胸の悪くなるニュース

http://www.asahi.com/kansai/news/OSK201009220077.html

高校無償化制度をめぐり、朝鮮学校大阪府独自の補助金を支給することの是非を検討してきた府の専門家部会の提言の全容がわかった。北朝鮮指導者の個人崇拝を促すような教科書の記述の問題点を指摘するとともに、授業の改善を求めている。文部科学省の専門家会議が教科書を含む教育内容を無償化制度適用の判断材料にしなかったのに対して、府の提言は踏み込んだ内容になった。


ある学校の教育内容について、誰か(学者とか豆腐屋とか漁師とか)が、それなりの判断を下したり表明することは勝手*1だが、この場合は「無償化」という公的な措置に関わって行われた協議と発表である。
この「注文」が、政治的な圧力として働くものと考えないことは無理な相談だ。


「無償化」という政治的行為(政策)は、それが非政治的(普遍的)に遂行されないのであれば、たちどころに国家や社会の持つ暴力性の発現の道具となる。朝鮮学校が無償化適用の「検討対象」とされて以来、起きていることはそういう事態なのだ。
「専門家」たちが、このような場において教育内容に「注文」(条件)を付けた時点で、彼らはその暴力に加担していることになるのである。


「あるべき教育」という題目をかかげて、その元で行使されるこの圧力が、どれほど下劣なものであるかは、この集まりを召集した橋下の発現に露骨に示されている。
「この条件をのめば補助金を払ってやる(無償化の対象にしてやる)」という物言いは、「無償化」の適用対象にする(排除しない)という当然至極な事にさんざん勿体をつけている国の最大の意図を、あからさまに言っただけのものだろう。
橋下という男は、国家権力という強大なものが本当は何を意図しているか(それは「国民」「有権者」の意識とも表裏をなしているが)を的確に読み取るすぐれた嗅覚と、周到な準備なしにそれを表に出してしまう単細胞さを併せ持っているので、こんな物言いと行動をすることになるのだと思う。
国が意図していることも、朝鮮学校という特定の教育機関の存続を自らの恣意の下に置くことによって、教育全般に対する支配(介入権)を強固なものにしていくということだろう。


「条件」や「注文」を付けることなく朝鮮学校を「無償化」の対象に含めるということは、ただこの社会の中で不当に差別・排除される人たちをこれ以上出さないという意味でだけ必要なのではない。
それは、教育というものを、この社会において国や強力な権力の政治的道具に(これ以上)してしまわないためにこそ、絶対なされなければならないことなのだ。




日本という国では政府や自治体の長が、ゆすりたかりまがいのやり方で学校教育に圧力をかけ、教育の場を自分たちの自由にしようとする悪行が、公然と行われているという実態を、是非日本の学校でも「公平に」教えて欲しいものである。

*1:普通、その実行に特段の困難が伴うわけではないから、あえて「自由」という程のことでもなかろう。