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「ファシズムとは、現実のユートピア化である」(久野収)

2007-11-15

[]『優生学と人間社会』を読んで

優生学と人間社会 (講談社現代新書)

優生学と人間社会 (講談社現代新書)


優生学という言葉をはじめて意識して聞いたのは、数年前のことだと思う。

もちろんこの語自体はもとから知ってはいたが、「戦前のこと」であり、おぞましいことだが過去の話であると思っていて、それが現代に復活しつつあると聞いて(実情は、それどころではないわけだが)、奇異の感を抱いたことを覚えている。

この本を読むと、「優生学」の過去と現在についてのそうした思い込みは、まったく誤っていたことが分かる。戦後の日本社会においても、ずっと「優生保護法」という名の法律が存在してきただけでなく、優生思想は、根本的に否定されることのない考えであり続けてきた。

だが、そればかりではない。


この本を読んで考えざるをえなくなるのは、優生学とはなんなのかということ、またそのどこがわれわれが否定する(乗り越える)べきことの核心なのか、という問いである。

本書では、英米、ドイツ、北欧、フランス、日本といった国々における優生学、政策の歴史が概括される。

そこから見えてくる重要なことは、次のような点である。


A. まず、優生学はふつう、人種主義やナチスドイツの存在と重ねて考えられ批判されてきた。だが、それらは基本的に別のものである。

優生学者のなかには、「混血」を奨励した人もいた。また、ナチスの反ユダヤ主義に嫌悪感をもった優生学者はドイツにも数多く居たし、さらにはユダヤ人の優生学者も数多く居た。

要するに、優生学は、ナチスの反ユダヤ主義などの人種主義とは別物であった。


一方で、ナチスが行った障害者や病人に対する「安楽死計画」は、多くの優生学者によって、(すでに)生きている者の「殺害」に他ならないとして非難された。優生学は、(当時は中絶という手段によって)「低価値者」が「生れないように」することによって人口の質を向上させることを、その目的としていたからである。

付言すると、ドイツに限らず、戦争に反対する優生学者は多かった。戦争は、徴兵検査に合格するような「優秀な」人材を死なせてしまい、優秀でない人たちが多く生き残るような「逆淘汰」(淘汰が阻害されることによる人口の質の劣化)の現象を社会にもたらす一因と考えられたからである*1

つまり、優生学の悪を、単純に「不適格者の抹殺(殺害)」といった発想、あるいは目に見える「絶滅政策」のようなものに還元してしまうことは、全容を掴み損ねることになる*2


B. 次に、優生政策は、北欧諸国やワイマール期のドイツ、そして戦後の日本など、福祉国家とか、社会民主主義の国家において、むしろ実行されてきたという事実が分かる。

特にデンマークやスウェーデンでは、知的障害者に対する強制的な「断種法」など、強権的な優生政策が、戦前戦後を通じて行われてきた。

福祉国家や福祉制度と、優生的な政策とは、むしろ親和性が高いと考えられる。

優生学は、ナチスや人種主義と結びつけて考えるわけにもいかないし、また「福祉の否定」というイメージでとらえることも出来ないのである。


C. 以上から考えられる一つのことは、優生学の大きな特徴は、全体の利益とか、集団全体の質の向上のために、個人の生存、生命の価値を否定し、制御しようとしていく点にその悪しき特質があるのではないか、ということである。

たしかに、優生学は社会の「逆淘汰」や「自民族の退化」ということをさかんに言い立ててきた。現代でも、「若者の退化」を喧伝するベストセラー本は量産され続けている。

ここで集団というのを、「民族(国民)」とするか、「人類全体」とするかという違いはあっても、集団全体の利益や幸福ということを目的(口実、人質)に立てて、そのために人口の「質」(とくに生産性という観点から見られた)を制御していこうとする発想を、「優生学的」と名づけてもいいように思われてくる。


D. だが、そのこともちょっと難しい。

優生学が「全体のために」を理由として個々の生存の価値を否定する(肯定しない)ものである、ということは当たっているように思うが、それを「全体」(強制)対「個人」(自由)という価値観の対立としてとらえることも出来ないのだ。

科学技術の発達により、現代では出生前診断による選択的中絶ということが可能になった。これは、強制ではなく、個人の自由意思にもとづく「選択」としてなされるはずのものだからである。

もちろん現在の社会において、社会全体の利益のために個々の生存やその価値が否定されるという危険が減じているとはいえない。むしろ、最近の実情は、それと逆の趨勢を示しているといえるだろう。

だが、現代の社会においては、個人の自由な選択ということと、社会全体にとっての効率的な人口の(とくに質の)管理ということとが、分かちがたく溶け合い、結果的に双方が一致するということも生じる。それは、「強制によるもの」とは言い切れないと同時に、「自由な選択」であるとも言い切れないような行為である。

つまり、各人は、それぞれの「自由」において、いまだ生れていない他者の生の質についての判断を行って遂行し、人口の質の管理に部分的に参加している、ともいえるような事態が到来している。

たとえば、アメリカにおける「個人主義的優生学」の台頭に関して、本書では次のような指摘がなされている。

『第三に、このアメリカ社会の特徴はまた、技術使用についての思想に関わる問題でもあることである。アメリカ社会には、技術使用の場にも個人主義的・自由主義的思想が貫かれている。(中略)むしろ、自己決定は、自由市場化を正当化するものであったとみてもよい。(p264)』


『第三者に害を与えない限り個人の行動は拘束されない、とするラジカルな自由主義が、アメリカ社会の基本にあり、これが自己責任と消費者のニーズという概念で正当化されるとなると、個人の意志で、自身や生れてくる子の生物学的改造や遺伝的質の選択を行う、個人主義的優生学を認知しようとする方向がでてくる。(p265)』


つまり、優生学を否定する(乗り越える)原理を、「自由」に求めることも難しそうなのである。


E. それと関連するが、現代の科学技術が可能にしたことは、生存の非常に早い段階で生命についての判断を下し、何らかの操作を加えることができるようになったということである。

選択的中絶もそうだが、さらに重要なことは、そもそも生命が生れることを阻まないでも、生れてくる生命に何らかの操作を加えて「治療」を行うことで、「障害」をもたない子どもだけをこの世に生み出す、といったことが可能になってきたことである。

じつはこれが、19世以来、多くの優生学者が理想と考えてきた状況でもあるのだが、ここで言えることは、「優生学の悪」(と、あえて分かりやすく書いておくが)の本質は、「生命の否定」それ自体にはないように思える、ということである。

すなわち、優生学的なものを乗り越えるために、単純に「生命」を持ってくるということも、難しいようである。


F. それでもやはり、「優生学的なもの」は、何らかの仕方で乗り越える必要があるのであろうか。

ぼくは、もちろんそうだと思う。

他者の生の質の、多くは自由意思にもとづくような判断と管理は、戒められるべきだと思うが、その理由を、というよりも、それが具体的にどういうことなのかを言うことは難しい。

ただそれは、日常のなかで抑圧されている砂漠的なものに関わっているのではないかという直観を、いま漠然と抱いている。

*1:もうひとつの重要な逆淘汰の要因は、社会福祉だとされた。

*2:といっても、もちろんそれらのことの現実的な危険を軽視してよいというわけではない。