デュルケームの「罰」論

19世紀の末から20世紀の初めにかけて活躍したエミール・デュルケームは、フランスが生んだ、歴史上もっとも有名な社会学者の一人だろうが、その講義録『道徳教育論』(麻生誠/山村健訳  講談社学術文庫)のなかで、「学校における罰」、さらには「罰」一般について大変示唆に富む考察を行っている。簡単に整理しておきたい。


この主題についての一連の考察は、同書の第十一講から第十三講に書かれている。
まずデュルケームは、「罰」というものの機能上の本質は何かと考える。

罰は、外部から人間の外面に働きかけるものであるがゆえに、道徳生活の核心に触れることはまずないといってよい。(p274)

それゆえ、たしかに罰は、違反がもたらす悪を償いただす。だが明らかに、この贖罪をもたらすものは、罪人に加えられる苦痛ではない。大事なのは、子どもが苦しむことではなくして、その悪しき行為が精力的に排斥されることである。悪しき行為に加えられる非難こそは、唯一の矯正手段なのである。・・・そして、われわれがある人間を非難していることを示す方法は、ただひとつしかない。すなわち、われわれが高く評価している人間にたいするのとは異なって、もっと否定的な態度をもってその人間に臨むことである。・・・それ(厳しい罰)は違反に立ち向かって断固として主張すべき感情を具体的に表示するための手掛りなのである。(p283)

罰が持つ、人間に対する機能とは、その行為(違反)をなした人に対する非難の感情の表示、あるいは伝達(突きつけ)である、ということであろう。
誰か(例えば子ども)が「違反」を行ったとき、その行為を行った人に対して自分が抱く否定的な(非難の)感情を表示するためのこととして、「罰」というものは行われる。
逆に言えば、「抗議」とは(社会的な)「罰」なのだ。


さて、上の考察で明確にされた「罰」の一般的な機能に基づいて、デュルケームは、「学校における罰」とはいかなるものであるべきかを、語る。

自分は違反に同情したりはしない、違反はあくまでも違反として排斥し、決して許したりしないということを、教師ははっきりと示さねばならない。要するに教師は、生徒の違反の大きさに相応した厳しい態度をもって、これを非難せねばならないのである。これが、罰の主要な機能である。罰するとは、非難し排斥することなのである。
・・・・罰は、これに服する者が苦痛を感じなくとも、依然としてみずからの存在理由を保持しつづけるのである。罰するということは、他人の肉体や魂を苦しめることではない。それは、違反が否定した規則を、違反に抗して主張することなのである。(p294〜295)


つまり、「罰」とは元来、違反を行った者に苦痛を与えることではなくして、違反に抗して規則を主張することである。
「罰」のなかに暴力的な要素(他人の肉体や魂に苦痛を与える要素)が含まれていることは、正しいことではないと、デュルケームは考えているようである。

この人間尊重の理念からすれば、人格の上に加えられるいかなる暴力といえども、基本的には冒涜とみなされる。あらゆる種類の暴力や虐待の中には、われわれに嫌悪の念を覚えさせ、われわれの良心に逆らう何物かが、要するに反道徳的な何物かが存在するのである。(p305)


「罰」論としては、この一節に尽きているとも言えるであろう。
「罰」は、その道徳性の名において、元来暴力的であるべきではないのである。
そして、この観点からデュルケームは、学校における「罰」の暴力的な(したがって反道徳的な)行使のなかに、人間社会の、とりわけ近代社会の根本的な暴力の「法則」を見出していく。
とりわけスリリングな箇所である。

そして、じじつわれわれは、ある一つの一般法則の具体例を学校の場合に見てとることができる。この一般法則とはすなわち、等しく諸個人から成るにしても互いに異なった文化をもつふたつの民族なり、集団なりが継続的に接するとき、そこには常にある感情が生じ、この感情のために、文明が実際に進んでおり、じっさいあるいは進んでいるとみずから任じている集団の方が、相手の集団にたいして暴力を振るうというのがそれである。じっさいわれわれは、あらゆる種類の植民地や国々で、ヨーロッパ文明の代表者たちが未開の文明と衝突する場合にこの現象をよく見かける。暴力が何か有効だというわけではなく、まして、それに身を委ねる当人の上に必ずや大きな危険をもたらし、恐ろしい報復を招かずにはおかないのに、この暴力はほとんど不可避的に爆発する。相手の人種を、頭から劣等だと決めてかかる探険家をあの血腥い無謀行為がとらえるのもこのためである。自己の優越性を誇示しようとして、とかく彼は目的も理由もなしに、ただそれが面白いばかりに凶暴なまでにこれを降りまわすのだ。そこに生ずるのは紛れもない自己陶酔である。それは自我の極端な高揚であり、病的なまでに過度に及ぶ一種の誇大妄想であって、その本心を突き止めるのは造作もないことだ。(p319)

