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「ファシズムとは、現実のユートピア化である」(久野収)

2010-04-19

[][]プロジェクトJAPANシリーズ 日本と朝鮮半島 第一回

http://www.nhk.or.jp/special/onair/100418.html

すでに右派から相当攻撃されてるようなので(この人たちは番組内容をちゃんと理解できてるのか?)、悪口を書くのははばかられるのだが、あれが「良心的」な番組とか、当たり前のリベラルな見解を述べた番組だと思われるとあんまりなので、あえて書いておきたい。


番組のなかで日本の学者が、安重根のような活動家や義兵闘争などの民衆の抵抗を指して「ナショナリズムが強すぎた(それが伊藤の誤算だった)」という意味のことを言ってたが、まったくひどい言い草である。

植民地支配に抵抗して、いや、たんに支配に抵抗してと言い換えてもよいが、当然の権利である独立と自由を求めて戦うこと、屈することを拒むことが、「ナショナリズム」のひと言で片付けられる問題か?

それは人間としての当然の振る舞い、非難されたり蔑視されるいわれのない当たり前の態度・行動じゃないか。

ああいう日本の学者たちの発言から透けて見えるのは、抵抗する人間、不服従を貫こうとする人間に対する、抜きがたい蔑視的な感情である。これは、それこそナショナリズムや民族の問題ではないのだ。

安重根や虐げられた朝鮮の民衆は、そういう感情を育む帝国主義的な非人間的な土壌とこそ、戦おうとしたに違いない。

この感情のさなかに学者たちのみならず、日本の社会全体が今もどっぷり浸かっているのだとすれば、彼我の間(決して二つの国家とか、民族・国民の間ではない)にあるのは、「歴史認識の違い」などという皮相なもの以前の、根本的な(相対化できない)隔たりだと言うしかないではないか。


安重根は、民族主義者というよりは興亜主義者だろうが(そしてその部分を、私には個人的には敬愛するが)、朝鮮人があのとき置かれていた、いや日本と帝国主義によって置かれていた状況を考えれば、そうしたイデオロギーの問題、言葉のうえの違いは、たいしたことではないだろう。

ただ、興亜主義(アジア主義)について一言言っておくなら、それは、結局のところ日本の強国化なり侵略なりに加担していった日本の右翼活動家たちのそれとは異なって、本来は帝国主義に対する人間擁護の思想だったと思う。決して、アジア人だけが大事で、西洋人など非アジア人と見なされる人たちを排斥しようというような考えではなく、帝国主義への抵抗と不服従を通して、世界中の全ての人々に帝国主義や力の支配に屈しない人間らしい生き方を思い出してもらおう、その人たちとこそ共に生きていこうという思想だったはずである。

安重根もまた、それを日本人に期待し、同じ帝国主義の脅威にさらされた日本人が共に帝国主義と戦ってくれると思って伊藤のような政治家にも期待したが、日本は自ら帝国主義の道を選ぶことによって、いわばこの「人間の部分」を裏切り踏みにじったのだ。

安重根の思想に見られるのは(「私怨ではない」という言葉はその通りだと思うが)、やはりこの裏切りに対する怒りである。だがそれは、本質的には、人間を圧迫し変えてしまう帝国主義の暴力に対する怒りでこそあるのだ。


安重根の暴力を非難する者は、それまでに日本がどれだけの暴力と殺戮を朝鮮半島で振るったかを考えよ。そしてその後も、どれだけの朝鮮人の生に対して暴力を振るい続けてきたかを考えよ。

「テロ」の暴力を否定したいなら、その巨大な暴力(それは今も働いている)の派生物としてそれを捉える視点においてのみ、そうせよ。


『すべての民族が自主独立を保つことこそが平和です』という安重根の言葉に、ただナショナリズムの発露しか見出すことの出来ない日本の学者や日本人は、あまりにひどい場所に生きている。

それは、帝国主義とそれに結びついた悪しき資本主義や国家主義に骨の髄まで支配された中でしか、自分たちの生を生きることが出来ずにいるということであり、安重根や朝鮮の民衆の叫びと行動は、そのわれわれの状況に向かってこそ投げつけられた人間としての礫だと、私たちは受け取るべきである。

ここにある溝は、国境とか民族・国民とか文化や言語といった、表面的な隔たりよりも、はるかに深いのだ。だが、その場所はまた近接しているからこそ、その礫は私たちに差し向けられるのでもある。


「義兵は討伐しても良民を犠牲にするな」というような伊藤博文の言葉は、イラクに侵攻したアメリカ軍や、ガザに侵攻したイスラエル軍と同じ発想に立っている。

つまり、人間の中の「支配への抵抗・不服従」という情動的な要素をあたうかぎり低く見積もって貶め、抗う者を「テロリスト」や「敵」と見なして抹殺の対象とし、服従する者を「良民」と見なして「保護」の対象とし、この両者をすっぱり区別できると考えること、要するに人間の本性において抵抗や不服従の情動・意志というものを可能な限り遇有的な、重要さの薄い盲腸みたいなものと考える発想である。

この発想を、もちろんアメリカの「同盟国」である現在の日本と日本社会も共有しているのだが、われわれがそういう発想にやすやすと迎合したがる理由は、そう考えなければ、抵抗や不服従を行わず自らを抑圧している私たちの生が、自分にとっても他人にとっても、暴力的で不誠実きわまりない、非人間的なものだということを、認めざるをえらいからなのだ。

安重根のような抵抗者の行動は、そうした自己の生の非人間性への自覚こそを、私たちに迫っているのである。