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2006-08-15

[]公約に基づき私人として内閣総理大臣という肩書きつきで実行される心の問題

参拝それ自体もさることながら、過去5年間靖国参拝を巡って小泉が語りつづけたデタラメを、この社会のマジョリティが大目にみたことの方が問題かもしれない。


追記:すでに首相の行動様式が国民に影響を与えている、という報道が…(笑)

[]1945年8月15日に終わらなかった戦争

降伏文書の調印は9月2日であるとか、ポツダム宣言の受諾を連合国側に通告したのは8月14日であった…というのはそれぞれ「8月15日」を考えるうえで重要な事柄ではあるが、ここではそういう意味ではない。

『蟻の兵隊』*1は日本兵(特務団)山西省残留問題を追及する元兵士についてのドキュメンタリー。先日、藤原彰の『天皇の軍隊と日中戦争』をエントリにとりあげた際に少し言及しておいたが、北支那方面軍第一軍の将兵約2600人が戦後も山西省に残留し、共産党軍と戦い600名近い戦死者を出した、という問題である。この映画に登場する奥村氏もまた負傷して捕虜となり、54年になってようやく帰国した。戦犯となって禁固刑を受けた者も含めほとんどの帰国が完了したのは64年のことであったという。

映画のなかでは閻錫山が国民党軍の一司令官であるかのように描かれているが、事態はもう少し複雑である。

山西省の軍閥閻錫山は、辛亥革命後に山西都督になってから三〇年間この地を支配し、山西モンロー主義を唱えて独自に開発をすすめ、国民政府に対しても不即不離の半独立的態度をとっていた。(…)山西省に侵攻し、その後ここに駐留した第一軍も、閻を利用して日本軍に協力させようとし、一九四〇年ごろから「対伯工作」(閻錫山が伯川と号していたことから名づけられた)という謀略を行っていた。

(『天皇の軍隊と日中戦争』、168頁)

『敗因を衝く』を書き東京裁判において検察側に協力した田中隆吉も、自らがこの工作に関わったことを記している。こうした経緯があって、日本軍の降伏後閻錫山は第一軍に山西軍への協力を呼びかけ、国民政府から戦犯指名を受けていた軍司令官済田中将および第一軍参謀、部隊長らが当初の予定では約1万5千人、結果的には2600名の将兵に残留を「命令」したとされる。

閻錫山の動きが国民政府の指示に従ったものではなかったのと同様、軍中央もこの残留を承認していたわけではなかった。映画にも登場する宮崎舜市参謀が支那派遣軍総司令部から派遣され第一軍に翻意を促したが、これに従わなかったという。その意味で、これもまた日中戦争においてしばしばみられた現場の独走ではあったのだが、残留将兵が起こした訴訟(帰国するまでの軍籍確認、戦死者への補償等を求める訴訟)における国側主張のように「自らの意思で残留」したのだとは到底言い難い。宮崎参謀が軍中央に送った電文にも第一軍が閻錫山の目論みに「積極的に協力」している様子が語られており(『天皇の軍隊と日中戦争』、175頁)、そのような状況下で下級将校や下士官、兵士に「自らの意思」があったと言えようか? しかし奥村氏ら原告団の訴えもむなしく、最高裁は上告を棄却した。

ちなみに宮崎元参謀は、10年以上前にテレビ放映された際のフッテージ(命令書を見た、と証言)と、病床にあるところを撮影したビデオで登場するが、齢90を超えほとんど「なにもわからない」(長女談)状態になっているにもかかわらず、奥村氏のはなしに応えて(あるいは応えるかのように)なんともいえないうなり声をあげるシーンのすさまじさは、文字ではなかなか伝えきれない。


日本兵山西省残留問題はこの映画の柱の一つではあるのだが、それだけではない。奥村氏が「被害者」ではなく「加害者」としての自分(たち)の過去をたどる旅がもうひとつの柱である。閻錫山と第一軍の密約を示す史料を探すための中国への旅で、奥村氏は自分が「新兵の肝試し」として初めて人間を殺した場所を再訪する。恐怖のあまりなにも目に入らなかった自分に代わり、現場を目撃していた人を捜すためである。逃亡して難を免れた中国人の息子と孫に対面し、その中国人が(日本軍と協力関係にあった)炭坑の警備員だったことを知った奥村氏は息子を詰問する。八路軍の攻撃を防げなかった責任を追及されたのだとすると、「処刑されるに値することをしたのではないのか?」と。後に本人も「自分の中の日本兵」が残っていた、自分の殺人行為に理があることを確認したい気持ちがなかったとは言えない…と振り返っているように、映画の流れのなかでは非常に収まりが悪いが、その分元兵士の複雑な心理を浮き彫りにするシーンであった。なにしろ奥村氏は、中国側に残された戦犯(容疑者)の調書を閲覧・コピーし、原告団仲間の当人に提示してみせるほどに「加害者」としての側面にもこだわりをもつ人物なのである。

