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「ファシズムとは、現実のユートピア化である」(久野収)

2006-05-29

[]『ナイロビの蜂

大きな映画館には滅多に行かないので、指定席制というのに馴染みがない。自分のチケットを見たら「R-15」と書いてあったので、「15歳以下は見ちゃいけません」という意味かと思ったら、自分の座席の番号だった。


そんな大きな劇場で、しかも平日の昼間に行ったのだが、満席に近い盛況だった。

もうこのことだけで、困難に直面しながらこの映画を作り上げた人たちの仕事は、高く評価されるべきだろう。

そういう性質のテーマを扱っている。大資本である映画産業のなかで、大資本の悪を告発し、多くの人たちに関心を持ってもらうということの難しさと意義。


この映画の監督、フェルナンド・メイレレスという人は、ぼくは前作を見ていないのだが、ブラジルの人だそうである。その人が、アフリカに乗り込み、現地の人たちに大勢出演してもらってこの作品を撮った。

この監督は、非常に変わった映像の作り方をする人だが、筋や内容ではなく、むしろその表現自体に、特別な政治的な意志がこめられているのを感じる。つまり、映像そのもののなかに、この作品の「外部」(世界)が存在している。



映画は、深い眠りから目覚める瞬間のような、それが現実なのか夢のなかであるのかがはっきりしない、シルエットによって始まる。短いはずの別れの挨拶のキスを交わす、主人公とその妻の姿。このあやふやな微妙なショットの印象に、この映画と、監督の戦略のすべてがこめられていると思う。

この場面をこういう仕方で回想する主人公は、そこから起こった出来事、つまり妻の無残な死とその真相、そして明らかになり始めた「この世界」の姿が、「現実」であることを否認したいのだ。スクリーンを見つめるぼくたちと共に。

そこから始まる物語の全体が、常に不確かな感じを与えるショットの連続、まるで夢を見ている意識のような交錯したイメージの断片によって満たされるのは、そのためだろう。その夢のただなかに、忽然とアフリカの赤茶けた大地とレール、そして大地と同じ色の想像を絶するようなトタン屋根の集落の映像が出現する。もしその光景が「現実」であることを否認しないのなら、主人公が生きるイギリスの現実は、反対にもはや夢でしかありえなくなる。つまり、彼は「夢」からほんとうに醒めざるをえなくなる。

そういうことだ。


イギリス外務省の官僚である主人公の男性は、アフリカの人たちを救うための社会運動に深く関わっている女性と知り合い、結婚する。

この女性の性質は、ひとくちに言うと、「攻撃的」ということだが、ぼくにはその理由をはっきり言えないが、この攻撃性が彼女とアフリカの人たちの生命とをむすびつけているのである。つまりたぶん、彼女の存在とアフリカの人たちの現実というものが、その危機の感覚において、「イメージ」によってに過ぎないにもせよ、重なっていると感じられている。言い換えると、「感じられている」という仕方で、それは現実的につながり重なっているのだと思う。

男性であり、エリート官僚である夫には、その「想像的なもの」の現実的な力が、理解できないのだ。自分の価値観と「理性的」な思考の枠のなかでしか妻を愛することができず、その枠のなかに押し込めつづけようとする男。

たぶんここに、この世界の中心を走っている断絶がある。


危機に瀕している者の見ることができる世界は、切迫しているとはいえ、いつも広大だ。それは、その人が世界の「辺境」に立っているからである。中心部に生きている者の視野は、霧のなかにいるように狭い。両者の間に、愛は、相互理解は可能だろうか?

この映画が突きつけてくる重大な問いはそれだ。

つまり、主人公の妻に対する愛と、妻の主人公に対する愛とは、非対称なものだった。

中心にいるものの愛と、辺境に生きるものの愛との、絶望的な非対称性。

妻の死をとおして、主人公はそれを思い知るのである。

彼の妻に対する愛情よりも、はるかに深い感情において、彼女は、危機に瀕している者は、彼を見つめ、包んでいた。

そのことに気づいた彼は、次第に妻が居たのと同じ不安に充ちたこの世界の「辺境」へ、赤茶けた広大な大地に自分の身体を移動させていく。予告もなく訪れる妻の映像(魂)を携えて。


妻の死の後に、主人公の意識のなかにたびたび登場するようになる、亡き妻の姿。

その断片的なイメージは、映像であり、幻想なのだが、主人公のように「夢」から醒めこの過酷な「現実」を見すえて生きようとする魂にとって、それはむしろ生き延び、戦いぬくための、現実的な意味をもつ存在なのではないだろうか。

ぼくが、この映画の作り手の「政治的な意志」を感じるのは、この部分なのだ。

過酷で不安に満ちた、また狂暴であり絶望的でもある現実を、勇気をもって生き延びようとするものが、必要とするのはなにか?それは、映像(イメージ)にすぎないもの、実在を証明できず、しかも一般化されることもなく個人の意識のなかに一瞬だけ予告もなく現われ、すぐさま消え去ってしまう者の姿がもつ、特殊なリアリティーではないだろうか。

この映画の作り手たちが見るものに差し出そうとしているのは、人が生き延びるために必要な、このリアリティーの「転倒」の戦略ではないか、という気がする。


主人公が妻とともにアフリカを始めて訪れる場面の直前、妻がこうささやく場面がある。

「わたしを探求して」

この言葉には、いろんな含意があるだろう。

だがそれは、中心に生きるものを誘惑し、その魂を夢から目覚めさせて救うために呼び寄せようとする、赤茶けた大地の声だったのではないだろうか。

われわれが虐げられた者に向ける気持ちの、数百倍、数千倍の気持ちで、虐げられ者たちはぼくたちの魂に呼びかけている。

ほんとうに人を愛し、救おうとするのは、いつも収奪された者の方なのだ。



町山智浩による、見事な紹介文。これを読んで、「これは見ざるをえない」と思った。

http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060504

『p-navi info』のビーさんによる、やはり素晴らしい映画評。

http://0000000000.net/p-navi/info/column/200605252144.htm

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