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「ファシズムとは、現実のユートピア化である」(久野収)

2017-07-13

[][]『ヴィルヘルム・テル


岩波文庫の『花田清輝評論集』を読んでたら、花田がシラーの『ヴィルヘルム・テル』(1804年)を絶賛していた(「林檎に関する一考察」)ので、やはり岩波文庫の古い訳だが読んでみた。

たしかに深みのある、すごい戯曲だ。


この作品は、オーストリアのハプスブルグ家の圧政に対して立ち上がり、民衆国家の独立をかちとったスイスの人たちの群衆劇と、伝説上の人物といってよいテルという自由人的な個人の内面の葛藤とを、二重写しに描いてるような不思議な内容だ。

テルは、人望が厚く、周囲の民衆から「独立運動のリーダーは、彼しかない」と信頼されているほどの男であり、また彼の宿敵である悪代官(ほとんど独裁者と言ってもよい)ゲスラーも、そのようにテルを見て警戒している。

ところが本人は、独立とか革命といった集団的・組織的な動きには、どこか馴染まないところがあり、山中のある場所で行われた決起のための秘密集会にも、あえて参加を拒むほどだ。ただし、事が決まったら必ず一緒に戦うから、是非教えてくれと念を押すのである。

だがここで、テルは自由を愛する個人主義者なのか、集団のために身を捧げるタイプの人間なのかと区分けしてしまうと、この劇の本質を見失うような気がする。

最後まで読んでいくと分かるのだが、テルの行動は、個人の情念や欲望にもとづくもの(復讐のような)とも、また独立や革命のような集団的な、大文字の「政治」の論理や理念とも、いずれとも異なった特異な動機によるものとして描かれている。

それがどういうものか言い表すのは難しいが、テルの気質、同時にシラーの思想をよくあらわしてると思うのは、息子ヴァルターとの次のようなやりとりだ。

(なお、岩波文庫の原文では、詩劇であるシラーの原作に合わせて台詞を細かく行分けしてあるのだが、それだとあまりに長くなるので、ここでは全てベタで書き写すことにした。ご了承されたい。)

ヴァルター  (一寸思案して)父ちゃん、どっか山のない国ってあるかい。

テル この山手の高地から下の方へ下りて、川についてくだって行くと、広い、平らな国へ出るんだよ。そこはもうざわざわ泡だつ谷川なんかなくって、大きな川がゆったりと落ちついて流れているよ。何しろ東西南北、眼をさえぎる山はなし、国を見れば、まるで花園のようだよ。

ヴァルター そうかい、父ちゃん、それじゃ僕たちなぜ早く、その立派な国へ下りて行かないのかい。こういうところで心配や、苦労なんかしているより。

テル 土地は立派で豊かで天国のようだが、しかし、そこを耕やす人たちはな、作った穀物を食べるわけに行かないんだよ。

ヴァルター その人たちは、父ちゃんのように自分の土地に住めないのかい。

テル 畑は僧正や王様のものになっているのよ。

ヴァルター でも、猟は森で自由にやれるだろう。

テル 鳥でも獣でもみんなお上のものさ。

ヴァルター でも、魚は自由にとってもいいだろうね。

テル 川でも海でも、塩までも王様のものだ。

ヴァルター それじゃ、みんながこわがる王様ってどんな人かしら。

テル みんなをまもって養ってござる御一人だ。

ヴァルター みんな元気でお互に護(まも)り合うことは出来ないのかい。

テル そこでは隣のひと同志信用が出来ないのだよ。

つまり、同志との信頼や連帯こそが、権力(王様)から「自由」を守る唯一の拠り所だ、ということだろう(自由な民衆の国スイスは、そのようにして成立したというのが、一つの神話だろう)。

しかし、同時に、そうした連帯に価値があるのは、それが「自由」という危険と苦悩に満ちた大切なものを保障するからこそであって、その「目的」が忘れられれば、連帯は単なる権力に変質してしまう。

では、個人とも集団ともずれている、その「自由」とはいったいどういうものか。

シラーが、この戯曲で描こうとしたのは、そのへんのことではないかと思う。


さて、『ヴィルヘルム・テル』といえば誰でも、息子の頭に乗せたリンゴを、テルが弓矢で射落とす、あの挿話を思い浮かべるだろう。

だが、実はこの劇には、ここ以外にもう一つ、テルが矢を射る場面が出てくる。それは、テルに息子の頭の上のリンゴを射ることを命じたゲスラーを、後になってテルが射殺す場面である。

そして、息子の頭の上のリンゴを射落としてみろとゲスラーに命じられてテルが懊悩する場面でも、そのゲスラーを暗殺する場面でも、テルの内面の葛藤を描くシラーの筆は迫真性に満ちている。テルが息子の頭の上のリンゴを射落とすあの場面は、決してテルが余裕綽々に悪代官の鼻を明かしたなどということではなく、息子を射殺すかもしれない恐ろしい選択をすることを、悪辣な権力によって強いられた、弱い者のぎりぎりの苦悩を描いたものなのだ。

