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2007-08-05

[][]「『慰安婦問題』問題」とは何だったのか(その1?)

  • 秦郁彦・大沼保昭・荒井信一、「激論 「従軍慰安婦」置き去りにされた真実」、『諸君!』2007年7月号
  • 大沼保昭、『「慰安婦」問題とは何だったのか メディア・NGO・政府の功罪』、中公新書

本来なら90年代前半の報道などを調べなおしたうえで書きたいところなのだが、そうしていたらいつになることやらわからないので、とりあえず『「慰安婦」問題とは何だったのか』より次の2点に絞ってコメントする*1

  1. アジア女性基金の「半官半民」という性格について(第1章、第2章など)
  2. 法的責任と道義的責任を巡る議論について(第5章など)

アジア女性基金は、「元「慰安婦」への償い金は国民からの拠金によるが、そうした募金活動や被害者への償い金の手渡しなどにかかる費用(…)はすべて政府予算から」まかなう(13ページ)という半官半民の活動を行なった。この点について、大沼氏は「日本の侵略戦争と植民地支配への反省と償いは、政府だけに委ねるべきではなく、日本国民全体がかかわる仕組みをつくらなければならない」(6ページ)という持論に基づいて(そしてまた、14ページで指摘されているように、この方式なら国民からの募金がすべて被害者の手許に届くという意味で)「高く評価すべきこと」だとしている。もっとも、大沼氏自身の当初の構想とこの「半官半民」方式とのあいだには大きな違いがある。大沼氏が考えていたのは「政府はもちろん、財界、労働界、マスメディアなどすべてを含んだ、政府と国民総体の事業として戦後補償のため数十億円規模の基金を設立すること」であった(8-9ページ)。実際に実現したのは「あくまで政府としては補償するつもりはない」という強硬論と「なんとしても政府が関与すべき」という大沼氏らの主張の妥協の産物だった。この妥協案をとりまとめるうえで大沼氏が払った努力を軽んじるつもりはないが、両者は「日本国民全体がかかわる仕組み」という観点からいえばまったく意味あいを異にしている。そして右派のみならず多くの左派もがアジア女性基金構想に反対した理由は、まさにこの相違に関わっているのである。

これは2.の論点、すなわち左派の多くが裁判闘争による国家補償の実現にこだわる理由(とそれに対する大沼氏の批判)にもつながる問題である。「償い金」が国民からの拠金による限り、その拠金が国民の一部からのものにとどまるであろうことは自明である。「慰安所制度は公娼制と同じ」と主張したり「陸軍大将より高い収入を得ていた」などと主張する層が拠出することはまず考えられないからである。ここで私が想起したのは内藤朝雄氏と山形浩生氏の次のような対立である。

やまがた 『(…)

(…)

ぼくにとって制度とはそういうものではありません。制度とは、結局のところ、その社会の構成員が自主的に(いやいやかもしれなくても)やることの総和です。法律なんて、そのごくごく一部でしかありません。ですから制度を変えるというのは、ぼくにとってはまず自分からその行動を起こすことです。現在の著作権制度やソフトウェアのあり方について疑問だと思えば、ぼくはそれを少しでもよくすると思われる活動をしますし、またそれに関連した団体に寄付をして、現状を変える努力をします。途上国援助についても、足りないと思っているので、そこそこの寄与を自分の評価に基づき私的に行います。その上で、言論活動を通じて制度改変の必要性をも訴えます。それに賛同して自主的にやる人が増えれば、制度というのは変わるんです。既得権益がにらみ合いになったり、手詰まりに陥っているときにのみ、お上頼みの強制的なてこ入れはあり得る。またマクロ経済政策のような、個人では何ともならない部分もある。でも、個人でできる部分もあるのです。(…)

(…)』

(…)

内藤朝雄 『 (…)

 まさか、「税金が10パーセントの1億人規模の社会で生活している一人の人が税金を40パーセントにすべきだという政策を主張するためには、まずその人の30パーセントの収入を寄付すべきだ。それをしないならば、税金を40パーセントにすべきという主張をすることはできない」といった主張をマジでする人が、本を書いて原稿料をもらったりするはずはないですよね。

