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2011-02-01

キ印の藁人形怖ええw



仮に氏が電子書籍に対して非観的であるならば、氏自身が進めている「Jコミ」に対しても、氏は楽観的な立場を取れないはずである。にも関わらず、新條まゆ『放課後ウェディング』の広告利益を報告した記事において、氏は楽観的な態度を示している。それは「今後全ての読み切り作品においてこの額が手に入るとは限りません。」に続く「絶版マンガが殺到し、広告が足りなくなる事態があり得ます。」という文から読み取れる。悲観的な立場であるならば、続くべきは「この額は『新條まゆ』の知名度による支えがあったものでありますので。」という文だろう。


またも文盲臭漂うキチガイの駄文を発見してしまったw これはまた随分と奇妙な思考形式であるw 一見すると筋は通っているかのように見えるが、そんなものに騙されるのはこいつと同じ文盲であるw 上記引用文は下記のような構造となっている。


一文目 : 仮定における推論(Aが真であるならBも真)
二文目 : それに反する事実(Bは偽)
三文目 : 事実の内容(Bは偽)
四文目 : 推論を元にした場合に存在した筈の事象(Bが真であった場合に発生した事態→が起こらなかったのだから矢張りBは偽)


ここに欠落しているのは「五文目 : 仮定の捨象(Bが偽であったのだからAも偽)」だw 結論として「氏」「電子書籍に対して」「楽観的」であったと結ぶべきなのであるw がしかし、実は真の問題はそこではないw そもそもこやつが冒頭に置いた仮定そのものが不要なのであるw 何故ならこやつが最初に目にしたのは二文目の事実であった筈だからだw つまり、「新條まゆ『放課後ウェディング』の広告利益を報告した記事において、氏は楽観的な態度を示してい」たのだから、赤松が「『Jコミ』に対して」楽観的であることは既に確定しており、今さらそれを疑う必要は微塵もないのであるw 要するに「氏が電子書籍に対して非観的であるならば」などという仮定を置くこと自体が不自然なのだw


これは単なる藁人形に過ぎないw こいつわ相当思い込みの激しいタイプのバカであるw こいつは何かを証明するための思考実験として仮定を置いたのではないw 最初から「氏が電子書籍に対して非観的である」と言いたいがためにそうしたのだw 因みに仮定そのものも間違っている。「電子書籍」一般はダメだったとしても「Jコミ」だけは隆盛する事態だってあり得る。両者を一蓮托生の関係にあると規定するのは早計であろう。


逆に、仮に氏が電子書籍に対して楽観的であるならば、対談における電子書籍に対して悲観的な発言は出てこないはずだ。むしろ氏が進めるJコミを持ち出して「Jコミにおける広告料分配の仕組みをスライドすればいけますよ」くらいの発言が出てきても不思議ではない。にもかかわらず、それがない。もしかしたら、氏はその旨を発言していたにも関わらず、元記事で切り落とされてしまったのかもしれない。それでも、少なくとも、氏が電子書籍に対して悲観的であることは間違いないだろう。


思考実験めかした思い込みの押し付けはまだ続くw 「逆に、仮に氏が電子書籍に対して楽観的である」場合を検討する必要などない事は既に上記に示した通りだw 「対談における電子書籍に対して悲観的な発言」など、そもそも元記事には存在しないw こいつの妄想であるw その後にもこのバカの勝手な思い込みに基づく「あり得べき氏の発言」がだらだらと並んでいるが、これはもう完全にキ印のそれであり背筋が寒くなってくるw


そもそも、赤松が「電子書籍に対して非観的である」「楽観的である」かなどという設問自体がこいつの勝手な妄想w 元記事で問題とされていたのは別の事柄であるw


この対談が企画されたのは、両者がtwitter上で交わした「電子出版時代の編集者像」にまつわるやりとりが発端。「マンガの主戦場が電子書籍に移行した未来では、編集者の職能も兼ねたマンガ家が生き残っていくだろう」という意見で一致を見た両者が、懇談の機会を求めたことによる。


