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「ファシズムとは、現実のユートピア化である」(久野収)

2009-02-16

[]もう一度、村上氏の講演に触れます

村上春樹氏の講演だが、共同通信による要旨を見た。


http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090216/acd0902161022003-n1.htm


先のエントリーでも触れたが、ぼくはやはり最初の、

イスラエルの(パレスチナ自治区)ガザ攻撃では多くの非武装市民を含む1000人以上が命を落とした。受賞に来ることで、圧倒的な軍事力を使う政策を支持する印象を与えかねないと思ったが、欠席して何も言わないより話すことを選んだ。


とある部分に、もっとも注目する。

このとくに後半の部分で、村上氏は自分の行動が持つであろう政治的な意味合いを真剣に受け止めて考え、そのなかで氏として最善と思われる選択をしたことが述べられている。

繰り返しになるが、まずこのこと自体を、ぼくは重視する(口幅ったい言い方だが)。

そして、とくに「圧倒的な軍事力を使う政策」という点に言及していることや、細かく言えば、「非武装市民を含む」という表現で、亡くなった全ての人たちの命(つまり、武装・非武装を問わず)について述べている、ということにも注目する。

だが、なにぶん「要旨」であるし、言い出せばきりがない。


他の部分については、たしかにぼくのように、「占領」という根本的な不正義と暴力、という視点をとる者の側からは、物足りなさはある。

悪い意味の(イスラエル国内でも有力であるような)「リベラル的」とか、「どっちもどっち」といった意味合いにとられても不思議のないところがある。

ぼくはたとえば、『壁の側に立つ小説家に何の価値があるだろうか。』という言葉に、非常に強い気概のようなものを感じて、勇気づけられるが、そう受け取りたくない人はいるだろうし、そう受けとられることが氏の本意かどうかも分からない。

やはり重要な認識や意見の違いがあることは、否めないかもしれない、とは思う。


だが、同時にこのようにも思う。

村上氏は、

『わたしたち一人一人は卵であり、壊れやすい殻に入った独自の精神を持ち、壁に直面している。』

と、述べている。

村上氏の言おうとしていることと同じかどうかは分からないが、ぼくも似たような思いを持つ。


これは、相対主義的な意味で言うのではない。

一人一人、持っている殻は別々だとしても、関わり責任を持っている世界のあり方が異なるわけではないからだ。

だが、やはりぼくの考えや立場と、村上氏のそれとは異なっている。

だからその人なりの考えと立場において、この現実に対する責任をどう果たすか、どう行動するかということしかないと、とりあえずは言える。

今回、村上氏が村上氏の立場から、その一歩を踏み出したということ、そしてその一歩が、氏とは異なる位置に居るぼくの心を動かし、あるいは脅かすような熱を持っていたということを、ぼくは認めたい。

氏の行動と言葉は、やはり受け手であるぼくたちの応答を強いるような力があると、ぼくは思うのだ。

それは、氏が、イスラエルとパレスチナの現実をめぐる自身の責任と政治性から、決して逃げなかったからである。




そのうえで、実は今回の報道のなかで、個人的にもっとも心を動かされた(嬉しいと思った)点に触れておきたい。

この毎日新聞の記事のなかにあるが、

http://mainichi.jp/enta/art/news/20090216dde001040031000c.html

日本国内で受賞拒否を求める声が上がったと説明するとともに、「私は、沈黙するのではなく(現地に来て)話すことを選んだ」と述べた。


とある部分である。

ぼくはここを読んだとき、受賞拒否や批判的なスピーチなどの明示的なアプローチを求める人々の声は、村上氏の耳にちゃんと届いていたのだと、はじめて思った。

このことに努力した多くの人たちの気持ちが伝わっていたこと(その意味で、無駄でなかったこと)を知って、とても嬉しいと思ったのである。


これは、氏自身の内面に、その声を聞き届けるために必要なものが予め存在していたことを意味するだろう。

だからこそ、氏は、こうした人々の声を「強制」と捉えて済ませるような、愚かな思考に逃避することなく、それらの声との対話のなかで、自分独自の判断を下したのである。

「自由」とは、このようなことではないか。


それぞれに考えや立場は違うのだから、さまざまな声は起こりうる。

その声を聞き、他人や自分自身との対話を重ねるなかで、自分が現実に対して何を行うかを決め、その判断と行動のなかでさらに考えを深めていく。

そういうことが、本来の思想や思考の自由というものであり、生きていくことの自由でもあろう。

氏はまったく、その自由において行動したのであり(まさしく、それが文学者であることだと思うが)、だからこそ人々の真剣な声に耳を塞ぐことが無かったのだ。

このような自由と無縁な人たちだけが、いつまでも、「もはや壁と化した殻」のなかに閉じこもり続けるのである。

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