Hatena::ブログ(Diary)

Archerの春秋 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2019-01-09 移行しています このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 https://archer0921.hatenablog.com/

 思うところがあり、過去記事はバッサリ削除しました。

2018-11-27

荊州学と服虔

 尹默字思潛,梓潼涪人也。益部多貴今文而不崇章句,默知其不博,乃遠游荊州,從司馬操、宋仲子等受古學。皆通諸經史,又專精於左氏春秋,自劉歆條例,鄭衆、賈逵父子、陳元方、服虔注說,咸略誦述,不復桉本。(『三國志』尹默傳)


 後漢末、戦乱を避けた知識人たちが集っていた荊州では、司馬徽・宋忠らが古文学を教授していた。いわゆる「荊州学」と呼ばれる学派であるが、特に『春秋左氏伝』(以下、『左伝』)については劉歆の条例をはじめ、鄭衆・賈逵(とその父である賈徽)・陳元方・服虔の注説が扱われていたらしい。いずれも後漢において『左伝』の称揚に功績があった面々である。

 さて、荊州学を代表する学者として潁容がいる。初平年間にその門徒千余人と荊州流入した左氏学者で、『左伝』の義例集『春秋釈例』を著した。同書は散佚して完全には伝わっていないのであるが、幸運にも『太平御覧』にその序文の一部が引用されている。

 潁容《春秋例》曰:漢興,博物洽聞著述之士,前有司馬遷、揚雄、劉歆;,後有鄭衆、賈逵、班固,近即馬融、鄭玄。其所著作違義正者,遷尤多闕略。舉一兩事以言之;《史記》不識畢公文王之子,而言「與周同姓」;揚雄著《法言》不識六十四卦,云「所從來尚矣」。(『太平御覧』學部十二、正謬誤)


 それによれば、「博物洽聞」として、前漢から司馬遷、揚雄、劉歆、後漢からは鄭衆・賈逵・班固・馬融・鄭玄が挙げられている。うち劉歆・鄭衆・賈逵は荊州において教授されていた面々と重なるが、服虔の名が無い。潁容は荊州にあっても服虔をそれほど評価していなかったようだ。

2017-12-14

白題

 是時西北徼外有白題及滑國,遣使由岷山道入貢。此二國歷代弗賓,莫知所出。子野曰:「漢潁陰侯斬胡白題將一人。服虔注云:『白題,胡名也。』又漢定遠侯擊虜,八滑從之,此其後乎。」時人服其博識。(『梁書』卷三十 裴子野傳)


 南北朝期、南朝の梁に白題と滑国が遣使してきたときのこと。この二国はこれまで使者を送ってきたことがなかったので、その来歴がわからなかった。

 そこで裴子野が「漢の潁陰侯(灌嬰)が白題の将一人を斬った故事があります。服虔の注(『漢書音訓』)には「白題は胡の名である」とあり、その後裔です」と発言すると、人々はその博識に感服したという。

 裴子野は河東聞喜の裴氏。曾祖父裴松之は『三国志』注釈で、祖父の裴駰は『史記』の注釈である『史記集解』(以下、『集解』と称す)でそれぞれ著名であり、学問の家柄であった。

 ところで、『史記』灌嬰伝の当該箇所を瞥見すると興味深いことに気づく。

 復從擊韓信胡騎晉陽下,所將卒斬胡白題將一人。(『史記』巻九十五 樊酈滕灌列傳)
 【集解】服虔曰:「胡名也」


 『集解』は裴子野が根拠にした服虔の『漢書』注を引いているのだ。裴子野は祖父の注釈を読んでいたと思われ、裴氏の家学が発揮された一幕と言えるだろう。

2017-12-10

管仲悪人説

 是時,周室大壞,諸侯恣行,設兩觀,乘大路。陪臣管仲、季氏之屬,三歸雍徹,八佾舞廷。(『漢書』禮樂志)


