最近シモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』(ちくま学芸文庫)を読んでいるが、下のところがあまりにも印象深かったので、写しておく。
聖霊に対する罪とは、ある事柄がよいことだと知りながら、よいことであるゆえにそれを憎悪するということである。これと同様なことが、善に向かってすすんで行こうとすると、そのたびごとに何かしらさからってくるようなものとして感じられる。というのは、善と接触しだすと、悪と善とのへだたりを意識するようになるし、同化しようとする苦しい努力がはじまるからである。それは苦痛でもあり、また、おそろしいことでもある。そのおそれは、おそらく、善との接触が現実となってきたしるしなのであろう。それにあい応じて罪が生じてくるというのは、希望が見出されないために、このへだたりを堪えがたいもののように感じ、苦痛が憎悪に変わって行くからに他ならないのであろう。このことについては、希望だけが救いである。だが、もっとよい救いは、自分に無関心になることであり、また、善から遠く離れているばかりか、無限にそこから遠ざかって行く定めにあると思われるときでも、善が善であるのは、さいわいなことだと思うことである。(p125〜126)
なにかすごくよく分かって苦しくなる。
これを読んで、田中小実昌が『アメン父』のなかで、『ニンゲンはもろいものだが、アーメンに反抗するときなどはしぶとい。』と書いてたのも思い出した。
そのとおりだと、言うしかない。
重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄 (ちくま学芸文庫)
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