招魂社でアーメン

『近代とホロコースト』との関連で『逆説の軍隊』(戸部良一、『日本の近代9』、中央公論社)を読んでいるのだが*1、ちょっと考えさせられるエピソードが紹介されている。
明治政府が当初フランスの軍制をモデルに陸軍を整備した(海軍はイギリスがモデル)ことは比較的よく知られているが、当初は授業をすべてフランス語で行ない、地理や歴史もフランスのそれが教えられていた、というほど徹底したフランス化だった。なにしろ、靖国神社の前身である招魂社の参拝に際して、フランス語の号令でカトリック式の礼拝をしていたのだそうである(87頁)。上からの近代化が始まった直後の、短期間のエピソードであるとはいえ、靖国神社の性格を考えるうえで示唆的なはなしではある。

*1:というと語弊があって、たまたま古書店で見かけて買い、冒頭部分をぱらぱらと読んでいると問題として接点がありそうだったので同時並行で読むことにした次第。後進国にままあるように、日本においても軍隊は近代化のトップランナーだったにもかかわらず、やがて近代化の成果を反故にするかのような愚挙に及ぶ。これを日本の近代がはらむ「逆説」として理解しよう…というねらい。

歩兵操典

日露戦争後の1909年に日本陸軍が歩兵操典を改訂し、銃剣突撃の重要性が強調されたことについてはこれまでも何度か言及してきた。これは日露戦争で日本軍が火力不足を露呈し、それを精神力で補おうとしたからだ、と説明されることが多いようである。しかし『逆説の軍隊』はこの説明を斥けている。また、日露戦争において日本軍が白兵戦で優位に立ったため、その長所を強調したのでもない、という。実際には、ロシア軍相手に白兵戦で苦戦したからこそ、改めて攻撃精神と白兵戦の重要性が強調されたのだという。「ところで聖人はなぜ声を大にして「中庸」を叫んだのであろうか? 曰く、これは正に人々が中庸でなかったために外ならぬ」という魯迅の言はここでもやはり真理であったということであろうか。


追記:同じく日露戦争後の1908年に軍隊内務書が改正されたが、その理由は表向き「日露戦争は、精神力が勝敗を決することを証明した」からだとされている。しかし著者はこれについても「日露戦争に関する逆転した解釈」だとし、実際には軍拡および在営期間の短縮によって徴集者が急増したこと、また「社会風潮の変化」*1による規律の乱れに対応するために精神力を強調したのだ、としている。
吉田裕などによれば、国民の間に芽生えつつあった権利意識は「服従」をこととする軍隊にとって脅威としてうけとめられたが、軍の中にもそうした国民の意識の変化に対応し、自発的な服従を可能にするような改革を志向した人物もいたそうである。だが、結局は中隊長を「厳父」とし下士官を「慈母」とする家族主義によって兵士の自発性を抑圧する道を選んでしまったわけである。
戸部良一は、家族主義がはらむ曖昧さが一方では軍紀の取締りをゆるくしたり不祥事を内々で処理する傾向を生み、他方では私的制裁などの行き過ぎを容認してしまう土壌となった、と指摘している。昭和陸軍の実態に照らして肯首できる指摘ではないだろうか。

*1:日比谷焼き討ち事件を引き起こした、また大正デモクラシーにつながる、「大衆」の誕生に対応した社会の変化のこと。

読了

『逆説の軍隊』(戸部良一、『日本の近代9』、中央公論社)を読了。
上のエントリにいろいろとコメント頂戴しているトピックについてだが、第一次世界大戦の戦訓をふまえて歩兵操典を改正する動きもあったとのこと。そこでは「精神力を過大に重視する従来の操典に対する批判」も示唆されていたが、1923年にまとめられた改正草案にはストレートには反映されなかったそうである。その理由は「日本が近代兵器を装備した敵のみと戦うとは限らず、装備の劣悪な相手と戦う場面もあるからだ」という、理由にもならぬ理由である(298頁)。1928年の歩兵操典要綱ではさらに後退した内容になってしまった。
戸部氏は、この時期が皇道派の全盛時代であったことを指摘している。さらに遡れば、宇垣軍縮は四個師団削減を代償として装備の近代化を目論むものだったが、軍の大勢はとにかく師団数を維持する(あわよくば増やす)ことを支持していたという。派閥争いや既得権益の擁護が結果として軍の近代化を阻んだと言いうるわけである。国力が劣るが故の負け惜しみで精神論をぶつならともかく、本気で精神力が物量に勝ると考えているのなら要注意だ、という趣旨の皇道派批判を吐いた永田鐵山は、軍務局長(少将)在任中、皇道派の中佐に執務室で斬殺されてしまう。