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「ファシズムとは、現実のユートピア化である」(久野収)

2008-11-28

[]『占領ノート』

占領ノート―一ユダヤ人が見たパレスチナの生活

占領ノート―一ユダヤ人が見たパレスチナの生活


バグダードとボビニィ〔セーヌ・サンドニ県の県庁所在地〕、ラファを見てみると、文化や事情が違うにもかかわらず、類似性が目につく。迫害者にとっては、ことを荒立てず、できれば沈黙を守る者たちだけが、善良なる被弾圧者である。圧政に苦しむ人々が立ち上がると、奴らは我々の価値をわかっていないとか、扇動に乗っているとか、理由もなく暴力に訴えているとか、テロ組織の一員となったなどと言い始める。いずれにしても、悪いのは奴らだ、というわけだ。(p7〜8)


本書は、ハマスが選挙で勝利を収めた直後の2006年5月と6月に、ヨルダン川西岸のイスラエルによる占領地区を訪れた、あるユダヤ系フランス人による記録である。

この本の大きな特色は、占領下の想像を絶するほどに過酷な日常を生きる(少なからぬ人々が殺されているわけだが)パレスチナの人たちの状況が、その肉声とともに生々しく描かれていることだけではなく、その人々に接する著者自身の息遣いのようなものが、行間に溢れているという点にある。

訳者によるあとがきを読むと、著者のエリック・アザンは、フランス人でありながらアルジェリア解放闘争に参加したり、わざわざ医師の資格をとって戦時下のレバノンで医療活動を行ったりと、本業の出版の仕事以外にも、果敢な活動を行ってきた人のようである。

その著者が、また一人のユダヤ人でもある人として、占領下の人々の、困難と抵抗の姿に触れた取材の記録であるということ、それがこの本の特徴のひとつを作っているといえる。


そのことはたとえば、冒頭に引いた一文にも示されている。

パレスチナの人たちの現状を、独自の視点から、しかし正確に取材し、描き出していくことは、著者に、自分が暮らすフランスの社会、先進国とされる社会の日常の姿を、否応なく想起させる。

他者がまぎれもない他者であることを見出すことをとおして、自分自身の生きている社会の現実が、この他者たちの社会と重なり合うものとして照射されてくる。

次の一節は、この生々しい心の動きを、もっとも鮮烈に示している部分だといえよう。

ナブルスを訪ねた異邦人として、私は、それでもなお、ある種の軽快さをナブルスの雰囲気に感じていた。日々の生活は苦しく、人々は疲れ果て、苦痛と悲しみを背負っているが、それだけだというのは正しくないかもしれない。そこはまた、警察のいない町――それは大したことである――で、広告もなく、人々が路上で寝たり生きるために物乞いをすることもない。人間が単なる人口の算術的合計に還元されていない町。液体に加えられた圧力がその液体の物理的状態を変えるように、ナブルスという高圧鍋に加えられた圧力は住民を人民に変えていた。(p66〜67)


ナブルスの町の状況は、後半で描かれる、「分離壁」によってズタズタに寸断された上、入植者と軍による二重の支配と暴力にさらされているヘブロンなどの地域や、難民キャンプの悲惨な状況よりは、いくらかましなものと言えるのかもしれない。だがそれでも、ナブルスの人たちにとっても、イスラエル軍による攻撃や家屋の破壊、それに突然の逮捕、誘拐といった脅威は、まったく日常的なものである。

にも関わらず、それらを詳細にリポートした上で、著者は上記のように感想を記すのだ。

そこには、自分が属する「先進的な」社会の現状に対する激しい憤りと同時に、暴力にも管理にも屈しない人間(人民)のあり方に対する、著者の過剰なほどの愛と信頼が込められていると感じる。


おそらく、この著者の精神的なあり方とまったく無縁でないこととして、この本で紹介されているパレスチナの人たちの言葉から、浮かび上がってくるひとつの「真実」がある。

それは、この残酷な日常のなかに置かれた人々が、何に対してたたかっているのか、ということである。

それは、もちろん直接にはイスラエルの常軌を逸した支配と暴力なのだが、じつは決して、なんらかの固有名詞に還元されるようなものではない。

著者は、ホロコーストを「シオニストの発明品」だとするような考えがパレスチナに広まっていると述べた上で、次のように書く。

私が話した相手の多くは、ユダヤ人だというだけでユダヤ人に反対することは決してないと明言した。「これまでずっとユダヤ人とは友好的に暮らしてきました」という言葉がどこでもくり返された。ユダヤ人と言えば兵士と入植者しか知らない若者でさえ、そう言った。ジェノサイドを否定することは、ヨーロッパ人が振りかざす反ユダヤ主義という武器と同じではなかった。それはパレスチナ人の迫害を正当化するためになされた歴史的欺瞞を修正しようとするものだった。(p100〜101)


つまり著者が言っているのは、パレスチナの人たちのいくらかがホロコーストを「シオニストの発明品」と呼ぶのは、「反ユダヤ主義」と結びついた歴史修正主義とは別物であるどころか、そのまさしく正反対の態度のあらわれである、ということだ。

ここには、やはり著者の「人民」に対する過剰な信頼、その投影を読み取ることができるかもしれない。だが、まさしくその過剰さが、光となって、人々が日常においてたたかっているものの真の名を明かす。

それは、人間を押し潰そうとする「不正義」なのだ。


イスラエルの行為は、それがイスラエルによってなされるからではなく、ましてや「ユダヤ人」や「ユダヤ教徒」の仕業であるからでもなく(愚かにも、多くの日本のメディアは、そう伝えているが)、ただ人間に対する不正義であるがゆえに、人々の怒りと抵抗の対象となるのである*1

占領下の人々に対する著者の共感は、まさにこの一点に賭けられているのだ。


占領地区の(この本の執筆当時においてさえ)切迫した状況を、多くのグラフィックを交えて、詳細に、また生々しく報告した、この小さいが豊富な情報量をもつ書物の紹介としては、以上の文章は適当でないものになったかもしれないが、もっとも強く感じたところを言葉にした。

*1:だからこそまた、人々の怒りは、ファタハの腐敗や、アラブ諸国の非民主的な政治の現実にも向けられる。