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「ファシズムとは、現実のユートピア化である」(久野収)

2012-09-04

[][]『壊された五つのカメラ』

2日日曜日に、大阪十三の劇場で、パレスチナ・ビリン村の抵抗運動の様子を、抵抗者自身が記録したドキュメンタリー作品『壊された五つのカメラ』の先行上映を見た。

上映後は、この映画の二人の監督、ビリン村の住民でもあるイマード・ブルナートさんと、その友人でイスラエル人活動家のガイ・ダビディさんを迎えたトークも聞くことが出来た。

非常に強い印象を受けたので、書いておきたい。


この映画の凄さについては、土井敏邦さんがご自分のパレスチナでの撮影体験を想起されながら、詳しく書いておられる。

http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120605.html


この土井さんの文章を読んで、ぼく自身がこの映画から受けた衝撃の理由の多くをはじめて自覚したと同時に、さらにそれ以上のことも感じた。

是非、この土井さんの文章を読み、そして多くの人にこの映画を見てもらいたい。

また、この作品は以前に衛星放送でも流れたことがあるようだが、トークで司会と通訳を努められた岡真理さんの談によれば、この作品はとりわけスクリーンで見ることで、まったく違った印象を受ける作品だとのことである。一度放送で見られた方も、是非映画館であらためて見られることをお勧めする。


映画の内容については、土井さんが書かれている以上のことを伝える力は、とても僕にはないのだが、一箇所だけ。

この映像の撮影者であるイマードさん(土井さんの文章ではエマドさんとなっているが、表記の揺らぎだろう)は、撮影のなかで自身も何度か瀕死の重傷を負ったり、長期間逮捕・軟禁されたりということを経験し続けているのだが、カメラ自体もたびたび被弾したり壊されたりして失ってきた。それが、このタイトルの由来である。

映画の最後で、イマードさんは、こんな風に言う。

『何度も繰り返し傷を受けると、古い傷は忘れられてしまう。だが、忘れられた傷は癒えない。だから私は、何度傷を受けても、また立ち上がってカメラを回すことをやめないのだ』


「忘れられた傷は癒えない」。

この言葉の重さは、国家や権力から受けた傷、また自らが他人に与えた傷を忘れることを基本的な習性のようにして日々を生きている、僕たちが誰よりも肝に銘じなければならないものだ。


以下では、二人の監督のお話から、特に印象深かったことを書いておく。

まず、イマードさんがトークの最初に言われた、大変印象深い言葉がある。

それは、『何か非暴力闘争が最近になって始まったもののように言われることがあるが、それは酷い誤解だ。非暴力は、インティファーダの頃から続けられてきた、われわれパレスチナ人の伝統のようなものだ』という趣旨の発言である。

ぼくがこの言葉に感銘を受けた理由は、その言葉の背後に、次のような感情が込められていることを感じたからである。


この映画には、たしかにパレスチナの人たちの、創意工夫を凝らした、イスラエルの法律の裏をかいたりするようなさまざまな柔軟な抵抗のあり方が描かれている。

それは、「パレスチナの抵抗」が、実際には日本や欧米のメディアによってしばしば偏見的に描かれるような硬直した、あるいは暴力的なものではなく、いわば現代的・市民的で非暴力的なものであるという事実を、世界の人々に知らせることに役立つだろう。

彼らは非暴力であり、合法的であり、もちろん対話可能な、われわれの市民社会のメンバーだ、といったようなことである。イスラエル軍の反市民社会的な暴力に抵抗する、われわれ市民社会の一員としてのパレスチナの人たち、というわけである。

だが、その事実だけが強調されることは、「アラブ人の野蛮で硬直した闘争」という差別的・偏見的なイメージを打破することには役立つが、別の大きな危険がある。

それは、インティファーダをはじめ、ときに「暴力」や「非合法」の謗りを受けても続けられてきたパレスチナの人たちの戦いが、貶められてしまうということである。

だからイマードさんは、現在の抵抗の独自的なあり方が、ことさらに「新しいもの」として語られることを拒絶したかったのだと思う。

「暴力的」とか「非暴力的」だとか、「合法」だとか「非合法」だとか、決めるのは大体、支配者・抑圧者の側だ。非道な暴力に対して戦ってきた人々の行為は、少なくともその精神においては、いつも「非暴力」だ。いったいそれ以外の何が、真に「非暴力」の名に値するのだ?