奥村氏は他にもいくつか戦場となった村を訪れ、生存者たちの証言を聞く。同年兵に強姦のための見張りをやらされたことを思い出した*2氏は一人の性暴力被害者とも対面する。彼女の証言には「父親が身代金を支払い、懇願してようやく解放された」とあるが、笠原十九司氏らの研究によればそうした事例はしばしばみられたとのこと(なかには、性病の治療のために必要な金を身代金で調達した将校もいるらしい)。彼女は同時に日本軍協力者の中国人の存在や、同じ村の住民から「日本兵と寝た女」といった陰口を叩かれた、といった(宣伝としてはいかにも不都合な)証言まで行なっており、戦時の性犯罪がなかなか告発されない事情を改めて明らかにしていると言えよう。


映画の終り近く、奥村氏は靖国神社で演説する小野田寛郎元少尉のはなしを聞いている。スター扱いの小野田氏に奥村氏は「侵略戦争を美化するのか」と声をかけるが、小野田氏は「開戦の詔書を読み直せ」と答える。また(少々聞き取りにくかったのであやふやだが)大同(山西省の省都、太原からさらに北方の町)で、引き揚げの「足手まとい」になる子どもが日本軍によって殺害されたらしい…という件の真相を明らかにしようと、当時の事情を知るはずの人物を訪問するが、門前払いに近い扱いを受ける。このあたり、『ゆきゆきて神軍』の影響かなとも思わせるが、生存する当事者たちが数少なくなるなか、「記憶の戦争」における決定的な転換点が近づいていることを印象づけてもいる。


 上映館が非常に限られているので、観ようと思ってもご覧になれないという方に。
奥村和一・酒井誠、『私は「蟻の兵隊」だった』、岩波ジュニア新書
まだ冒頭部分を読んだだけなので、特記すべきことがあればこのエントリに追記します。

[][]『私は「蟻の兵隊」だった』*3

とりあえずさっと目を通しただけですが、映画を観たひとにとっても読むに値する一冊だと思います。奥村氏は早稲田専門学校(早稲田大学の夜学)の商科に在学中に徴兵され、帰国後復学(卒業はできず)したという、当時としてはまずまず高い学歴の持ち主で、そのせいだけでもないだろうが自らの経験をきっちり振り返って言語化しようとする意思が強い。今よりも学歴格差が大きかった時代のことだから、戦後に研究者になるような人物は戦争中も将校だったりすることが少なくないわけで(藤原彰しかり、また大江志乃夫も陸軍航空士官学校在籍時に終戦を迎えている)、これまでにいろいろ読んできた一兵卒の回想の中でも非常に自覚的なものの一つだという印象を受けた。

特に興味深いのは、捕虜時代〜帰国後〜山西省残留問題に取り組んで以降〜映画の撮影で訪中してから…という心境の変化についての証言。捕虜時代には中国共産党の思想教育にさかんに反発していたのに、帰国後「現地除隊」にされていたという処置や公安の嫌がらせへの怒りもあって、人によっては「図式的」とも評するであろう旧軍批判に傾いた(だから、戦死した戦友の「慰霊」もしたことがなかった)奥村氏が、映画の撮影で山西省の村の住民、元八路軍兵士、性暴力の被害者と対面して戦争への認識をさらに改めてゆく…という事情が語られる第5章は白眉。奥村氏は、妻にもまったく話してこなかったこと―人を殺したという経験―を、戦後60年たってようやく語る決心をする…。

*1:監督:池谷薫、出演:奥村和一ほか、2005年、日本。

*2:奥村氏自身は強姦の経験はないと証言していたが、44年の11月に入営した奥村氏の場合、この証言が真実である可能性は十分あると思われる。強姦は一種の役得とみられていたから要領の悪い初年兵には機会がない、ということは現にあったようである。

*3:奥村和一・酒井誠、『私は「蟻の兵隊」だった』、岩波ジュニア新書。