強いられたこととはいえ、そして、結果的にはそれをどうにか(幸運にも)切り抜けたとはいえ、この恐ろしい経験をしたことで、テルの内面はすっかり変わってしまう。

ゲスラーを殺すことを心に決めたテルは、こう独白する。

おれはおだやかに悪事もせずに生きて来た。弓矢を射向けたのはただ森の中の獣だけで、人を殺すなどという考は夢にももたなかったのだ。手前というやつが、おれを平和の中からおい出して、おれのやさしい人情の乳を、煮えたぎる大蛇の毒にかえてしまったのだ。滅相なことをするように、手前がおれをならしたのだ。わが子の頭を的にしたような人間なればこそ、かたきの心臓に射あてることが出来るんだ。(p165〜166)

ところが、かわいい坊やたち、今という今も、お前たちのことばかり考えている。―お前たちの体を護り、お前たちの優しい無垢な心を、暴君の復讐から防いでやるために、いよいよ、人殺しとなって弓を引きしぼろうというのだ。(p169)


ところで、この戯曲でもう一つ印象的なのは、シラーの描く女性像である。

それは一口に言って、権力者や、強者・抑圧者である男たち(テルをも含む)が共通してもっている観念性、たとえば大文字の政治とか、暴力性とか、投機的な欲望などに共通する観念的な思考を鋭く告発する、被抑圧者、民衆的なものの代表としての女性たちの姿だ。

まず、テルの妻のヘートヴィヒである。リンゴを射落として息子の命を失わずにすんだテルだったが、彼を恐れるゲスラーによって捕われの身となり、息子のヴァルターだけが村人たちの元に帰ってくる。知らせを聞いてそこにやってきたヘートヴィヒだが、もともと冒険心や義侠心の強さゆえに危険をかえりみないテルの性格に漠然とした不安と不満を抱いていた彼女は、自分の忠告を聞かずに行動したうえ、強いられてのこととはいえ我が子に向かって矢を射るという行為をしたテルを許すことができず、不在の夫への怒りをぶちまける。

さらにその怒りは、おそるおそるテルを弁護しようとした別の男にも向けられる。彼は以前に、テルの献身的行動によって追っ手から命を救われたことのある男である。

(ヘートヴィヒ) お前さんたちは友だちの難儀に涙を流すだけなの。あの感心な人が縄を打たれた時、あなたがたはまあどこにいたんです。どこをどう助けたんです。そんなむごたらしいことを見ていて、するがままにしておいたんでしょう。みすみす自分たちの中から友だちがめしとられて行くのに、よくも辛抱していたもんですね。あのテルもあなたがたにそうして上げましたか。お前さんのあとから代官の家来どもが追っかけて来て、お前さんの行手には荒れくるうた湖水がたけりほえていたとき、あの人は気のどくがって突っ立ていただけですか。あれはそら涙をこぼして泣きごとなどをいわず、女房や子供のことを忘れて舟へ飛び込んで、お前さんを助けて上げたんでしょう。(p151〜152)

責められている側が気の毒になるほどの言われようだが、たしかに物事の実相を的確に言い当てている。この告発の射程は、「個」を道具や犠牲にすることで生き延びていく組織的な政治の論理(メカニズム)にまで届いているのだ。「男同士」では、こういう真実が語られることは珍しいのであり、彼女の怒りは、その共犯性に向けられているのだとも言える。

ヘートヴィヒばかりではない。ゲスラーがテルの放った矢で絶命する直前の場面で、馬に乗ったゲスラーの前に躍り出て、この悪代官の暴政によって苦難に陥っている夫を救ってくれと捨て身の直談判をするアルムガルトという農婦の迫力も凄まじい。

花田清輝は、冒頭でふれたエッセイのなかで、シラーはこの独裁者的な悪代官を『外部の世界に眼をそそいでいるようにみえるにせよ、実は内部の世界から一歩も出ようとしない、小心翼々たる超現実主義者として描きだし』ていると称賛しているが、まったく独裁的な政治家というものは昔も今もそういうものだろうが、その小心翼々たる悪代官ゲスラーの前に、アルムガルトは民衆の怒りや嘆きという「現実」を強烈に突きつけるのだ。

普段は、お付きの家来たちに囲まれることでその「現実」を見ずにすませているゲスラーだが、この時はある事情から家来たちが居らず、彼は自らそれと直面せざるをえなくなる。そこで示される動揺の様子に、すでに独裁者の死(失墜)が予告されているのである。

