先日の経済ニュースから

ぼくはテレ東の『ビジネスサテライト』をよく見るのだが、先日は、「持続可能な漁業」が、新たなビジネスチャンスにも成りつつある、という話題が紹介されていた。


イギリスでは、乱獲による水産資源の枯渇を防ぐ目的でMSCと呼ばれる漁業認証の仕組みが活用されていて、このロゴを付けられた水産物や加工品は、資源の保護のための基準を満たしていると認定されたものとして、多少価格は高くなっても多くの消費者に好んで買われ、高い実益を上げているのだそうである。
http://www.amita-net.co.jp/solution/msc01.html?source=Overture&key=msc01&OVRAW=msc&OVKEY=msc&OVMTC=standard&OVADID=1853725541&OVKWID=25197998541


これは、消費者と制度を作る人たちの両方に、環境や資源に対する高い意識や自立心のようなものがないと出来ないことだろうから、この制度にも不十分な点もあるらしいとはいえ、立派なことだなあと思って感心しながら見た。
なにごとにせよ、自分たちが主体というか起点となって社会のあり方を変革していこうという、身にしみ付いたような態度が人々にあることがうかがわれるのは、尊敬すべきことだろう。


ぼくたち日本の消費者に、こうした意識があるか。
一般的に言って、無いのだと思う。
たとえば、どこのスーパーにも「どこそこの誰それさんが作った野菜」だの、「国内のどこそこで獲れた魚」だのと表示されている品物はあり、それに手が伸びることはある。
だが、おおむねそれは、それらが「美味しそうだ」とか「健康に良さそうだ」とか「安全面の心配がない」といった理由から買うのである。
そこに「環境を保持していくために、またそのための社会の仕組みを維持していくために、それを買い続ける」というふうな、断固とした意志、積極的なコミット(参加)の気持ちは、ふつうは無いであろう。
ここの違いは、大きいはずだ。


では、イギリスの消費者に見られるようなこうした行動は、どんなところから生じてきているのだろう。
まず、「持続可能性」への配慮については、こういうことがあると思う。
人が、「私が生きている」というとき、それは現実には「この世界(のなか)に私が生きている」ということを意味している。
私個人の生がたとえばどれだけ悲惨であっても、それは生そのものが悲惨であることを、ただちには意味しない。
しかし無論、私個人の生の幸福や悲惨さが重要でない、ということではない。
私が生きていなければ私にとっての世界はないが、世界がないところで私の生を考えることもできない。両者は、分かちがたく結びつき、重なっている。
世界から切り離して私の生を単独に置くのでもなく、また私の生とは別個なもの(与件)として世界の存在を抽象的にとらえるのでもなく、両者が不可分であることを自覚しながら、人(自分)が生きていくということを考え直していく必要がある。
そこから、自分の生の不可欠の部分として、その根底(条件)をなしている自然や社会の持続可能性に留意して行動しようという考えが生じてくる。


しかし、問題は、こういう「思想」があっても、それを自分の行動を通して社会の変革という形で実現していこうとする意志を、各人が持てるかどうかということだ。
MSCのような制度が、市場のなかで機能していく社会では、人々はそのような意志を持っているはずである。それがなければ、こうした仕組みは、いわば現行の社会的・経済的なシステムを補完するだけの「新しい意匠」、もしくは「資本の持続可能性」に奉仕するだけの表層的なルール変更に終わってしまうだろう。


この話題が報じられた際、番組のコメンテーターであるエコノミストの男性が何と言ったかというと、「こんなグローバル・スタンダードを欧州に作られてるようじゃ駄目だ。日本は、持続可能なんてことは古来からやってるわけで、それだけでなくこれに別の要素も加えて日本独自なグローバル・スタンダードを作っていくべきだ」というようなことだった。
グローバル・スタンダードに沿わなくては生き残っていけないが、外から押し付けられたものに合わせるだけというのは業腹なので、「日本独自の持ち味」みたいなものを加味した「自前のスタンダード」を作り、逆にそれを世界に広めて「日本発のグローバル・スタンダード」にしてしまおう、というような意見は、最近よく耳にするものだが、なんだか底の浅い考え方だと思う。
現行の社会制度やルールが、変更不可能なものとして前提されたなかで、その大枠のなかの利用可能な手段のひとつとして、つまり「グローバル・スタンダード」という名の「様々な意匠」のひとつとして、「持続可能な産業」というものが捉えられている。
自然(環境)や社会の土台の部分を維持できるような仕組みを作るために、各々が積極的にコミットしていこうという意識は、こういう考えのレベルからは出てこないものだろう。


いま問題になっているのは、私(たち)の生や生活をめぐる根本的なルールの書き換えということである。
自分が生きていることの根幹に関わる、その世界観の変更のようなものを、現実の市場や国家や家族といった制度のなかに、どのように織り込んでいけるかということを、人々は模索しはじめているのだ。


「環境」といい、「人権」や「自由」等と言っても同様に、いま社会のあり方の変革を目指している人たちが見据えているのは、こうした点である。
つまり、私の存在と不可分なものとしてあるような土台としての自然、または社会の、存続・保持ということを考えていかなければ、個々の幸福や自由というものも成り立たないはずだということ、そういう事実への自覚が、人々を自らを起点とする行動へと駆り立てているのである。


ところが、われわれの社会では、そうしたことが「思想」とか「グローバル・スタンダード」といった表層的なレベルでのみ理解され、各々の生の切実な問題としてはとらえられないのが普通である。
その理由は、われわれの生が経験的な次元での世界とのつながりを失っているために、現行の社会システムの根底をなしているような、私の生と周囲の世界との関係のあり方を、ほとんど実感できないことではないかと思う。
つまり、自分たちがそのなかに捉えられて生きている社会システムの書き換えを志そうにも、そのことが可能であるということ、唯一それを為し得る者は「私」でしかないのだという事実が、信じられなくされているのである。


ぼくは、こうした「私の生」と「周囲の世界」とのつながり(というより、分離しがたさ)の感覚(経験)の切断こそが、現代における人間の家畜化の条件ではないかと思う。