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「ファシズムとは、現実のユートピア化である」(久野収)

2008-12-07

[]「労働開国?」について

先日も書いたように、雑誌『オルタ』の今号では、「労働開国?」と題した特集が組まれている。

http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20081129/p1


特集 労働開国?

─移民・外国人労働者・フリーター


ここにきて、外国人労働者や移民受入れへ向けた動きが活発化している。6月に自民党のプロジェクトチームが1000万人の移民受入れ提言を首相に提出。去る10月には経団連が、やはり受入れへの転換を強く促す政策文書を発表した。ともに人権尊重と民族の平等など「多民族」「多文化」共生を掲げながら、タブーとされてきた外国人労働者の導入を主張している。


いよいよ本格化する少子高齢化、労働力人口の減少を控え、もはや国籍に関係なく日本経済/社会に資する人材の優遇へと舵を切ったかのように見える。こうした形での受入れにどう対峙すべきなのか。あるいは研修生問題や非正規滞在者排除など、いまここの外国人問題は、「格差」「貧困」の議論といかなる関係にあったのか。グローバリズムナショナリズムの交差する場から、新自由主義体制下の“多文化”や“平等”を考える。


「1000万人の移民受入れ」というようなことが、経済界や自民党などからも出てきていて、それは労働力のグローバル化と呼ぶべきことに関わっており、最近ようやく大きな問題になり始めた非正規雇用などの悪い労働条件の固定化につながる恐れがある。

また、この「受入れ」に関して、「多文化共生」という言葉が、行政の側によって巧みに利用されるという状況が出てきているが、それをどう考えるか。


特集のはじめに置かれた「討議」のなかでは、五十嵐泰正が介護・看護の現場での動きに触れて、

根本的なところの疑問として、労働条件を是正することを放置して、これでは人が集まらないから外国人を連れてこようという、この発想自体がどうなのかと。(p12)


と語っている箇所があるが、全体にたしかにこういう疑問がつきまとう。

また、塩原良和は、次のようにはっきり指摘し、批判している。

今回の受入れ論は、基本的には選別的受入れ論で、マーケットの利益に沿った形で入れる人と入れない人を分けて受入れましょうという話だと思います。(p16)


そして、

そこでの「共生」という言葉は、儲からない人、利益にならない人は除外していいという論理と矛盾なく同居してしまう。(p14)


とも述べる。


このうち、「多文化共生」という言葉に関しては、以前にも、このブログに書いたことがある。

http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20071022/p1

http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20071109/p2


そこで、今回の「労働開国?」と疑問符が付けられる動きについて、どう考えるか。

五十嵐が言うように、労働条件を改善することを放置して、むしろそれを改善しないために外国人労働者や移民の導入が推進されるのであれば、これは許されないことである。

だが自由化(開国)に反対の理由が、たんに「日本人の労働者が困るから」ということであれば、自分たち(日本)の側の都合だけで自由化を推進しようとしている側の論理と、何ら変らない。

ここは、はっきりしておく必要がある。


この国は、かつて自分の国の都合で、植民地出身の大量の労働者を劣悪な労働条件で働かせていた会社のせがれのような男が、総理大臣をやっているという「とてつもない国家」である。

その国や企業の体質が、現在の日本の労働者が置かれている状況に示されているのだし、「選別的受入れ」などというふざけた発想にも示されているのだ。

また、この体質の継続は「日本型外国人政策の敗北」(話/ななころびやおき)という優れた記事で詳しく述べられている、在日外国人政策の惨憺たる現状にも示されている。そうした現状が改善されず、「多文化共生」が実際にはまったく実現していないなかで行われる「移民受け入れ」など、破綻することが目に見えているし、行われても悲惨な人を増やすだけだといえる。


だから、いぜれにせよこの体質を根本的に変える必要があるのだが、ここで言いたいのは、この体質は、移民受け入れに反対する人たちにも共有されていることがありうる、ということだ。

それを乗り越えなければ、移民受入れへの反対(反グローバリズム)は、国家の変らぬ体質と論理に、簡単に呑み込まれてしまうだろう。


現実に、ネット上で移民受入れに反対する言説は、排外主義的な論調で展開されているのだから、そんなことは言うまでもないと思うかもしれないが、それでもどういう立場に立って、この動きに反対するのかということは、常にはっきりさせておく必要がある。

自分たちの当然の権利と生活を守ることが、日本での労働や移住を望む人の自由を制限することになりうる。これは、目をそらすわけにいかないことだろう。

だが、そこから見えてくるもっと大事なことは、われわれの最低の生活さえ、日本での労働を望まざるをえないような人たちの困難な状況の代償として、われわれに保障されてきた、ということである。

この視点がなければ、われわれ自身の「体質」を乗り越えることは難しい。

「多文化共生」が、われわれに突きつけているものも、本当はそういうことであろう。


一番根本的な問題は、なぜこのような移動を、送出し側の国の人たちは、選択しなければならなくなってるか、ということであると思う。

労働市場の自由化(グローバル化)への賛否が言われる前に、それを問わなくてはいけない。

「介護「開国元年」」という記事のなかで安里和晃が、

外国人労働者の受入れは、働き盛りの世代の出稼ぎという部分で、送出し側の途上国にとっては人材流出、さらに家族やコミュニティの空洞化といったリスクを抱えていることを見過すべきではないと思います。(p23)


と言っているのだが、ぼくはこの指摘が、核心をついたものだと思う。

同様の構造は、国内の都市と地域の間にもあるだろう。

この、国の間、地域の間の格差の是正という観点をもっていないような、移動に関する議論は、賛否いずれにしても、弱い。

それは、自分たちの都合だけで国境を閉じたり開いたりして人(労働力)の移動を利用する、上に書いた植民地の時代の論理を脱却しえていない議論であるからだ。

それは、自分たち自身を取り巻いている、また規定してもいる世界と社会のあり方を、対象化していない考えなのである。