 そして、それに続くゲスラーの末期の台詞もなかなか振るっている。

ゲスラー あちらへやれ。無礼なやつを目の前から追い払え。

 アルムガルト (馬の手綱をつかむ)いえ、いえ、なくそうにも、もう何ものもございません。もうしお代官様、正しい御処置のあるまでは、この場はちょっとも動かし申しません。額にしわをおよせになろうが、眼をおむきになろうが、御勝手です。私どもはもう底しらずの不仕合せですから、ご立腹ぐらいは何ともございません。―

 

 ゲスラー これ、女。どけ。さもなくば馬に踏ませて通るぞ。

 

 アルムガルト さあ、馬に踏ませてお通り下さい、さあ。―

(彼女は子供を大地に引きたおして自分も一所に道へ身を投げる。)

 私はここに子供と一所にねています。―このあわれな孤児たちを馬の蹄で踏み殺すがいい、お前さんはもっとむごいことをしていなさる。

 ルードルフ これ、女、お前は気が狂うたか。

 

 アルムガルト (更に激しく言葉をつづける)本当にお前さんは、とうに皇帝の国を自分の足で踏みつけなすった。―おお、私はただの女です、もし男であったらこんなほこりの中にねころぶよりは、もっと気のきいたことをするだろうに。―

    (先の音楽が道の高みからきこえて来る。しかし陰にこもった音色だ。)

 ゲスラー 家来どもはどこにいるのだ。この女をここから引きずって行け。でないと、わしはわれを忘れて、悔いるようなことをしかねない。

 ルードルフ 家来どもは通りぬけることが出来ません、代官様。そば道は婚礼の行列でふさがっているので。

 ゲスラー わしはこの国の人民に対して、まだ甘すぎる支配者だ。―やつらの舌はまだ自由に動き、万事まだあるべきようになっていない。だが誓ってこのままにしておいてはならぬ。わしは、あいつを、あの剛情な心をたたきこわすのだ。あの厚かましいわがままな精神をまげてやるのだ。国じゅうすっかり新規な法律を布いてやるのだ。―わしは又―

   (矢が飛んで来て彼を貫通する。彼は手を胸にあて、たおれ落ちようとする。弱い声で)

 やっ、しまった。

                          (p176〜178)

付け加えると、ゲスラーの腹心の部下であるルードルフは、この親分の死の後、猛狂う民衆の様子を目にして、『これほどまでになっていたのか。恐怖も恭順もこんなに早くなくなるのか。』(p181)という絶句を残して、ほうほうのていで逃げうせる。

この極度の混乱状況が、歴史的にはスイスの独立へとつながるわけだが、そういう大文字のドラマに対して、常に一定の距離を置く(しかない)一人の男として、シラーはヴィルヘルム・テルを描こうとしたのだと思えるのである。

2017-07-09

[][]『講座 現代反体制運動史』

ここ二年ほどかけて、韓国の運動家の友人などと一緒に行ってきた『講座 現代反体制運動史』(青木書店)の私的な読書会が、今日、ようやく終わった。


運動史に詳しい方ならご存じだろうが、3巻組のこの本は、明治維新から60年安保までの日本の社会運動の歴史を振り返ったもので、出版されたのは、60年安保闘争終結直後である。

その最後の「総括」の章は、「歴史変革の遺産と課題」と題され、60年安保闘争を、戦後のみならず、明治維新以降の日本の「人民闘争」のすべての遺産と成果の集約点と捉え、とくにインテリや組織労働者だけでなく、広く一般大衆までが大規模な行動に立ち上がった動きとして肯定的に高く評価しているのだが、同時に、その限界を次のように指摘している。

戦後一〇有余年の運動の全エネルギーをこの一点にぎょう集したかのように、数百万大衆が明確な意識と目的をもって立ちあがりながら、その闘争が結局「政府の危機」をもたらしただけで政治的危機・革命的危機・「体制の危機」にまで発展し転化させていくことができなかったのは、なぜであろうか。(p320)

その理由の一つとして、『運動の歴史的性格が「民主主義の擁護」と「議会主義の回復」という一定の限界内のものであった』ことがあげられ、こうした「体制内」的性格の運動が真に反体制的な運動へと転換していくためには、経済状況の悪化などの危機的な状況が要請されるのに、当時は好況が続いていたということが指摘される。

これは、その後の日本社会において、高度成長とともに、社会運動の性格が体制批判的なものにつながる可能性を(マクロ的に見る限りは)急速に失っていったことと考え合わせると、うなづける分析だと思った。

また、一方で、60年安保の目立った特徴として、社会党・総評・共産党などの指導勢力が、急速に膨張した大衆の動きに対応できず、すっかり埋没してしまい、しばしば実力行使的な運動に対して抑圧的な態度をとるばかりだったこと(それはこの時期に始まったものでもないが)が、大きな問題点として指摘され、次のように書かれている。

