2009-10-01
■元記事と何も変わらないではありませんかwww
当事者三者の話はそれぞれ、「自分だけが知っているのではなく、(当事者の)皆が知っている」こととして話されています。
そりゃそうでしょwww 自分の話に登場する人物がその内容を知らないなんて前提でものを語る奴なんかいる筈ないじゃありませんかwww いったい何が言いたいんですか、この部分わw
こうした語りの内に想定されているのが、<大文字の他者>=仮想的な「わたしたち」あるいは「みんな」です。文脈によって「神さま」が代入されることもあります。
これは結局、「規範」でしょうw 「わたしたち」や「みんな」や「神さま」がこうふるまうべきだと規定したところのものでしょうw
観客から見ると、語り手が変わるに従って物語の差異が加算され、<大文字の他者>の共通基盤は崩壊していきます。
今度は「共通基盤」が「崩壊」したんですかwww それって何ですかwww 喰ったら旨いんですかwww なんだか言葉遊びをしているようにしか見えませんwww 「規範」が「崩壊」したわけではないんですよねえw 「<大文字の他者>=仮想的な『わたしたち』あるいは『みんな』」なんですよねえw では、その「共通基盤」って何ですかwww 結局、常識とか規範とかそんなものしか考えられないじゃないですかww
最後に四番目の語りによって、つまり三者が知っていて隠していた最も身も蓋もない醜い事実が実際に話されることによって、彼らがを信じているふりをしていたことが明らかになります。
「信じているふりをしていた」ということは、実は信じてなどいなかったとw じゃあ何で「トラウマ」になるんですかwww 元々そんなもの信じてなかったんでしょう? www
我々の日常のコミュニケーションによくあるのはこうした振る舞いである、というのがジジェクの指摘のポイントです。つまり物事を「自分だけが知っているのではなく、皆が知っている」暗黙の了解事項として話し、本当のことはあまりにも身も蓋もないので言わない約束になっている、そのようにして<大文字の他者>は仮想的に維持されているということです。それが「文化」というものの極端な現れだとジジェクは書いています。
こんなものは建前といえば済む話じゃないですかwww
映画では、三人の前で第四話の語りが行われそれが真実であると認定されたわけではありません。しかし、ジジェクは第一から第四までの話を、ある出来事を抑圧しようとして(なかったふりをし自我を防衛して)現れたさまざまな症候と、その後遡及的に見出されるトラウマという、精神分析の過程に当てはめて考えているのではないかと思います。
その程度のことは、別に「精神分析の過程に当てはめて考えて」みなくとも、下人が「人間って奴は自分にまでも嘘をつく」と喝破しているではありませんかw 要するにあれでしょ、予想もしなかったトんでもない事態をぶち当たったので、各自各様に自我の再構築を行っていたというだけの話でしょw それまで「当事者三者」が己を規定していたところのものを大野さんは「規範」と言ってみたり「<大文字の他者>」と言ってみたりしてるだけでしょw
ジジェクはその線に、「男の権威の弱体化と女の欲望の前面化」が表われていると書いています。言い換えると、「象徴秩序の弱体化と享楽の前面化」です。象徴秩序は<大文字の他者>が機能するところです。また享楽とは、快感原則を越えた痛みに近い非常に強度の高い経験のことです。「女の欲望」の根原にあるのは他者の享楽と言い、自他の境界を曖昧にしようとするものとされていますが、ここでは大雑把に象徴秩序以前の規範も道徳もない剥き出しの欲望と考えていいと思います。
結局また「規範」が出てきちゃったじゃないですかwww この部分も何を言いたいのか、さっぱり分かりませんねえw 「欲望」を制御したりその交通整理をするためにあるのが「規範」や「道徳」じゃないですかw それが弱まれば当然に「剥き出しの欲望」が出てくるでしょうよw 当たり前の話じゃないですかw だから何だって言うんですか?
