再び滋賀の事件をめぐって・個別と構造

おととい書いた滋賀での園児殺害事件の報道に関することですが、竹山徹朗さんが、引き続きこの問題をフォローしておられます


コメント欄を見ると、ひどいコメントがだいぶ入っているようですが、それだけ影響力があると認められているということで、うらやましい気もします(ぼくのブログも、そういう社会的に「有意」と見なされた時期が少しはあったんだけど)。
竹山さんという人は、人の心を動かす文章を書く特別な力がある人だと、以前から思っています。これは、生き方と、物を書いて人に伝えていくということとが、しっかりと重なっているためでしょうね。


ところで、今回のような事件に関して論じようとするときに陥るひとつのジレンマは、犯罪という出来事を「社会の病理」という側面に重心をおいてとらえてしまうと、社会のなかで同じような境遇にある人たちを「犯罪者予備軍」あつかいする世間の風潮を助長しかねないのでは、という危惧です。
社会のなかで孤立している人、抑圧を受けている人の苦悩に光をあてるのは当然のことでしょうが、それを現に起こった犯罪という出来事との関連のなかで論じてしまうと、まるでそうした境遇にある人たちは犯罪をおかす危険性が高いかのような印象を与えかねない。
少しかんがえれば、そういう結論にはならないはずなんだけど、世の中の趨勢は、自分の内面を覗かねばならなくなるようなタイプの事象については「少しかんがえることもしたくない」という、「思考拒否」にあるようなので、こうした「リベラル的」な危惧はぬぐえないわけです。


このジレンマを突いて、といいますか、「こうした事件は、社会の病理などという絵空事にはなんの関係もなく、たんに不埒で異常な一個人の犯した凶行であるというにすぎない」といった、タイプの物言いがまかり通る状態になりやすいのです。
そうしたうえで、こうした犯罪を犯すような人間がいるかもしれない得体の知れない連中を、社会から追い出せ、ということになるわけですね。
その意図するところは、「現状の社会に疑問を持つな」というメッセージでしょう。


いったい、社会全体の問題から切り離して、個々の犯罪の個別性だけを論じていればいいのか。
これについて、上記の記事のなかで竹山さんはこう書いています。

ぼくは、そうは思わない。そういう問題の個別化による現状肯定こそ、さらなる悲劇を生むと考えるからだ。


これは、個別の事件から社会の構造を切り離して考えるようにする(「例外化」する)ことで、(その事件の報道が大々的になされるという現実のなかでは)結果的に「現状肯定」をもたらしてしまうことになる、という見解であろうと思います。


難しい問題ですが、ぼくは、こうかんがえます。
たしかに、今回の事件の容疑者と同じ境遇にある人が、すべてこうした犯罪を犯すわけではない。こうした犯罪を犯す可能性は、少なくとも現代の社会に生きる人間であれば、誰にでも同じ程度にあるというべきでしょう。つまり、「危険でない人間」「異質でない人間」など、本当はどこにもいない。
しかし、「特定の状況を生きている人たちが特に危険だというわけではない」というリベラルな主張の正しさが、個々の人間(自分自身を含めて)に現実の社会がもたらしているひずみの大きさ、苦悩の大きさから、人々が目をそむけてすますための口実にされてはならない。
犯罪が行われようと行われまいと、この苦悩は、「ある」。それは、この事件の容疑者を含めて、現代のこの世界に住む私たち全員の内部に共有されているはずです。
その苦悩と、それをもたらす社会構造の問題性(ひずみ)に気づく機会を、こうした事件の報道は、本来人々にもたらすものであるべきなのです。
竹山さんが批判しておられるのは、実際の報道が、そのような役割を果たしていない、ということでしょう。


個々の出来事を、その出来事(事件)に関わるすべての人たちの苦悩をふくめて、その個別性を重視してとらえるということと、それをもたらした社会構造の問題性を自問するということとは、相補的であるはずだし、そうであるべきだと思います。
こうした犯罪を「一個人に関わる事柄」としてとらえようとする繊細さと倫理性は、その個人と、同じ社会に生きている自分自身とを同時にとらえている現実の構造の歪みに対する、繊細さと倫理性につながるべきものでしょう。
こうした出来事にはらまれている苦悩が、自分自身のものでもあることを認める、自己への誠実さが、現実を曇りなく見出してそれを変えていくことの、出発点になるんだろうと思います。


というわけで、竹山さん、TBを送っておきます。