ふるい政治的指導の方式も統一戦線の公式的原理も、今日のあたらしい大衆主体の現実のまえには、もはや役にたたない。(p321)

そして、たとえば、「ちがった多様な行動を統一する問題」が、「行動の画一性の要求」ととりちがられてしまうところに、硬直した指導勢力の欠陥を指摘しているところなどは、今の視点から見ても、なかなか先見の明にとんでいたのではないかと思う。


そして、最後のところで下のように書かれているのは、そもそも「国民運動」という枠組みがどうなのかとか、「先進分子」が大衆を「指導」するという発想の問題性とか、異論は多々あるけれども、それは別にして、大枠としては今にも通じる、まっとうな考えが述べられていると思う。

平和運動から新安保体制撤廃闘争にいたるすべての国民運動が、歴史的には「体制内」的運動のそれにとどまるのである。かくて労働者階級を先頭とする先進分子にとっては、これらの国民的諸運動のなかで、いかに体制変革の意思を結集し、組織化し、これを運動にまでたかめていくかという根本任務が課せられている。(P323)

反体制こそ、運動だ。

2016-12-04

[][][]『叫びの都市』


私たちはすでに、釜ヶ崎的状況を生きている。そうであるなら、釜ヶ崎の記憶を喪失することは、現在に対する視座を獲得するための手がかりを手放してしまうことに等しい。(p30)


このように述べる著者は、広く知られることのなかった釜ヶ崎の町と労働者・住人たちの歴史、そして生存のための運動と抵抗の歴史と記憶を、膨大な聞き取り調査と文献の検証をとおして辿って行く。

この想起と伝播自体に、この本の最大の意義がある。

たとえば、僕はこの本によって、往年の「寄せ場」の活動家たち、船本洲治や山岡強一(よく知られているように、この二人は共に非業の死を遂げた)の文章にはじめて触れたと言っていいが、その先見性は驚くべきものだと思った。

しかし、運動と闘争の主役は、なんといっても(船本が「流動的下層労働者」と定義した)労働者たち自身だったろう。その力に脅かされ、励まされることによって、活動家や思想家たちは、自分たちの仕事を遂行することが出来たのだと思う。

さて、著者が提示している釜ヶ崎寄せ場の運動史のポイントは、1961年から2008年まで20回以上にわたって繰り返されてきた「暴動」を、その不可欠の、というより、ある意味でその本質をなす部分として位置づけているところにあるだろう。

その視点は、暴動を抑圧のやむにやまれぬ結果としてではなく、労働者大衆の生命力の発露、「人間回復の行動」として肯定した竹中労の考え方(p300)に、最終的には重なるものではないかと思う。いわば、虐げられた者たちの祝祭としての暴動だ。

僕は、この大正的とも思える(大正デモクラシーとは真逆に見えるが)暴動観に、手放しの共感を覚えることはできない。それは、やはり戦前に繰り返された日本の大衆の暴動が、関東大震災の朝鮮人虐殺のような出来事にも結び付いたのは、偶然だとか権力の扇動・操作によるものだと言ってすませることのできない事実だと思うからだ。

しかし、一方ではこうした暴力の行使を「不法」だとか「危険」だといって抑え込む(統制する)力の方こそ、人間の自由ばかりか生存さえ否定するような、より巨大な暴力(権力)に関わるものなのかもしれない。


実は、先日、釜ヶ崎の某所であったこの本の出版記念イベントに行ったのだが、そのとき面白い光景があった。

著者の原口氏やゲストの酒井隆史さんの語る「暴動」についての言葉、そして会場で上映された08年の釜ヶ崎の暴動の様子を記録した映像を見聞きしながら、たまたま最前列の席に座っていた高齢の女性(近傍の方だろうか?)が、「暴動なんか、あかん」「この子ら(映像の中で機動隊とやりあっている若者たち)を捕まえなあかん」というような独り言を繰り返していたのだ。

このノイズは、僕にはたいへん面白くて、こういう場所でイベントをやる面白さは、こういうことにもあると感じたのだが、この女性の独り言は、暴動を賛美する言説に対する批判であると同時に、社会総体が持っている自他への抑圧の実在ぶりを、僕ら自身にはっきりと思い出させてくれるものでもあったと思う。

「暴動」による解放とは、たんなる暴力による鬱憤の解消といったことではなく、このような内面化されたさまざまな抑圧や差別や支配からの脱却を目指すものと考えられるべきだろう。

そして、その支配のあり方の一つは、やはりジェンダーに関わるものであることも確かと思われる。「暴動なんか、あかん」というあの女性のつぶやきが、それを語っているだろう。


