「喰霊-零-」は原作「喰霊」を凌駕した。〜「喰霊-零-」最終回に寄せて〜

はじめに〜原作「喰霊」を未読の方の為に〜

 (以下ネタバレを含みます)

 原作「喰霊」は2008年12月現在の時点で8巻+外伝、更に零巻もあり、月刊エースの中では中堅に位置する作品です。
 しかし、原作「喰霊」は、その長さに比して、単純なテーマを繰り返しています。そのテーマとは、

    1. 「絆と柵は表裏一体」
    2. 「強い負の感情に支配されていても、心の奥底の『愛』だけは消えない・消せない」

 この二つ。

絆と柵は表裏一体

 前に喰霊2〜3巻の感想を書いたときにも書きましたが、「主人公・弐村剣輔の持つ舞蹴拾弐號/舞蹴レボリューションの鎖」、「ヒロイン・土宮神楽と白叡を繋ぐ鎖」は、「鎖」という要素が共通しています。そして、この「鎖」は、「何があっても切れないモノ」として作中では機能しています。
 それをポジティブに捉えれば「絆」であり、ネガティブに捉えれば「柵(しがらみ)」となります。
 原作で、当初悪役のポジションにいるボス級の存在は全て、この「鎖」を絶ち切ろうとして足掻いた結果、魔道に堕ち(かけ)てしまった存在であり、主人公サイドの人間は、「絆も柵も受け入れた存在」です。

・ボス級の存在

諫山黄泉 自分と妹である神楽を解放する為、「家(=柵)」を絶とうとした
忌野刹那 自分と妹である静流を解放する為、「呪禁道と陰陽道(=柵)」を破壊しようとした
三途河カズヒロ 自分と母親の安寧の為、世界の理を破壊して母親を取り戻そうとした

・主人公サイドの存在

弐村剣輔 (物語開始時点)神楽との関係を切ろうにも(スケベ心と男のプライド)が邪魔して切りきれない→宿命を背負った神楽を守っていく為に戦う
土宮神楽 剣輔達との「絆」も、家、白叡といった「柵」も、自分の一部なのだと受け入れる
忌野静流 遊びのつもりで神楽達に近付いたものの、それが楽しくなってしまい、裏切りきれなくなってしまう
飯綱紀之 黄泉を自分の手で止められなかった事が後悔となり、黄泉と、黄泉を悪霊化した敵に再度立ち向かう事で嘗ての「絆」へのけじめとしている
帝京子 (具体的なエピソードは現時点では不明)

 つまり、「喰霊」での「敵」とは、「柵」だけを切ろうとしたのに、知らず「絆」まで切ってしまった存在と言えます。元々、「絆」と「柵」は分かちがたいものであり、「柵」を切り捨ててしまえば、「絆」も失われてしまうのです。特に、「刹那―静流」の忌野姉妹の、「姉・刹那からの一方的な絆の破棄」が、「妹・静流からの絆の再構築」によって救済される点は、明らかに「姉・黄泉からの一方的な絆の破棄」が、「妹・神楽からの絆の再構築」で救済する事が出来ず、再び殺すことしか出来なかった事を踏まえており、今の所、「喰霊」は同じテーマを使い回していると言えます。そして、恐らく、今エース誌上で連載されている「土宮神楽―磯山泉」の擬似的な姉妹はそれをやり直そうとしているのでしょう。

 そして、「柵」を受け入れてこそ「絆」も守る事が出来る。その役割を担っているのが土宮神楽で、例えば第3巻で天狗の封印に巻き込まれる剣輔(=「絆」)に、「白叡の鎖」(=「柵」)を伸ばして助けた時、そして、第巻で白叡(=「柵」)を永遠に消滅させる提案を拒否して、白叡(=「柵」)すら自分の一部として受け入れて、両親との「絆」に昇華させた時などがそうです。

