NHKの問題にふれて

NHKの番組改編問題の推移をみていてかんじるのは、次のようなことだ。

寛容さと苛立ち

NHKが政府の意向に沿うような報道しかしない放送局*1だということは、とりわけイラクでの戦争がはじまって以後は、誰でも知っていたはずだ。ぼくが子どもの頃(6、70年代)には、「NHKの報道は公平中立」だという神話を、まだみんな結構信じていたものだが、いまでは「公平中立」という概念自体を信じにくくなってしまったこともあり、NHKにそれを期待している人は少ないだろう。
だから、今回の問題が明るみになっても、それに驚いたり「裏切られた気持ち」になる人はすくないとおもう。むしろ、「そんな当たり前のことに目くじらを立てなくてもいいではないか」という人が多いのではないか。これは、問題の発端となった「法廷」を開いた市民団体や、朝日新聞や、またそれを支持する人たちへの苛立ちとなり、「うっとうしさ」の表明となる。
だが、国家というのはすごく力の強いものだ。どれほど強いかというと、最終的には、自分の思考や感覚が国家の思い通りの枠にはまってしまっていることが、自覚できなくなるほど強い。国家による公共放送(民放を含む。「日本放送協会」固有の公共性など、誰も信じていないのだから。)への介入が「当たり前」のことだという意見は、そう考える本人には、自分の個人的な感覚(趣味)や自立的な思考の結果だとしかおもえないかもしれない。
だが、この人たちの「当たり前だ」という寛容さが決まって国や大きな権力にだけ向けられ、「うるさく目くじらを立てるな」という苛立ちや反感が「進歩派」や「左翼的」とみなされる組織・個人にのみ向けられるという事実は、何を意味しているか?
かんがえてほしいことは、この苛立ちや反感の底にある閉塞感や現状への不満が、ほんとうはどこに向けられるべきものか、ということなのだ。それを限定された対象にしか向かわせないようにする回路が作り上げられていて、というのもそれが本来向かうべきところを見出してしまうと大きな不安が自分のなかにあることを認めざるをえなくなるからだが、この回路にだけ感情を流し込み続けることで美的な領域(感覚)や論理的な領域(思考)の安定性が確保され、人はそのなかで安心をえる。では、この回路を作り上げたのは誰か、ということだ。
ぼくたちが心がけるべきことは、自分の「個人的な感覚」や「自立的な思考」に、大きな権力に都合のいいように作り上げられた側面がないかと、つねに疑うことだ。本当に「自立的な思考」の可能性というものは、そこにしかない*2

報道機関であることを放棄したNHK

だが今回もっとも異様だったのは、NHKがニュース放送のなかで自分の組織の弁明だけを一方的に延々と流したことである。対立している相手側の反論を客観的に報道するという姿勢は、まるで見られなかった。これは、たんなる「偏向」ということとは違う。NHKが国家の側に偏向しているのは昔からで、多くの人はそれを知った上で番組を見てきたとおもうのだが、「偏向した報道をする」ということと、「自分の弁明だけを放送する」ということは、まったく別のことだ。NHKの経営陣や番組製作者が、「朝日は間違ったことを言っている」とおもうのなら、どんな間違ったことを言っているのかを視聴者に伝える義務が報道機関にはあるだろう。NHKは、その報道の義務を放棄して、企業体自身の弁明だけを公共放送の時間を占拠して流したのである。
これは、NHKが「報道機関」であることを辞めたということだ。じつはかなり以前からそうなっていたのだが、今回はそれを公認したのである。
いや、これは報道の放棄どころか、「言論の放棄」というべきだろう。あれは、報道機関としての「ある立場」の主張ではなく、ふつうなら株主総会ででも行なわれるような組織の自己弁護を、公共の言論空間である放送の場で展開したものだからだ。
ぼくには、そのことが衝撃的だった。公共の放送局が「報道」という公共の役割を放棄し、また言論の表明という役割まで忘れ去って、自己(組織)の弁明だけを放送し続ける無残な映像は、自己の利益と安全の確保しかかんがえられなくなってしまった、現在の日本の人々の心の姿を投影したもののようにおもえたからだ。


ほんとうは、もっといろいろなことを書きたかったのですが、どうも考えがまとまらないので、またあらためて書きます。

*1:数は少ないが、個別にはスタッフの気概をかんじさせる優れた報道番組もある。ぼくがすきなのは、日曜の夕方にやっている「海外ネットワーク」という番組で、特にイラク・アフガンの情勢に関する報道の姿勢は特筆できる。

*2:ぼくは、戦後の日本の知識人や学者の「個人主義」や「自立的な思想」を信じない。それは、ほとんどの場合、どんな客観的な条件(政治的・経済的)が、その「独立」を保障しまた規定しているのかということに対する自問が不足しているとおもうからだ。だが結局のところ、それは彼(彼女)ら自身の問題だろう。