本書の前半でとくに指摘されているのは、「じゃりん子チエ」に象徴されるように家族の住む町だった釜ヶ崎が、「単身日雇労働者」の町になっていったのは、大阪万博の準備のために行政当局が実施した60年代後半以降の政策の結果だったということだ。つまり、釜ヶ崎が独身の男たちが人口の大多数を占める町になったことは、都合のよい労働力の確保(と切り捨て)を目論む政治的意図の産物に他ならないということだが、僕には、そこには運動と闘争の分断や弱体化の狙いも含まれていたのではないかと思えるのだ。

先に大正期の運動のことについて触れたが、この時期から昭和初めにかけての運動の大きな特徴は、「女の暴動」ともいうべき米騒動や、紡績女工たちの争議、また有名無名のさまざまな女性活動家の活躍など、性別役割を越えた運動の高揚と共闘ということがあった。これは、戦後においても、炭鉱労働者の闘争などに受け継がれたものである。

その意義は、女性や子どもを含めた多様な人々の生活の場を拠点とした運動の展開ということであり、闘争と生活との接続ということがあったのではないかと思う。同時に、それは多様な人々への配慮や緊張関係を闘争のなかに持ち込むことによって、それ(闘争・運動・生存)を繊細なものにし、深め、鋭くするという効果があったのではないかと思える。

暴動の町でもある釜ヶ崎が、「単身日雇労働者」の町として制度的に作り上げられたことには、こうした運動の広がりや持続性、深まりの可能性といったものを、あらかじめ封じておくという権力の意図が込められていたのではないか。

その場合、暴動という形で表れた人々の生の力は、たしかに集団的ではあるけれども、広がりや接続の可能性に乏しい、いわば単数的なものにとどまるのではないか?


僕が、こんな風に思ってしまうのは、自分の若いころからの「単身フリーター」的な人生(これは本書のいう「釜ヶ崎的状況」と無縁なものではないはずだ)を省みてのことだ。そこでは、何よりも、他者との共同・連帯の可能性が、あらかじめ奪われていたように思う。女性に対する意識にしても、家父長的な支配の論理や攻撃(ミソジニー)という要素を多分に含んでいて、対等な関係や連帯の相手として見ることが、極端に少なかったと思えるのである。

僕が経験してきた、このような内面性も、いわば人々を分断し、社会をアトム化していく、政治的意図(ないしは無意識的な社会構造)の産物としてあったのではなかろうか?

そういう目線で見るとき、僕の中には著者の、釜ヶ崎の「暴動」に対する積極的な眼差しに対する疑問が生じてくるのである。


そうした意味で、とくに興味深かったのは、横浜・寿町の運動史を記述したくだりである。

釜ヶ崎や山谷とは違って、この町では家族世帯の地域からの分離政策が行われず、60年代終わりから70年代初め頃まで、「生活館」というスペースを拠点として、独自の新聞や子ども会などを含む自治的な「住民運動」が隆盛したらしい。

だが、やがて、折からの不況と、政府・行政による自治活動を阻むかのような政策推進によって、そうした自治管理文化は潰され、ここでも家族世帯の他地域への移住が進められることになり、住民自治の運動に代わって流動的な単身日雇労働者たちによる「占拠運動」がメインになっていく。

著者は、住民自治運動の展開を高く評価しながらも、一方で、それが潰された後に出てきた単身労働者たちの戦闘的な占拠運動を、「自己を組織化」するものとして高く評価する。実際、この流れは、釜ヶ崎などと同様に「越冬闘争」に代表されるような生存のための闘いとしての実質を獲得していくのだが、問題はここで、従来の住民自治の運動と、流動的労働者たちの運動とが、ときに敵対的な相貌を見せ、必ずしもうまく接続していたと思えない(著者は「交差した」という表現を使っているが)ことである。

それについて著者は、「自治と流動のはざま」という言葉で捉え、『流動性の高い寄せ場において自治を成し遂げることの原理的な困難』(p316)を指摘したうえで、しかし、この流動性こそが、新たな政治的闘争の地平を開いたのだという点を強調するわけである。

だが、果たして流動的労働者たちの運動と闘争は、それまであった住民運動から十分な遺産を継承したといえるのだろうか?不況と政策的な分断によって、基本的な条件(安定的な共同生活)が損なわれ変更されたことはやむを得ないとして、その新たな局面で新たな「組織化」を行うにあたって、住民運動から学び受け継ぐべきものが、もっとあったのではないだろうか?

それはつまり、さまざまな他者と共に生活し、共に闘うために必要な精神性のようなものだ。人々からそれを奪い去ったことが、支配権力のもっとも巧妙な策略だったのではないか。

これは、暴動や流動性を運動のなかでどのように評価するかという、本書の核心的な論点に関わる問題だと思う。

著者は、次のように書いている。

流動する労働者の群れを、だれも統御することはできなかった。労働者の流動性は、つねに過剰であった。そもそも暴動とは社会運動にとって、それとしか言いようのない過剰ではないか。(p329)

僕が気になるのは、著者が「労働者の流動性」と書く場合、その主語は、「労働者」なのか「流動性」なのか、ということである。

僕にはどうも、後者であるように思える。労働者の生存は、流動性という目に見えないものを実現していくための手段のようなものと捉えられてしまう危険が、ここにはないだろうか?つまり、それは、ある種の形而上学になっていないか?

