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「ファシズムとは、現実のユートピア化である」(久野収)

2018-12-08

[]『資本論』第三巻から

資本論 6 (岩波文庫 白 125-6)

資本論 6 (岩波文庫 白 125-6)


あいかわらず、資本論をぼつぼつ読んでいて、今は第三巻のはじめの方、向坂逸郎訳の岩波文庫版の、全九冊のなかの(六)の途中。

資本論の第二巻と第三巻は、マルクスの死後、エンゲルスが編集して出版したもので、特にこの第三巻は、ほとんどエンゲルスの著作だといわれるぐらい手が入ってるらしい。しかし、なかなかに面白い内容だ。

まあ、難しい本なので、書いてあることがよく分からなかったり、全然分からなかったりするところが多々あるのはいいとして、この(六)(つまり第三巻の初めの方)の前半を読んでいて、周りとの関係でどうしても腑に落ちない箇所があった。それは、ここのところだ。

それゆえにわれわれは、社会的平均資本よりも百分比的により多くの不変資本を含み、したがってより少ない可変資本を含む諸資本を、より高度な組成の資本と名づける。反対に、社会的平均資本におけるよりも、不変資本は相対的により小さい範囲を占め、可変資本はより大きい範囲を占める諸資本を、われわれは、より低度な組成の資本と名づける。(p256)

つまり、可変資本(まあ賃金)の比率が少ない方が「高度な組成の資本」で、不変資本(材料費とか設備費とか燃料費とか)の比率の少ない方が「低度な組成の資本」だと言う。

可変資本の比率が少ないということは、技術革新等で生産力が上がって、必要な労働者の量が減ってるから、そうなるのだ。

しかし、マルクスの理論だと、資本が利潤を生みだすのは、可変資本から、つまり労働者に対する搾取によってでしかないのだから、そこの比率が下がるということは、生産力を上げるほど、つまり資本の組成が「高度」になればなるほど、資本は儲からなくなるということではないか?

ざっと、こんな点がひっかかって、不思議に思った。


読み進めて分かったのだが、結論をいえば、その通りなのである。

生産力が上がると、それだけ利潤率が下がってしまい、資本は儲からなくなる。だが(この辺は正確な説明が出来ないので、大体ですが)、「率」としては減っても、利潤量は増大させねばならない。そこで、矛盾と共に、資本主義が果てしなく拡大していくことになる。

実は、そのことこそが、この後に語られるマルクス・エンゲルスの資本主義分析の要なのだ。

次の個所を読めば、それははっきりする。

資本主義的生産の真の制限は、資本そのものである。資本とその自己増殖とが、生産の出発点および終点として、動機および目的として、現われるということである。生産が資本のための生産にすぎないということ、そして、それとは反対に生産手段が生産者の社会のためのたえず拡大される生活過程形成の単なる手段であるのではない、ということである。したがって、生産者大衆の収奪と窮乏化とに基づく資本価値の維持と増殖とが、ただその内部でのみ運動しうる諸制限、この諸制限は、資本が自己目的のために充用せざるをえない、そして生産の無制限な増加を、自己目的としての生産を、労働の社会的生産諸力の無制限的発展を、目指す諸生産方法と、たえず矛盾することになる。手段 ― 社会的生産諸力の無条件的発展 ― が、既存資本の価値増殖という制限された目的と、たえず衝突することになる。それゆえ、資本主義的生産様式が、物質的生産力を発展させこれに対応する世界市場を作り出すための、一つの歴史的手段であるとすれば、それは同時に、かようなその歴史的任務と、これに対応する社会的生産諸関係とのあいだの、不断の矛盾なのである。(p394〜395)

つまり、資本主義という搾取的な仕組みは、「社会的生産諸力の無条件的発展」という「歴史的任務」と矛盾する。

このあたりはいかにも、エンゲルス的・弁証法的な表現だけど、要は、万人が十分に暮らしていくための富(財)の生産と分配という目的に、資本主義は結局そぐわない(阻害する)ということだろう。

この少し前のところには、資本家たちの直感的な「恐怖」に関して、こう直截に書かれている。

しかし、利潤率の低下にたいする彼らの恐怖で重要なことは、資本主義的生産様式が生産諸力の発展において、富の生産そのものとは何の関係もない一つの制限を見出す、という感じである。そして、この特有の制限は、資本主義的生産様式の被制限性と、単に歴史的な経過的な性格とを立証する。資本主義的生産様式が、富の生産のための絶対的な生産様式ではなく、むしろ、ある段階では富の生産のそれ以上の発展と衝突するに至ることを立証する。(p382)


こうなってくると、『資本論』で言われている、「生産力」や「富」、それに「欲望」といったことの内実が気になってくるところだが、さらに後のところでは、資本主義的「生産」の本質について、たとえば次のように分析されている。

人口中の労働能力ある部分を就業させるのに過多な生産手段が生産されるのではない。逆である。第一には、事実上労働能力のない、その事情により他人の労働の搾取に頼るか、またはただ惨めな生産様式の内部でのみ労働として通用しうるような労働に頼る部分、人口中のかような部分が過大に生産される。第二には、労働能力ある人口の全部がもっとも生産的な事情のもとで労働するには、したがって労働時間中に充用される不変資本の大量と有効性とによって彼らの絶対的労働時間が短縮されるには不十分に、生産手段が生産される。(p406〜407)

つまりは、資本主義とは、富を生み出すというよりは、利潤の増大のために、むしろ不足を、窮乏を生み出す仕組みなのだ、ということである。

すなわち利潤率の一定の高さが、生産の拡張または制限を決定するのであって、社会的欲望にたいする、社会的に発達した人間の欲望にたいする、生産の比率がこれを決定するのではないということ。(中略)この生産様式は、欲望の充足が休止を命ずる点においてではなく、利潤の生産と実現とがこれを命ずる点において、休止される。(p407〜408)

利潤率は、資本主義的生産における推進力である。そして、利潤を伴って生産されうるもののみが生産され、また、利潤を伴って生産されうるかぎりにおいてのみ生産が行われる。(p408)

『資本論』で言われている(少なくともマルクスの考えた)、「富」や「欲望」ということが、資本主義のなかで育ったわれわれの思うそれとは、かなり違っているらしいことが、うかがえるのではないかと思う。

そして、万人が十分に暮らせるための富の量を増大させる手段として、生産力の発展ということが、『資本論』では肯定されているということも、ここでは確認しておきたい。

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