 一億人規模の社会は内的な存在などではなく、外在的で拘束的なメカニズムなのだから、ぼくとあなたの二人が変わったぐらいで、変わるわけない。むしろ個人にはモノとして硬質にぶちあたるものです。

 だから、せめて活字で一粒の種をばらまいてそれを千倍万倍にして働きかけをしようと努力しているわけです。場合によっては一億人規模の社会に影響させるかもしれないという希望にしがみついて。

 自分の収入の40パーセントを寄付することなどは、まったく無に等しい影響力しか及ぼしません。ただの自己満足ですそんな基本的なことをいわなければならないのか、それとも遊ばれているのか、いまだによくわかりません。税金40パーセントは、特定の個人がやったりやらなかったりするものではなくて、社会全体で行われて福祉に環流して、はじめて一人一人にとって意味を持つ政策です。小学生でもわかる論理です。

(…)』

アジア女性基金に反対した(積極的に反対しないまでも支持しなかったものを含む)左派すべての内心を勝手に忖度するわけにはいかないけれども、「お金が被害者に届くかどうかだけではなく、どのようなルートで届くかが重要」という認識は広く分け持たれていたと考えてよいのではないだろうか。公的支出による(を含む)「償い金」であれば、擬製的にではあれ「日本国民全体がかかわる仕組み」が成立したことになるからだ。大沼氏自身もその点をよく承知していたからこそ、「償い金」の基金にも政府の拠出を求める構想を立てたのではないのだろうか。


裁判闘争にこだわる左派への大沼氏の批判が見落としている(あるいは軽視している)と思われるのは、このような「金」の正統性に対する左派の意識であると思われる。大沼氏は元慰安婦がみな高齢であり、病気や生活苦に悩む人々も少なくないことを挙げ(88、153ページなど)、時間がかかり勝つ見込みもほとんどない裁判への固執を非難している。しかしそれならば、補償(裁判闘争)と生活・医療支援とを切り離して後者のみを純民間ベースで行なう*2ことを広く呼びかけるという選択肢もあったはずだ。それならば「お金を受け取れば補償請求闘争に悪影響がでる」という誤解*3(49ページ)などはじめから生じなかったはずである。

大沼氏は裁判路線への執着の理由を次のように分析している。

(…)「日本政府が道義的に責任を認めるだけでは十分でない、法的責任を認めることが国家として責任を認めることになる」という主張は、暗黙のうちに「国家の責任のあり方として、法的責任の方が道義的責任より価値がある」という価値序列を想定している。だが、法的責任とはそんなに価値あるものなのだろうか。いったい誰がそういう序列を決めたのだろうか。

(157-158ページ、ボールド体は原文では傍点、以下同じ。)

確かに一般論としては「法はどんな人にも適用できる最低限の社会規範でなければならない」(158ページ)のであって、“法的責任はないにもかかわらずあえて道義的責任を引き受ける”行為には高い倫理的価値を付与することができるだろう。しかし自民党(のすべて、とは言わないがそのうちの無視できない勢力)には積極的に道義的責任を引き受けようとする意思などさらさらないことは、日本の対アジア戦争責任が改めて問題にされるようになった80年代以降の経緯を知る者にとって自明である。このような自民党への強い不信感*4を抜きにして、裁判闘争に対する左派のこだわりは理解できまい。あえて妥協した理由として大沼氏は、村山内閣の下で基金をかたちにしなければ結局なにもできなくなってしまうのではないかという危惧を挙げているが、左派の側には“自民党内閣になれば、法的拘束力のない措置など簡単に反古にされかねない”という危惧があったわけで、この危惧が杞憂でなかったことはこの数ヶ月の出来事に照らせば明らかである。アジア女性基金の活動には極めて冷淡でありながら使えるときには「実績」としてアピールし、その一方で「河野談話見直し」を狙っているのが自民党(のすべて、とは言わないがそのうちの無視できない勢力)なのであるから。大沼氏は「本書で「慰安婦=公娼」論への言及と反論がすくないのは、それをよしとしているからではなく、およそ学問的議論の対象にならないと考えているため」だとしている(ixページ)。これはこれで一つの見識だろうが、「慰安婦=公娼」論を声高に唱えないまでもそれらを許容し、あるいは放置しているこの社会の多数派の問題性は、また別の問題として考えられるべきではないだろうか*5

