事件への思い・政権の意図

相模原の事件の報道に接した当初、僕は被害にあったのが町中からはずれた場所にある重度障害者の施設であると知って、障害者を地域社会から排除し、施設に閉じ込めようとしてきた戦後の日本の福祉政策や社会のあり方に結びつけて、今回の犯行を考えていた。
しかし、その後、今回被害にあったような重度の知的障害をもつ人たちにとって、そうした施設に入るということは、社会からの排除や隔離ではなく、むしろ親元に居たのでは接することのできない他人と関わりを持ち、社会の中で生きていくための方途なのだということを知った。
自分の無知を恥じるとともに、そのような障害者や家族の人たち、関係者の、生への意志と希望を踏みにじった今回の事件の悲惨さ、残酷さを、いっそう感じずにはおれない。
同時に、僕自身を含めて、障害を持つ人たちの現実に対する無知や無関心、偏見、そして、そのような人たちの存在に関わり、深く考えることを遠ざけておきたいという、私たちの社会全体の姿勢が、やはりこのような出来事の遠因になっているということは、あらためて確認しておくべきだろう。


前回にも少し書いたように、戦後の日本社会と国は、1996年まで続いた優生保護法の下での重大な人権侵害をはじめとして、障害者の生を否定するような姿勢を続け、それを基本的にはあらためようとしていないのであり、石原慎太郎をはじめとするような政治家たちの「妄言」も、現在のネット上の状況も、そうした根の上に生じてきたものなのである。
(それについては、この記事も参考にしてもらいたい。http://bit.ly/2aogL5G
そうした体質を反省し、あらためることを行わないままに、ネオリベラリズムによる社会福祉の削減や、排外主義の台頭、ファッショ的な政権の登場といった新しい事態が次々と生じた中で起きたのが、今回の事件だ。


本来なら、首相をはじめ政治家たちがまず行わねばならないのは、この事件の動機だと容疑者本人が言っている、差別の思想に無条件に反対するメッセージを、公的に発することだろう。
それを行わないことは、同様の犯罪の再発を容認、もしくは扇動することにもつながる。
だが、今の政権や、それに近い大手メディアや言論人などが、そうしたメッセージを発することはないだろうというのは、前回書いたとおりである。
おそらく政権側の意図としては、メディアを通じて容疑者の「主張」が広められることで、「合理的」かつ「合法的」な優生思想的政策(障害者の生の否定につながる社会保障費削減策)への世論の流れを作り、同時に社会全体に恐怖と暴力の雰囲気を広めることで、望み通りの統治を行いやすくする、というところだろう。
また、すでに首相が言明しているように、措置入院制度の見直しなど、人権侵害的な治安対策の強化につながる法制の改編も、これを好機として進められていくだろう。
結局のところ、今回の悲惨な出来事によって、安倍政権が不利益を被ることなど何もない。
しかも(あろうことか)、犯行の予告は、事前に政府中枢にきわめて近いところにもたらされていたのだ。
そこに、たんに事件を「奇貨として」事をなしたという以上のものを感じるのは、僕だけであろうか?