本書の318ページには、寿町の運動の独自性を象徴するものとして、「日雇労働組合」ではなく「日雇労働者組合」と名称に「者」を付したところに、「生きている総体として一人一人の人間を大事に」するという姿勢が示されているのだという、関係者の言葉が引かれているのだが、われわれの生存の闘いは常に、そういう姿勢を忘れてはいけないと思う。

2016-11-18

[][]『明治大正史 世相篇』

明治大正史 世相篇 新装版 (講談社学術文庫)

明治大正史 世相篇 新装版 (講談社学術文庫)


この本のなかで、柳田国男は、たとえばこんなことを書いている。


昔(近代以前)から、日本の家屋には二通りの種類があった。ひとつは、常時住んで暮らすためにきちんと作られた家だが、特徴的なのは、それと併存して持たれることになった、もう一種類の方である。

それは、仮屋とか、作業用の小屋のようなもので、季節とか必要な時期だけ作られ、その時期が過ぎるとさっさと解体されてしまう。もしくは、別の場所に移動することになる。これは、平民の暮らしだけではなく、天皇の宮殿や神社の建造物(式年遷宮)にも、共通して見られる形式だという。

要するに、必要に応じて臨時に建てるが、その時期が終われば壊してしまったり、よそに移動するようなものとして家屋住居を考えるということが、日本の土地では古くから普通であった。

こうした家屋(住居)に対する考え方は、防火に重きをおかず、家は焼けてなくなるのが当たり前だというような、やや投げやり、ないしは荒っぽい思想にも通じているようだが(p132)、面白いのは、柳田がこれを、労働とか、労働力の移動、つまりは都市の形成といった事柄につなげて考えていることである。

それは、今日風に言うなら、小屋、テント、バラック、ドヤの系譜、とでも呼べるだろう。

小屋は要するに働く人々を、一時集めておく宿舎のことであってコというのはたぶん小さいという意味でなく、単に若者たちともいうべき語であったろうと思う。農業漁業の大きな作業団にも、かつては鉱山山林と同じく小屋があって、それを常設に集合させたのが長屋であった。大小の都市の新たに興ったものには、ことにその長屋を作るべき必要が多かった。それを小泉八雲氏などは、眼を丸くして驚き見たのであった。(p104)

町にももとより大屋というものはあって、相応の地面を請けて永住しており、これには武家と違ってできるだけ表間口を狭く、なるべく多くの軒を一町に列ねさせようとしたのだが、新たに興る町の労働はそれだけではとうてい足りなかった。それで地内にたくさんの割長屋を設けて、それぞれ自分の監督する働き人をこれに入れておいたのであった。地主が追い追いに自由な職業になって、この長屋の者を引率しなくなり、人入れ寄り親の業は別人の手に属し、親方自身も小さいのは長屋におり、隣へ見ず知らずの者が集まって来るようになったが、なお表向きだけは店子の身分を、大屋が管轄することになっていたのは、明らかに以前の小屋生活の名残りであった。(p106)

このことを、別の側面から見ると、親方制度の存在が浮かび上がる。

かつて、農村から都市に人々が働きに行くとき、各村には親方と呼ばれる世話役が居て、その人に統率されて労働に出向くことで、農民たちは収入の安定を得ていた。それが、明治以後の時代になると、こうした労働力の移動のための自立的組織のようなものが解体されてしまい、そして、それに代わるような仕組みが作られない、という危機に陥ったのである。

親方制度はすなわち現在の自主的組合の、代わりを勤めたその組織であった。(中略)

寄り親が町に住むようになって、人入れ家業が起こり、村からそれを頼って行く者ばかりではなく、知らぬ者までもたやすくその恩恵に浴することができるようになった。すなわち家につながれていた多くの出稼ぎ労働者は、この親方制度によってしだいに独立して、適宜に配賦せられていたのであった。寄り親のない出稼ぎはたとえば朝鮮人の土方や作男、中国人やロシア人の行商者のごとく心細い不安なものである。親方制のない今日、それに代わる有力な何物かができないならば、異郷の人のみではなく、われわれはその不安を喞(かこ)たねばならぬのである。(p336〜337)

要するに、この本で柳田が書いている重要なことは、近代以前には、人々の必要に応じた自由な移動と生活を保障するための自立的な組織が、民衆の間に存在していたのだが、近代化の過程においては、それがうまく継承されなかった、ということである。