[]「偵察写真が語る第二次世界大戦 ペリリュー」

CATVの「ヒストリーチャンネル・ジャパン」で放送中のシリーズ「偵察写真が語る第二次世界大戦」のうちの一話、「ペリリュー」を見る(他のエピソードも主だったものは録画しているが)。先日言及した吉川弘文館の「戦争の日本史」シリーズ第23巻、『アジア・太平洋戦争』には次のような一節がある。

現在、硫黄島の戦闘はあたかも日本軍のテルモピュライの如くに伝説化され、栗林は英雄視されることが多い。確かにその戦い振りは水際立ったものだが、「硫黄島」を過大に評価すれば戦史の理解を誤ることになろう。彼の採用した持久作戦は決して彼一人の独創になるものではなく、硫黄島が唯一の例というわけでもない。先にも述べたように、制空権・制海権を失い、きわめて劣勢な兵力しかない情況で、日本近海の島々の防衛戦にやむなく採用された時間稼ぎのための戦法である。そして、同様の戦術が悲惨な結果を招いたのが沖縄の戦闘であった。

(269ページ)

「水際」決戦を否定して長期抗戦を実現した栗林の指揮を「水際立った」と表現するのはちと妙な気がするがそれは余談として、ここで言われている先例にあたるのがパラオ諸島のひとつペリリューをめぐる攻防戦。

この戦術〔水際で総攻撃するのではなくゲリラ戦で抵抗する戦術〕は九月からのペリリュー島での戦闘で採用され、洞窟にこもって戦った日本軍は米軍にかなりの損害を与えた。

(同書、268ページ)

日本側の主力は第14師団の歩兵第2連隊、アメリカ側の主力は第1海兵師団。番組によれば日本軍は「水際」でもかなりの攻撃をしかけているようだが、安易なバンザイ・アタックを避けたのは硫黄島と共通している(そのため、最後の兵士が投降したのは47年になってからのことだった)。「米軍にかなりの損害を与えた」とされているが、戦死者に限れば日本側は約1万人で総兵力の大半が死亡しているのに対し、アメリカ側は戦死者1,684人で総兵力の5%にも満たない(太平洋戦争研究会編、『太平洋戦争主要戦闘事典』、PHP文庫、による)。「戦死傷者」で比べればほぼ同数なのだが、日本側の場合戦傷を負って生き延びた(捕虜になった)ケースがほとんどないのである。普通に戦争をしていれば米軍のように戦死者の数倍の戦傷者がいるのがあたりまえだから、日本軍の戦い方の異様さがよく分かる。

*1:それゆえ本文中では言及しないけれども、この問題についての左派系団体の活動が運動体の論理などによって歪められてしまったケースもあったということについては、具体的に内情を知らないので断言こそしないけれど、まあそうだろうなと思う。

*2:ちゃんと調べていないので断言はできないが、そうした活動をしているNGOもあったんじゃないだろうか。

*3:「誤解」ととりあえず書いたが、日本政府内には償い金の受け取りが国家補償請求訴訟の妨げにならないことを保証することに対して抵抗があったともされている(49ページ)。つまり、あわよくば国家補償を拒否するためにアジア女性基金を利用する腹積もりがあった可能性は否定できない、ということだ。

*4:じゃあ裁判所は信頼しているのか? と大沼氏は皮肉っていて(161ページ)、それはそれでもっともではある。ただ、なるほど法解釈の面では非常に保守的な裁判所も、被害事実の認定に関しては原告側の主張を認めるケースが多く、少なくともこの点ではマシと考える人間は多いのではないか。

*5:自民党(支持者)のマジョリティがもうちょっと歴史修正主義に対して厳しい態度をとっていれば、左派にとっても妥協はより容易なものとなるはずである。