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「ファシズムとは、現実のユートピア化である」(久野収)

2015-01-07

[]『圧殺の海』

藤本幸久・影山あさ子共同監督によるドキュメンタリー映画『圧殺の海』をようやく見た。

辺野古の基地建設反対闘争の現状を捉えた、たいへん重要な作品で、是非多くの人に見てもらいたいと思った。


私は、この映画の映像の何割かは、すでにDVDで見ていたのだが、こうして映画館で全体を見てみると、DVDには含まれていない貴重な部分も多く、比較にならないぐらいに強烈な印象を受けた。

強引に推し進められる基地建設の暴力性は、画面を正視できないほどで、上映中、何度もため息をついた。

そこで実感されるのは、もちろん海上保安庁(いわゆる海猿)や、施設局などの役人や、県警や、あるいは政治家たちによる、直接・間接の暴力の酷さということもあるが、それ以上に、その人たちをも含めた沖縄という土地の全体に圧し掛かっている、米日両国による基地と戦争の押し付けという構造的暴力の重苦しさだ。

この映画を見ると、沖縄が、もちろんずっとそうではあったのだが、いまやこれまでにないほどに、米日両国による占領を受け、戦争状態のさなかへ追いやられようとしているという印象をもたざるをえない。

スクリーンを見ながら、これほどまでに強固な阻止行動に人々を駆り立てている力は何だろうと、ずっと考えていた。私自身、地元の大阪で辺野古の基地建設に反対する運動に多少関わってはいるが、自分の日常を考えると、現地で反対を貫いている人たちの抜き差しならない生き方とは、何か根本的な違いがあると思わざるをえないからだ。この絶対的な差は、どこから来るのか?

それで一つ思ったのは、「怒り」という以上に、やはりあの沖縄戦の記憶が生きたものとして伝承されているということが大きいのではないか、ということだ。それは、沖縄にとって、戦争が一度も「過去」のものになることが無かったという、残酷さの証でもあるだろう。


この映画の中でも、もっとも印象深いシーンだが、晴れ渡った青空の下、静かな海面で、延々と繰り返される、海保による暴力的な取り締まり。

私は、最近の日本の映画で、これほどに生々しい映像を見たことがないと思ったほどなのだが、そこでの隊員たちの様子を見ていると、彼らが、すでに戦場に駆り立てられていく兵士たちと同じ精神状況に置かれつつあるのではないかと思わざるを得なかった。

この映画を撮った、藤本さん、影山さんたちは、かつて米海兵隊の新兵訓練の様子を捉えたドキュメンタリーを作ったことがあるのだが、その作品では、戦場で非人間的な暴力を行使しうるように若者たちを「訓練」していく、冷酷な人為的メカニズムが描かれていた。

それは、人が、自分の内面の人間的な部分を押し殺すことによって、無際限な暴力を「敵」に向って行使する存在へと変えられていくメカニズムだ。

人は誰でも、暴力を振るう場合に、躊躇したり相手のことを一瞬思いやったりする部分をもっているはずだが、軍隊の「訓練」では、過酷な命令への服従という体験を通して、そうした部分が抑圧されていく。しかもその時、自分の中の最も弱い繊細な部分を、自ら否定し「圧殺」したという事実が、憎悪と暴力を(指定された)相手に向けることへのリミッターを外してしまうのではないかと思う。

自分で自分を裏切ったという、取り返しのつかない思いを経験させられることによって、際限のない他者への憎悪と暴力の噴出へと、人為的に追い込まれてゆく人間たち。

藤本さんたちは、辺野古の海保隊員たちの姿に、あの「訓練」されていくアメリカの若者たちの姿を重ね合わせ、そこから『圧殺の海』というタイトルを考え付いたのではないだろうか?

それは、戦場の論理が、すでに沖縄を覆い、そのことによってヤマトの日常をも覆っているということを意味するだろう。幾重もの加害性を帯びた存在として、私たちはもはや、この現実から目を背けることは許されない。


大阪では十三のシアターセブンで、期間が延長されて、2月6日までの上映が決まりました。

http://www.theater-seven.com/2014/movie_assatsu.html

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