近代化は、人々から、そういう自立的で共同的な生存のための力、つまり自治の能力を奪う過程でもあった(それは、そうしなければ、権力者たちが思い浮かべたような「近代化」が不可能だったからではなかろうか?)。

この過程は、とくに農村においては、資本の論理による生産物の画一化(文化の画一化にも通じる)と大量生産・過当競争という形でも、あるいは国家による統制的な保護政策という形でも進行した。

下の文章からは、柳田がもっとも重視していた民衆の生のあり方がどういうものだったか、うかがえると思う。

全体に産物の種目が数多く、従うて選択が人々の自由であったころが農業は盛りであった。折々真似をして馬鹿げた損をする者はあっても、珍しいと言われているうちの品物なり生産方法なりには、苦心は大きい代わりに人をうらやませるだけの余得があった。発明工夫は農家には無益のもののごとく考え、ひたすら模倣をもって平凡なる安全率を保障しようということになって、たちまちにして作り過ぎの現象を生じた。(中略)

 最近ようやくのことで生産統制の必要を認めるようにはなったが、府県が互いに傷つけつつ販路の争奪をしていたのは、かなり久しい前からのことであった。その原因は総計の数字を重んじ過ぎたことが一つ、いま一つは補助や補償の不自然な手段に誘惑せられて、各自の危険をもって経験を積み、計画を進めようとせぬ者が多くなったことである。個人は生産が過剰であるか否かを、ぶつかって見なければ知りようがない。しかも国が職業を純化しようという傾向は、一段とこの不意の競争に遭うて、打撃を受けやすいような農家を作り上げていたのである。(p314〜315)

柳田は、自由や自立ということを強調するが、それらは、共同性によってはじめて保障されるものでもある。国家も資本も、それを保障することはない。(帝国官僚だった柳田は、もちろんそうは書かないが)むしろ、基本的には、敵対的でさえあるだろう。

たとえば、明治政府によって作りあげられた組合制度が、かつての農村が有していた組合の自立性とは真逆のものだということを、柳田は次のように指摘する。

以前の協同の実際の利益を記憶している者は、かえって新制のただ旧きものを何の詮議もなく捨て去るのに不服であったが、統括時代の単一方針は、むしろ目ぼしい地方の有力者に新事業を与えることに汲々としたため、特徴ある各種の組合の発展は阻止され、一方無数の新設組合への参加を強要される人々は、ますます従来の自治心を喪失して行ったのであった。(p383)



この本の最後の方で、柳田は次のように書いている。

日本で毎年の自殺者は一万数千、このごろ東京だけでも一日に五人ずつ死んで行く。(中略)しいて妻子のその意思もないものを同伴として、家をなくしてしまおうという考えの中には、説くにも忍びざる孤立感が働いていたのである。生活の興味はこの人たちにはもう切れていた。仮に引き留められてしばらく生きたとしても、その力を集めて世の中は改良しえなかった。やはり最初にはその不幸がこの世にあまねきものの一端であって、一つの新しい知識と方法とが、総括してこれを救いうるということを、覚らしめるのほかはなかったのである。(p379)

人を絶望へと追いやるものは、社会からの孤立である。社会とは、過去から未来へとつながる集団性のなかで自分の生を捉える姿勢のことだろう。だが、そうした展望は、おそらく、民衆自身によってしか作りだされえないのだ。

民衆は、国家やナショナリズムからも、また資本が提供するような「自由」や「コミュニティ」の概念からも脱却しなければ、ほんとうの共同性に到達することは出来ないだろう。

自立的な組織の重要性に着目した柳田国男の考えは、ファシズムの到来に際して、国家や資本による「中間組織」の解体に警鐘をならしたヴェーユ(『根をもつこと』)や、フロム(『自由からの逃走』)の思想に近いものだといえよう。その洞察力は、卓越している。

だが、そのような組織と社会とが、柳田のナショナリスト的側面には反して、あくまで開かれた性格のものだということを、われわれは忘れてはならない。

本書は、次のように結ばれている。

改革は期して待つべきである。一番大きな誤解は人間の痴愚軽慮、それに原因をもつ闘諍と窮苦とが、個々の偶然であって防止のできぬもののごとく、考えられていることではないかと思う。それは前代以来のまだ立証せられざる当て推量であった。われわれの考えてみた幾つかの世相は、人を不幸にする原因の社会にあることを教えた。すなわちわれわれは公民として病みかつ貧しいのであった。(p435〜436)

2015-10-18

[][]酒井隆史さんのレクチャーを聞いて

以下、フェイスブックとmixiに書いた内容を、少し書き直して載せます。

酒井隆史さんのお話(レクチャー)を聞いたメモのようなものですが、僕の主観が相当入っており、また不正確な部分も多々あり、酒井さんがこの通りのことを言われたということでは、必ずしもありません。