したがって、己を引き留めるものが何もないと感ずるとき、人間はあたかも誰も逆らうもののない独裁者にも似て飽くなき暴力をほしいままにする。この暴力は、彼にとってはしたい放題の遊びであり、気晴らしであって、みずから認ずる優越性を誇示するための単なる手段にすぎないのである。(p320)


「自我の極端な高揚」と「病的なまでに過度に及ぶ一種の誇大妄想」に陥った「独裁者」が振るう、「みずから認ずる優越性を誇示するための単なる手段」としての暴力、これこそわれわれの社会の反道徳性が示すもっとも醜悪な姿だと言うべきだろうが、学校における体罰の反道徳性とは、まさしく人間社会のこうした暴力性の一端に他ならない、ということである。
このような反道徳性を根絶しようと思えば、当然、こうした「独裁者」のような心性を持つ人間を、権力の座から引き下ろすことが必要条件となるだろう。
まあ、それは余談だが、ところでデュルケームはこの後、学校における暴力の歴史、教師による体罰のみならず、上級生による下級生への暴力といったものの歴史を概観して、次のように結論を下している。

それゆえ学校生活の条件自体の中に、暴力的訓練を助長する何物かが潜んでいるのである。そして、それを妨げる逆の力が介入しないかぎり、学校が発達し、組織化されるにつれて、明らかにこの原因はますます強力なものになっていくにちがいない。(p322)

道徳的輿論こそは、教師の過度の権威から子どもを守り、かつ、子どもの内部に少なくとも胚芽的なかたちで存在している道徳的性格を想起させ、これを大事に扱うように仕向けるにふさわしい唯一のものといわねばならない。未開人に接する文明人がとかく陥りがちな権力の乱用が阻止され始めたのも、良識ある輿論が遠く国外でなされていることに眼を離さず、これに正しい判断を下すことができるようになってからのことである。(p323)

このようにして、悪の源はじつは学校の組織自体だったのである。・・・・本来、学校という社会は君主制的なかたちをとるものであるため、ややもすれば専制主義に陥りやすい。この危険を免れるには、われわれは常に監視の眼を怠ってはならない。(p324)


学校という制度そのものが、暴力を助長する性格を持っている。
だから、社会全体の「道徳的輿論」によって、この傾向を監視し歯止めをかけて行かなければならない。
デュルケームは、そう結論するのである。
学校制度そのものの暴力的性格を明言したことは特筆すべきであると思うが、同時にこれは、現代日本の文脈では、「民意」を標榜する政治権力による、学校現場への介入を正当化するものにもなりかねない見解かも知れない。


しかし違う意味合いにおいて、このデュルケームの洞察を受けとることも出来るのではないかと思う。
それは、学校における暴力というものは、現代のような社会においてはとりわけ、社会全体の暴力性の反映であらざるをえない、ということである。
デュルケームが、植民地における帝国主義の暴力として描き出したような、近代社会のむき出しの「病的」暴力性は、いま日本社会全体を覆いつつある。それは、学校教育の場にもさまざまな形で襲いかかっているであろう。
朝鮮学校に対する差別や攻撃は、そのもっとも分りやすい一例だと考えるべきである。
貧困者への差別、ジェンダーフリーへの攻撃、日の丸や君が代の強制、露骨な競争主義・能力主義の強化、そのようなさまざまな暴力性の存在を抜きにして、学校における実際的な暴力(いじめや体罰)だけを捉えることには、限定的な意味しかない。
体罰という名の野放図な「違反」(反道徳性)に対する断固たる抗議(すなわち「罰」)は、こうした社会全体に蔓延する暴力性への、抵抗の一翼を担うものでなければならないのである。

道徳教育論 (講談社学術文庫)

道徳教育論 (講談社学術文庫)