「アンタみたいのがいるかぎり…
私は九尾を得ても白叡を消滅させる気はない!」

「だって…白叡とはずっと一緒に闘ってきたし…
使い捨ての道具みたいに…殺すことなんて出来ないよッ」
 
「ゴメン…
そりゃ一度はこんな獣捨ててしまいたいとも思ったけど…
それでも…白叡は私にとって…最後に残された家族みたいなものだもん…」

強い負の感情に支配されていても、心の奥底の『愛』だけは消えない・消せない

 前項の「絆と柵は表裏一体」とも直接リンクしますが、黄泉、刹那は、魔道に堕ち(かけ)てしまってもなお、妹である神楽、静流への思いは決して消えておらず、黄泉は神楽を縛る「柵(白叡、土宮家の宿命)」を断ち切ろうとしており、1〜3巻の黄泉の行為は、結局神楽を救う結果を導いています。そもそも、「(後に神楽を救う)剣輔と神楽を出会わせたきっかけ」を作ったのが黄泉当人であり、「剣輔に殺生石を埋め込んだ事」も、「自分が嘗ていた『神楽の隣』に見知らぬ男がいるという苛立ち」というマイナスの感情と同時に、「自分がもう守れない『神楽の隣』にいる為に必要な『力』を剣輔に分け与える」という意味もあり、第七巻の九尾との最終決戦では、「体内に殺生石を埋め込まれた事」が、神楽を助ける為の要素の一つになっています。

 刹那も、「父親に対する憎悪」と「静流を呪禁道から救い出す」という二つの面が同居しています。(余談ですが、刹那の父親も刹那を殺そうとしたのではなく、組織を裏切ろうとした刹那を生かす方法が、「組織の目の届かない所まで逃亡させる」しか無かったのだと思います、実際に刹那は生きてますし、後に組織から追われた静流を助ける為に自分の命を張っています。)そして、黄泉と同じように、静流に静流を見逃す発言を何度も口にしています。

「生き残りたくば"忠誠"を示せ静流」(忌野刹那)

「追いますか?」(三途河カズヒロ)
 
「ほっとけ必要ない」(忌野刹那)

「――いたのか忘れていたよ」(忌野刹那)

「姉さん!早く逃げて!」(忌野静流)
 
「勝手に逃げろ…
もともとオマエはここに居るべき人間じゃない…」(忌野刹那)

 そして、自分の右手を犠牲にして静流を助ける事で決定的に刹那の「静流に対する愛情」が描写されるワケです。

 そしてまたまた余談ですが、九尾に取り込まれた土宮神楽が、剣輔に「…殺して」と頼むシーンは、あまりに在り来たりで目立ちませんが、この「強い負の感情に支配されていても、心の奥底の『愛』だけは消えない・消せない」というテーマの反映であり、それを救ってみせた剣輔は、黄泉を救えなかった過去を払拭した事になるのですよね。

原作を総括して

 このように、原作の「喰霊」は長く続いてはいますが、その根底に流れるテーマは不変です。
 ただ、一読者としての印象を言わせてもらえば、それがあまりに分かりにくく書かれています。例えば、「喰霊-零-」の存在自体がそれに言及していると言えますが、1〜3巻の「黄泉と神楽」の物語は、あまりにも多くを語らなすぎであり、そのやり残した事を、3〜7巻の「刹那と静流」でやり直すという事をし、さらに8巻から再度「黄泉(磯山泉)と神楽」の関係性でやり直すという、冗長な事をしています。作品としてのメインはあくまで「剣輔と神楽」なので、関係の発展に時間が掛かるのは仕方無いことですし、作品のテーマの軸がブレるよりは何倍もいい事ですが、tukinohaさんも言及されているように、毎回同じパターンの話を読まされるのは、単行本でまとめて読むと特に目に付きます。

1〜3巻、4〜7巻、8巻〜でまとまった話になっていますが、それぞれ最初は小さな事件から始まって、だんだん話が盛り上がっていき、最後には妖怪大決戦!という基本的な流れについては共通しています。妖怪大決戦のパターンなんて限られているので、オチはやや平凡。途中でぽんぽん追加される設定もご都合主義的なものが多く、どうもストーリィ構成の弱さを感じます。ひとつのまとまりが短いので、アニメ版のような畳み掛ける重さも感じませんでした。

http://d.hatena.ne.jp/tukinoha/20081127/p1

 尤も、私は原作「喰霊」で感心したのは、「アニメ的分かりやすさ」を敢えて廃しているキャラ、例えば諫山黄泉の存在でした。「アニメ的分かりやすさ」というのは、私が勝手に作った用語ですが、「このキャラはこういうキャラだからこういう行動しかしないよね。」という、予定調和とも言うべき行動の事です。例えば、「正義の味方なら、無辜の市民を虐殺したりはしない」というような、不文律のお約束とでもいいましょうか。こういう分かりにくいキャラというのは嫌われる傾向が高くて、主人公、ヒロインも敵キャラも、メインキャラは読者が分かりやすいように「なぜこういう行動をするのか」というのを「最初からじっくり肉付けしていく」か、「一度提示したらその周辺のキャラによる過去話で肉付けしていく」などの方法で語られる事も多く、喰霊1〜3巻の、作者のストーリーテリングの拙さという要素もあるのですが、その「アニメ的分かりやすさ」を廃して、「矛盾だらけの行動」で謎めいた黄泉の行動の蓄積によって「行間を読む事で初めて『その背景』が理解でき、それによってドミノを倒すように全ての行動の背景が理解できる」という、漸化式的記述をしてみせてくれた所なので、ストーリーなんて割とどうでも良かったりするのですが。

