでかつて母が、大魚が胎に飛びこむ夢を見て自分を孕んだということにちなんで名を改めた。即ちここに、劉淵、字は元海が誕生した。

・齊万年が馬蘭と郝元度に與す

 劉璩改め劉淵はひとまず北部の主帥郝元度を頼る。郝元度はこれを喜んで快く一行を迎えた。
 と、その一行の中にただならぬ人物がいることに郝元度は気付き、その由来を問うてみれば、これこそかの田単の後、蜀漢の忠臣齊万年である。彼の武勇知略に大いに興味を抱いた郝元度は、胡族の小帥たちと武を競ってみよと言う。劉淵が承諾すると、郝元度は馬蘭と盧水の両人を呼び寄せた。
 この二人、現在では郝元度の配下として小部族を率いる部将であるが、元をたどれば馬蘭はかの馬鉄の孫であり、盧水は本名を柝瀘、元の名を張瀘といい張翼の孫であった。蜀漢が滅びるに及んで共に胡族に投じて郝元度の庇護下にあったが、つねづね漢朝への旧恩を果たしたいと考えていたので、この日劉淵一行に英傑の資質を見て大いに喜んだのであった。