しかしながら、対談が始まってみると両者の立ち位置の違いは明白。電子書籍時代でも「編集職は絶滅しない」と主張する竹熊に対し、赤松は「やがて編集者は絶滅し、ひいてはマンガ文化も死に至るだろう」と悲観論を展開した。



なwwww 「赤松健×竹熊健太郎、マンガ業界の5年後を考える対談」におけるテーマは「編集職」の未来を楽観視するか悲観視するかということなのだw そこへこのキ印が勝手に頓珍漢な対立項を持ち込んだ挙句、独り善がりな繰言を披露して悦に入っていただけの話なのであるwww うわーキチガイだ怖えええwww


Jコミに対しては楽観的だが電子書籍に対しては非観的――。氏のスタンスは表面的には矛盾している。


これが言いたいがためにこやつは必要のない仮定を持ち出して馬鹿馬鹿しい独り相撲を取っていたのであるw 何をどう読んだのか知らないが、こいつは赤松が「電子書籍に対して非観的である」と思い込んでしまったらしいw そんなことなど書かれていないことは元記事を読めば一目瞭然であるw


ところで、Jコミの広告枠に関する氏のアイデアを見てみよう。当ブログのコメント欄において、氏は「5〜10種の作品の(同じ位置の)広告枠をまとめて売却し、人気作品と不人気作品を均(なら)す」と述べている。これはこれまで編集者(特に雑誌編集者)が行ってきた新人プロデュース手法のひとつである。 人気作品が新人作品を支えることにより、次の世代の作家を育てているのである。そう、氏はJコミにおいて、まさに編集者としての役割の一旦を担っていると言えるのだ。


懸命な読者ならもうお分かりだろう。Jコミにおける「編集者」たる赤松氏が、電子書籍時代の編集者は「絶滅」するという旨の発言をしている、という自己矛盾に。



アホだwww 「人気作品が新人作品を支えることにより、次の世代の作家を育てている」のは金銭的な問題であり、単なる経営手法であるw 「新人に対して有効な指導ができ」るか否かといった「編集者」本来の仕事とは別の話であり、「自己矛盾」でもなんでもないw バカは事象の把握が出来ないからバカなのだと何百回も言ったとおりであるw


ところで、このキ印の戯言とは別に、赤松の言ってることもよく分からない。


赤松のロジックは明快だ。電子書籍の割合が増えるほど、業界は一握りの人気作家によるヒット作で支えられるようになる。人気作家はすでにプロデュース能力を手にしているため、編集者が作品にアドバイスする余地はなく、よって編集者の力量が育たない。すると新人に対して有効な指導ができず、新人が育たない。人気作家たちが引退したのち、後続する才能は枯渇し、ゆるやかに業界は死に至るであろう、と。


二文目は分からないでもない。従来の物理的流通を不要とする「電子書籍」においてはその手軽さから「出版点数」が拡大することが予想され得るが、そこにおいても矢張りヒットする作品の数は限られているとすると「ヒット作」とそれによって「支えられ」ている作品との割合もまた今よりも拡大すると考えることは可能であるからだ。分からないのは三文目以降で、それは何故かと言うと、「すでにプロデュース能力を手にしている」「人気作家」に対して「編集者が作品にアドバイスする余地はなく、よって編集者の力量が育たない」ことが本当であったとしても、そんなことは「電子書籍」以前の出版においても同じであったと思われるからだ。これまでも数多く存在した「人気作家」に対して「アドバイス」出来ないから「編集者が」「育たない」のであれば出版業界は当の昔に死滅しているはずであろう。「人気作家」「プロデュース能力」までをも「手にしている」かどうかも怪しい。そんなものは「作家」によるだろう。まあ、「対談の全容」「2月上旬、電子書籍ニュースサイト・ITmedia eBook USERにて伝えられ」れば分かるのであろうが。

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