喰霊-零-」の完成度の高さ〜原作「喰霊」を凌駕し完成させた傑作〜

「愛するものを、愛を信じて殺せるか」

 これは、喰霊-零-の公式ページに据えられたキャッチコピーです。

 この意味を、アニメだけを通して考えれば、「諫山黄泉の願いは土宮神楽を守ることであり、土宮神楽はそれを信じて黄泉を殺した」という、最終回の神楽の心情を表しているように見えますが、原作を読めば、この短いキャッチコピーが、「強い負の感情に支配されていても、心の奥底の『愛』だけは消えない・消せない」という、原作「喰霊」が実に7巻を費やしてようやく描写するのに成功した作品の根幹である事が分かります。
 まず、原作「喰霊」では、1〜3巻で、諫山黄泉の「真の願い」を描写する事が出来ず、3〜7巻を通して、諫山黄泉の代わりに忌野刹那を配置しての「静流→刹那」の関係性の修復及び、「剣輔→九尾に取り込まれた神楽」の救済によって、静流、剣輔が「心の奥底の愛」を信じる事を描写して、ようやく決着が付きました。そして、恐らく1〜3巻で描写出来なかった瑕瑾を精算すべく、8巻から再び黄泉と同質の存在である磯山泉として登場して、やり直ししようとしているのです。
 実に月刊誌で40話に及ぶ長い頁数を費やしてようやくそこまでたどり着いたのです。月刊誌の1話は平均的に換算すれば、アニメに1話程度です。40話といえば、実に一年分。しかし、その1/4の長さの、「喰霊-零-」が、原作付きという制限で、全く同じ内容を別の側面から掘り下げ、更に、「絆と柵は表裏一体」という、やはり原作で未だに明示的に描写されていないもう一つのテーマを、第11話で土宮雅楽によって言語化させているのですから、「喰霊-零-」のすごさは実感できると思います。

「神楽、愛しいか。」(土宮雅楽
 
「うん。」(土宮神楽)
 
「悲しいか。」(土宮雅楽
 
「うん。」(土宮神楽)
 
「憎いか。」(土宮雅楽
 
「分からない…。」(土宮神楽)
 
「神楽、全て忘れるといい。
それが一番楽になれる方法だ。
この務めに就く者は皆そうしている。
だが、本当に強くなるなら全て背負え。」(土宮雅楽
 
「背負う?」(土宮神楽)
 
「人として人を守るなら、『思い』を捨てるべきではない。
それがどんなに辛い『思い』であっても。」(土宮雅楽
 
「全て、背負う…」(土宮神楽)
 
「しかし、それはとても苦しい道だ。
どちらを歩むかはお前が選べ。」(土宮雅楽

 しかし、「喰霊-零-」のすごさはそこに留まりません。原作の失敗である「冗長さ」の原因である「同じ事の繰り返し」を逆手に利用して、「似た状況」を意図的に繰り返し、その「差分」によって、登場人物達の心情を視聴者に推測させるという手法です。例えば、「黄泉と神楽の対峙」は、第2話での破滅的な状況下での対峙、第3話での黄泉の圧倒的な技量の差で決着が付いた最初の対峙、そして第7話での黄泉が神楽に引き分けるまでに追いつかれたなど、その時々での黄泉の心情が差分によってより一層強く印象づけられるようになっています。
 また、第2話で展開を先に提示するという演出が、視聴者に「未来と現在」の差分を意識させるように働きかける機能を果たしており、正に盤石です。

 駆け足になりましたが、第11話で、「絆と柵は表裏一体」を、第12話(最終話)で、「強い負の感情に支配されていても、心の奥底の『愛』だけは消えない・消せない」を描写し、原作の短所さえも長所に変えてみせてくれた「喰霊-零-」。スタッフのみなさん、素晴らしい作品をありがとうございました。

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