ぼくは、「非暴力はわれわれの伝統だ」という趣旨のイマードさんの言葉に、パレスチナという場所で圧倒的な暴力(有形、無形の)に抵抗して闘ってきた、過去の無数の人たちに対する愛情と敬意を感じ、支配者の論理によってそこから自分たちを切断しようとする力への憤りのようなものを感じたのである。


イマードさんは、『この映画はドキュメンタリーというよりも、我々の生そのものだ』というようなこともおっしゃっていた。

イマードさんは、抵抗の手段として撮影を選んだのであり、この映画はまさしくパレスチナ人の抵抗(それは僕たちに対しての、でもある)そのものだという事実に、見た者はみな打ちのめされるに違いない。この映画を見た者は、それが「先進国」とか「市民社会」と呼ばれる国々に住む、自分たち自身へ向けられた抗議の礫なのだということを、痛感しないではいられないからだ。

だがまた、この「抵抗」は、パレスチナの人たちの「生」と分離できるものではない。抵抗することは生そのものであり、また生きるということが全て無条件に抵抗に他ならない。

いわばそういう現実を、パレスチナの人たちは生きているのだろう。そして、それに似た境遇に置かれた、すべての人たちに、連帯のメッセージを送り続ける。


二人の監督、イマードさんとイスラエル人(この呼称が妥当なものかよく知らないのだが)のガイ・ダビディさん(トークの中ではビルさんと呼ばれてた気がするのだが、僕の記憶違いか?)のお話を聞いていると、その考え方には大きな違いがあるということが分かる。

たとえば、イスラエルの兵士について、ダビディさんは、個々の兵士に良心の有無を問うても意味はなく、これは抗えないシステム(軍隊、教育、社会など)の問題である。非難されるべきは兵士個々ではなく、人間の暴力性を増長させるシステムの方だ、という風に言う。

だがイマードさんは、自分の体験として、たしかに友好的に感じられる兵士もいないではないが、ほとんどの兵士に、パレスチナ人への怒りや憎悪があるということは間違いなく言える。システムが問題だと言うが、命令に逆らうことは無理でも、最低限抵抗することは出来るはずだ。兵士たちは、すすんでそのシステムを支えているのだ、と断言する。

常に非人間として扱われるパレスチナの人が、一個の人間同士としてそのイスラエル兵に対するなら、当然そのような思いを持つであろう。

「システムが悪いのだ」といって済ませることは、パレスチナ人に対してもイスラエル兵に対しても、あまりに冷酷だ。

僕はそう思う。


こうした考えの違い、それは二人の置かれた位置や、受けてきた教育の違いなどによるところが大きいのだろうが、それは決して小さなものではないことがよく分かった。

それにも関わらず二人が不断の抵抗闘争においても協力し、一緒に映画を作り、また個人的にも友人であるという事実には、大きな意味があると思う。

だがそれ以上に意義深いのは、そのように協力し共に闘いながら、あえてその相違点、対立点を隠さず、ぶつけ合っている二人の姿だと感じた。

これはとりわけ、僕たちが学ぶべきものであろう。


最後にもうひとつ。

映画のなかで、非常に重い場面があるのだが、それはイマードさんの親友でもあるビリン村の青年がイスラエル兵に殺された直後、4歳になるイマードさんの息子が、兵士への憎しみと殺意を口にするというシーンである。

この言葉を聞いたときに、どんな感想を持ったか、トークの会場でイマードさんに質問がされた。

僕はその質問を聞いたとき、とっさに、自分の子どもの頃も思い出して、これは子どもとしてはむしありふれた当然な反応ではないか、と思った。子どもは、死という事に対しては無頓着であり、むしろ死と親しい。また、憎悪の感情の表現もまったくストレートである。

だから身近な人を目の前で理由もなく殺されたときに、その殺した相手を殺したいと思ったりそう口にするということは、とりわけ子どもにとってはありふれた当たり前な反応だ。

この子は、特別に異常でも悲惨でもない。ぼくらがそうだったのと同じ、ごく普通の子どもの姿ではないか。


イマードさんの答は、こうだった。

たしかに、あの言葉を聞いたときは、親として、強い衝撃を受けた。

だが、(これは映画の中にも出てくるが)あの子が生まれてはじめて喋った言葉は、「壁」(勿論イスラエルが作った)であり、「兵隊」だった。我々パレスチナ人は、そういう暴力に満ちた日常を生きている。

あなたたちの日常とは、まったく違うのだ(この言葉を、彼はトーク中何度も言ったと思う)。

そして、殺された人は、私にとってと同様、息子にとっても肉親同様の存在だった。その人を、目の前で理由もなく殺されたのだ。

息子があのように言ったのは、自然なことではないか?


そこには、父親としてのイマードさんの心の叫びが込められていると思ったのは、僕だけだろうか。

僕は彼の言葉を聞いて、そうだ、まったく自然なことだと、心の中で何度も言った。

自然でないのは、異常なのは、そして暴力と非人間性に満ちているのは、どこまでも、この人たちを取り巻いている、人々を暴力の増幅の中に閉じ込めるようとするこの世界の方(ガイ・ダビディさんは、この事を言いたかったのだと思うが)なのであり、そしてこの僕らの社会の方なのだ。



追記 : この映画の関西での上映は、11月以降になる予定のようです。

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