暴動の暴力と自分

きのうのエントリーに寄せられたトラックバックやブクマコメントを読んでいて、ひとつ意外に思ったのは、ぼくが今回の暴動に対して「無条件に支持する」と書いたのは、そこで行使されるであろう暴力が「正当性」を持つと考えてのことだ、と思った人がいたらしいということである。


ぼくは、必ずしも今回の暴動を、その行動や暴力の正当性を理由に「無条件に支持する」と書いたわけではない。
ただたんに、自分の位置から出来る連帯の表明は、そのように書くこと以外にありえないと思ったから、そう書いたまでである。
そのことについては、後で書こう。


たしかに、生田さんのサイトに一端が書かれていたような積年の経緯や、今回の当初からの警察の対応、とりわけ放水車で放水を繰り返したりした強圧的な態度を考えても、「(たとえば)抵抗の正当性」のようなものは、十分にあると思える。
同サイトによれば、(報道では警察側の負傷者しか報じられてないが)労働者や暴動に参加した側に、実際多くの負傷者が出たらしい。もちろん、逮捕者も多く出た。
ともかく、この暴動が正当な力の行使であったろうとは思う。
だが、そのことがただちに「無条件の支持」の理由になるということではない。


ぼくがこだわるのは、完全に正当な暴力などというものがありうるのか、ということである。
抵抗や何らかの大義のためになされても、もしくは国家や法のためになされても、暴力は暴力であり、そこには必ず正当化できないもの、つまり「無条件の」支持や容認の対象とはなりえない要素が含まれるのではないか。
それを押し隠して「正当な暴力」「非難されえない暴力」があるかのように考えることは、危険だろうと思う。


少し具体的に考えてみよう。
法律には「正当防衛」という言葉があるが、正当防衛で人を殺して無罪になっても、その人は「人を殺した」という事実を、ずっと背負うだろう。
また、国家が主体となって行う殺害行為は、戦争の場合はもちろん、「死刑」にしても、それが合法的に、あるいは社会正義の名のもとに行われているからといって、「人が人を殺すこと」という厳然たる暴力の事実を消し去れるものではない。
つまりそれらの暴力は、深い意味では、決して「正当化」されえない。


別の例、「暴動」にもっと近い例をあげよう。
前回90年の西成暴動でも、商店への略奪などに波及したことが問題となったが、よく知られている例は、ロス暴動の時の、韓国人街襲撃だろう。
また、先のチベットでの独立を求めた暴動のなかでも、漢民族の人が経営する商店への焼打ちという情報が伝えられた。
ぼくが、「暴動の暴力は、弱者を標的にしかねない」というふうに書く場合、こうしたことが念頭にある。
暴動は、その本質なり始まりが「正当」なものであっても、そこから逸脱して(とりわけ)弱者への暴力・迫害へと転化する危険性を、ほとんど不可避にはらんでいるのではないか?
そしてさらに言えば、警察官・機動隊員といった人たちは、通常は権力と装備に守られた強者として暴動参加者に対するが、つかまって攻撃されているときには、やはり「弱者」だと思う。「警察との衝突」のなかでも、「虐げられた人たち」による「弱者への攻撃・暴力」は、やはり十二分に起こりうる。


結論として、「正当な暴力」と、そこから逸脱した「過剰な暴力」とを、厳密に区分することは出来ないはずだ。
暴力は常に「非正当性」(過剰さ)を有する。
このことは、きのうも触れた。


これは、実際そのようなことが起こらなくても、「暴動」を支持すると言うからには、そのような暴力の発生に対しても、責任を負わざるをえない、ということである。
ぼくは、ぎりぎりの状況と怒りのなかで闘っている(労働者などの)現場の人たちに向かって、そのような暴力への自覚をもとめ、暴力性を責めようとは思わないが、(ぼくのように)外野から「暴動に賛成だ」という人たちは、この暴力の事実性を自分たちのこととして自覚し、それを背負う必要があると思う。
暴動の現場で、無関係な人や機動隊員が、暴動参加者によって傷つけられ、血を流していたら、その血を流させているのは、労働者ではなく、暴動を支持した自分である。
最低限、その気持ちは、持っておくべきだ。


さて、そのうえで。
ぼくは今回の釜ヶ崎の暴動が、警察の横暴によって苦しめられ続けた人たちの怒りの表明であると思っている。のみならず、その横暴を許し、差別の視線を送り続けてきたぼくたちの社会全体への、抗議の表明であると同時に、人間としての「呼びかけ」であるとも捉えた。
ぼく自身はこのとき、同じ人間として呼びかけられていると同時に、抗議され告発される側にいる者であることもたしかだ。
いわばぼくが、この人たちを、追い詰められたぎりぎりの暴力の行使へと追いやったのである。
自分が、人間としてこの「呼びかけ」を受けた(聞いた)と思ったとき、ぼくに出来ること、するべきことは何であろうか?
自分が追い詰めたこの人たちの、ぎりぎりの実力行使のやり方に文句や注文をつけ、「合法性」とか「常識」の範囲内におさまるべきだと講釈を垂れて、この人たちが自己の尊厳や生活を守るためにとりうる最後の手段を奪うことに加担することであろうか。
そんなはずはない。


ぼくがするべきなのは、まず自分が加担している見えない暴力の構造、つまり(例えば)釜ヶ崎の人たちを差別と無視によって追い込み、たとえばその一部をやむをえざる暴力の行使へと追い詰め、さらにそのことによって多くの「弱者」を波及的な暴力の犠牲としてしまう、そのような構造に加わっている自分を見出して、それ(社会構造)を変えていこうとすることだろう。
そういう暴力の再生産の構造を変えうる存在として、自分を見出すということだろう。
そのためには、自分の暴力性の自覚ということが不可欠である。


「暴動を無条件に支持する」という表明は、他人を暴動という暴力のなかへと差し向けている、自分自身の暴力性を自覚する(引き受ける)ということを意味している。
そこで流されるであろう血に関して、(虐げられた他者ではなく)私こそ責めを負うのだ、という意思表示なのである。
その暴力の(したがって自分自身の有責性の)如何について、他者の行動と運命に委ねる以外ないという無力さのなかで、はじめて呼びかけに応答することの出発点に立ちたいと願うのである。