『メゾン・ド・ヒミコ』再論・曖昧さと「壁」

こないだ若い在日の友達のブログをのぞいてたら、大阪府の議員で自分がレズビアンだということをカミングアウトした尾辻さんという人の近況(ずいぶんひどいことを言われたりしてるらしい)が書いてあったのだが、そのなかに以前紹介した映画『メゾン・ド・ヒミコ』を見たという話が出てきてた。
以前のぼくのエントリーでは、あの映画のなかに決定的に好きなシーンがあったと思わせぶりに言っておきながら、ネタバレをおそれてそれについては書かずじまいだった。そろそろこの映画も公開が終わると思うので、ネタをバラシテしまってもいい頃だろう。
それを書いてみることにする。



柴咲コウが演じる主人公沙織は、年老いたゲイの男性たちが集まって暮らす洋館「メゾン・ド・ヒミコ」で日々を送るうち、父の恋人でもあるゲイの若者、春彦(オダギリジョー)と恋に落ちることになる。
ぼくが言っていたシーンは、映画の後半に出てくるこの二人のラブシーンで、それ自体非常にエロティックな素晴らしいシーンなのだが(もちろん、映画だからそのことが基本なんだけど)、ずーっとすすんでいって春彦が沙織の胸元に手を差し入れたところでその手のアップになり、手がまったく動かなくなるところが映しだされる。そこで沙織が春彦を見つめて何というかというと、「触りたいとこ、ないんでしょう」と言うのだ。そこで情事が終わってしまう。
つまり、この二人の恋愛は結局成就しないのだ。
どうしてこのシーンに感心したのかというと、これはまあ異性愛の女性である沙織と、同性愛の男性である春彦とが互いの間にある「壁」を乗り越えようとする設定だ。もちろん、それは乗り越えられることがあってもいいんだけど、たいていの場合映画(特に日本映画)などでは、少数者の側が多数者の物語に帰順することによって「壁」が乗り越えられた、ということになるのが実情だ。「ハッピーエンド」と呼ばれるのは、たいていそれだろう。
この映画の場合だと、沙織がレズビアンである自分を自覚することで物語が終わる、という設定にはなかなかなりにくい。春彦が、「異性愛も可能な自分に目覚める」のなら別にいいが、実際は「異性愛の素晴らしさに目覚め、回帰する(観客にとって受け入れやすい場所に)」という結末に至るというのがほとんど、というかありがちな設定というものだろう。
沙織と春彦には気の毒だが、この映画のストーリーに限って言えば、あの情事があそこで成立してしまったら、そうした観客が安心する物語に落ち着くことによって、この映画が成立することになったと思う。
だがそうはならず、マジョリティーである観客のための「物語」に回収されない現実のセクシュアリティーの「壁」の存在をしっかりと描き出すことに、あの映画は成功していた。ぼくは、そこに感心したのだ。
念のためにもう一度いうと、ストーリーにおいて二人の情事や恋愛が成就したか否かが問題ではなく、映画として一般的な「物語」の維持・強化に加担しないような強靭さと繊細さを、この作品が持ちえたという点が大事なのだ。


実はもうひとつ、気に入っているシーンがあるのだが、長くなったので詳しくは書かないで置く。ただ、やはり観客を安心させないある種の「曖昧さ」をこの映画は保持しているところがあり、そこがなかなかいいと思った。
それは、春彦が沙織をバス停に送っていった後の、春彦の意味ありげな微笑(これは、沙織からは見えない)のことだ。映画は、結局その意味を明示せず、さらに言うと、その意味に沙織が気づいていたかどうかということも、やはり曖昧なままなのである。


ところで、最初に書いた友だちのブログによると、オダギリジョーはあの映画の後、自分はゲイではないということを必ず前置きして喋るようになったそうだ。
本人が実際にゲイであろうとなかろうと、聞かれてもいないのに、自分がゲイではないとはじめに言明してから喋りだすという行為は、「ゲイであること」がネガティブな事柄であるという社会通念を強化する役割を果たすことになる。
これはもちろん、事務所の意向というのがあるんだと思うけど、そういうふうにしてたら同性愛の人が差別されている現状が変わらないということ以前に、その言葉を聞いた同性愛者の人たちはきっと傷つくだろうなあ、とよく考えてみて思った。


公的な場でそういう話をするときには、オダギリジョーには、あの映画のなかでのように曖昧な微笑を浮かべてほしい。
「あえて曖昧なままにする」ことが、何よりも強い抵抗でありうる場合がこの世にはあると、ぼくは思う。