「欲望」について精神分析的に語るのであれば、女よりもむしろ男に焦点を当てた方が分かり易いですよw 前にも書きましたけど「欲望は他人の欲望」ってやつですw つまり、武士の女(妻)に対する欲望が多襄丸に伝播することで彼は犯行に及んだのであり、仕舞いには「俺の妻になってくれ」とまで言い出した、しかし武士の方が「こんな女要らねえや」と言い出すと、あっという間にその欲望は消え失せてしまったw そうなると困るのは女の方で、彼女はお上品ぶっているのを止め、「男の権威」を逆手に取ることによって窮地を逃れようとしただけですw 「女の欲望」なんて言い方をするからわざとらしくなるのであり、「ニーチェが語ったように、真理は、首尾一貫していないという点で、また無数のヴェールの下に究極の基準がないという点で、女性的」なんでしょう? 「女の欲望」とは、単にルール作りが好きな男に対比する格好でそう言ってるだけでしょwww
四つの物語は、男性間で女という財が一方から一方へ移動する話、つまり「女を巡る男同士の闘い」というパターンのヴァリエーションと看做せます。
そうですかあ? 正当化の「ヴァリエーション」でしょう?
- 強姦はしたものの後で正当に決闘した、オレは卑怯じゃない。
- 強姦されたというのに却ってそれによって夫に蔑まれた、私は可哀想。
- 強姦された妻がその相手に夫である自分を殺させようとした、私は可哀想。
- 俺は短刀を盗んでなどいない。だから検非違使の前では黙っていた。
もちろんそれらのすべてに自己の保身のための計算を見ることもできますが、最初の話から順に見ていくと徐々に互いの利害や感情が複雑に絡み合い、明らかに印象が様変わりしています。悪党だが堂々としていた盗賊は意気地なしに、倫理を重んじていた武士は俗物に、男の権威を尊重していた妻は自分勝手な女に。それぞれから見てあってはならない振る舞いをしていました。
ここだけですかねえ、素直に首肯できるのは。結局は自我が揺らいだので作り話をしてその修復を図ったということでしょw 「崩壊」しかけたのは、「<大文字の他者>の共通基盤」なんかじゃなくて自我ですよw ここでいう自我とは、自分が何者であるかということ。自分を勇敢だと規定していたものが何かの拍子に姑息で卑怯なことをしてしまったら、例えそれが些細なことでも、あるいは誰にも見られていなかったとしても煩悶せざるを得ないのは、それが自分の自我を脅かすから。豪放磊落でならす多襄丸は「お前も小利口なだけだった」と言われてガーンw 武家に生まれた者としての道を説く武士は「あたしに死ねと言う前に何故この男を殺さない」と詰められては、ぐうの音も出ないw 女の場合にはもっと酷いw まず武士の妻というアイデンティティがレイプによって揺らぎ、その強姦魔に求婚されて一息ついたのもつかの間、双方から見限られて絶体絶命www ことほどかように夫々の自我は異なっているではありませんかw いったい、何が「共通」していたというのです? 自分でも「それぞれから見てあってはならない振る舞い」と書いているではありませんかw 「ふりをしていた」んじゃないですよw みんなその時点では本気だったんですw だから必至で自分を取り繕わなければならなくなったのですw この話が面白いのは、誰か一人の自我が揺らいだのではなく、三人が同時にそのような状態に陥ってしまったというダイナミックさにあり、だからこそ各人の話がまるで食い違っているというミステリが発生するところにあるのですw
『羅生門』は閉塞的な状況における人間関係とその心理があまりによく描かれているために、どうしても観察がそちらの細部に引っ張られてしまい、いきなり前知識もなしに<大文字の他者>について理解する例としては少し難しい気がしますので、最後にジジェクが度々出す有名な小咄を紹介しておきます。
これはあれでしょ、乃木将軍が乃木将軍であるのは他のみんなが彼を乃木将軍であると認めているからであり、そうでないのに自分を乃木将軍だと言い張った奴が精神病院にぶち込まれたという話と同じでしょw 「当事者三者」は違いますよ。多襄丸は都にその名を轟かせていたし、武家の二人についてはその地位からして周囲に認められていたのは間違いないでしょう。こんな「小咄」は必要ありませんw
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