 『漢書』礼楽志は、斉・魯の陪臣である管仲と季氏(季孫氏)が三帰の台*1を建て、天子にしか許されないはずの雍を歌い、八佾を舞わせたとその専権ぶりを伝える。

 周知のとおり管仲は斉の桓公覇者に押し上げた名臣であり、魯の国政を壟断したとされる季孫氏と並置されているのはおかしな話であるが、このような管仲像は早い時期に形成されていたらしい。

 子曰,管仲之器小哉。或曰,管仲儉乎。曰,管氏有三歸,官事不攝,焉得儉。然則管仲知禮乎。曰,邦君樹塞門,管氏亦樹塞門。邦君為兩君之好,有反坫。管氏亦有反坫。管氏而知禮,孰不知禮。(『論語』八佾)


 『論語』において孔子管仲を小人である、と評価する。ある人が「管仲倹約家であったか?」と聞いたところ、「管仲は三帰の台を建て、家臣を大量に雇って仕事を兼任させない。このような人物倹約家と言えるだろうか?」と返した。それでは礼を知る人物か、と問われると、「諸侯のように目隠しの塀がある門を設け、また諸侯用の盃を置く台を設けている。こんな人物が礼を知るというのであれば、礼を知らない人物などいないだろう」と答えた。

 ここでも管仲は三帰が問題とされ、諸侯のような振る舞いをする人物として描写されている。孔子の口から語れる管仲は主君に取って代わったかのごとき奸臣である。

 上述したように、管仲が政治・外交に活躍した春秋時代を代表する賢臣であることは言を俟たない。一方でその姿は桓公の寵愛を一手に集めて比類なき権柄を振るう権臣と捉えることもでき、魯国で権勢を誇った季桓氏と同列に語られるような評価も出たのであろう。

*1:他にも三姓の婦人など諸説ある。

2017-08-27

ワークライフバランス

 前安帝時,越騎校尉劉千秋校書東觀,好事者樊長孫與書曰:「漢家禮儀,叔孫通等所草創,皆隨律令在理官,藏于几閣,無紀錄者,久令二代之業,闇而不彰。誠宜撰次,依擬周禮,定位分職,各有條序,令人無愚智,入朝不惑。君以公族元老,正丁其任,焉可以已!」劉君甚然其言,與邑子通人張平子參議未定,而劉君遷為宗正、衛尉,平子為尚書郎、太史令,各務其職,未暇恤也。至順帝時,平子為侍中典校書,方作周官解說,乃欲以漸次述漢事,會復遷河料,遂莫能立也。(『續漢書』百官志劉昭注引胡広『漢官解詁』自注)

 至六十,為武都守。郡小少事,乃述平生之志,著《易》、《尚書》、《詩》、《禮》傳,皆訖。(『周禮注疏』引『序周禮廢興』)


 後漢の安帝の時代、劉千秋と張衡(平子は字)と協議して漢朝の儀節を選定し、『周礼』に擬えて著わそうとした。しかしその後、劉千秋が宗正・衛尉、張衡は尚書郎・太史令となって多忙を極めたため、この企画は流れてしまった。張衡は順帝の時代にも「周官解説」を作りさらに漢事についても著そうとしたが、河間相に転任したため再び完成させることができなかったという。

 一方、後漢の大儒として著名な馬融は六十歳のとき武都の太守となったが、仕事にゆとりがあったため『易』や『尚書』などの注釈を著すための時間を確保して完成させることができた、と述懐している。

 いずれも後漢の例であるが、言うまでもなく当時の学者は朝廷に職を有しており、その職務をこなさねばならなかった。著述の時間が取れるような職もあればそうでない職もあったようである。劉千秋の場合、張衡と著作のすり合わせが難航したようでもあるし、二人とも激職に就いたことから共著の難しさも伺えよう。

 それにしても著作計画が二度も流れてしまった張衡の運の無さには同情する。彼のように記録に残ったのはまだ良い方で、著作を志半ばで断念せざるを得なかった例は数多あったのではないか、と愚考する次第。