それだけご了解ください。


大阪大学中之島センターというところで、社会学者の酒井隆史さんが都市とアートみたいなテーマで話をされると聞いたので、仕事帰りにちょっと寄ってきました。

これは近く大阪で行なわれる若い人たちのアートプロジェクトに関連した企画でした。

http://koefes.org/


酒井さんは、ご自分はアートが専門ではないのでという風に前置きして、2004年頃にあった天王寺公園の青空カラオケ村の撤去の前後の様子を数か月にわたって撮影した(この時、原口剛さんたちとチームを組んで記録に取り組んだとのこと)ビデオ作品の上映から、話を始めた。

その時の体験から分かったのは、そこには集まって生活する人たちの重層的な歴史と記憶があったのに、それを抹消するようにして、行政と資本の論理による撤去が行われたということ。

そこから、最近の傾向である、多様性を理由にした排除(ジェントリフィケーション)の傾向に触れ、そういう逆説的な事態が起きてしまうのは、その時言われる「多様性」とか「共生」といったものには、重層性や歴史性の裏付けが欠けているからではないか、ということを言われました。

戦前の大阪では、公園は貧しい庶民のための公的な空間という考え方があったが、それは元来、「公園」という近代的な装置についての世界共通の認識だった。それが、特に日本では1980年代以後、イベントスペースとしての公園、記憶の重層(歴史)性を喪失した、のっぺらぼうな市民(消費者)のための空間に変質していった。

民営化されつつある今の公園は、その究極の姿。


「時間」「記憶」「歴史」こそが、いま重要である。

末期的な段階に立ち至った今の資本主義は、それらを切断し、人生の時間を切り刻むこと(断片化)によってしか存続できない。

労働の断片化(非正規労働)も、その一例だろう。全てを根こそぎにして、更新、更新で突き進んでいく今の社会と資本主義。

本来のアートの役割は、こうした社会の趨勢に抗して、人々の「持続」の感覚を養っていくことにあるのではないか。そういう酒井さんのお話でした。


これは資本主義一般の傾向だともいえるが、日本では特に「持続感覚の喪失」が著しい。

たとえば、海外に行くと、マイノリティが住む町の壁画に描かれているのは「闘争の歴史」。支配的な歴史を切断することで維持されてきた、その(民衆的な)「持続」の記憶によってコミュニティの力が維持されている。

日本の社会には、そういうものが欠けている。

そこではアートは、その本来の役割とは逆に、(支配者による)切断や、(民衆的記憶の)忘却のための道具と化してしまっているのではないか?(その例として、釜ヶ崎を「灰色の街」と捉えたうえで、それをアートによってカラフルに彩り「活性化」しようというプロジェクトの発想をあげることができる。http://cityriots.exblog.jp/24080540/


これについて、(リスナーとの質疑応答を含みながら)もう少し書くと、日本の社会に一番欠けているのは、「切断(闘争)の記憶」ということではないか、とのこと。

先に書いたように、海外では、民衆による闘争(抵抗)の記憶が伝承され、それがコミュニティの「持続」を支えている。

日本社会にはそれが無いので、国家から独立的な「個」が育たず、民主主義も育たない。人々はばらばらに切断され、断片化されて、天皇制という全体に呑みこまれていく。

それが、日本のナショナリズムの仕組みでもある。


やや前後するが、酒井さんは、先日発売された雑誌『現代思想』の鶴見俊輔追悼号に載せた自身の文章に触れ、鶴見の思想においては「反射」という概念が重要だったことを強調する。

「反射」は、理念に先立って働く身体的な感覚のようなもの。たとえば、無防備なデモ参加者に対して振るわれる警察の暴力を眼前にして、理屈抜きで「やばいじゃん」と思うような直観。あるいは、民衆の行動に介入してくる警察に向って「ほっといてやれや」と口走るような庶民的な実感(酒井さんも言ってたが、僕も特に京橋駅前でこの反応を経験したことがある)。

それが、鶴見の言う「反射」であり、その働きが「内ゲバ」の暴力も押しとどめうるのだ、ということらしい。

そうした「反射」(身体感覚)を再発見し、養うことが、運動にもアートにも社会にも必要ではないか、という話。


これに関連して、酒井さんが一番しみじみ語っていたのは、今の運動シーンの分断と断片化の深刻さ。

これは、何とかしなければいけないと、みんな思っている(今日は、アート系の企画だったのに、関電前の人や釜の人など運動系の人がリスナーで来てたのは、良かったと思う)。

これにも、先に述べた「持続」の感覚の喪失(剥奪)、(鶴見の言う)「反射」の喪失ということが関係している。

特に、ツイッターなどSNSの悪影響も大きいという話(これは耳の痛いところでもある)。


また、酒井さんが身近に経験していた、10年ぐらい前の大阪の運動シーンの話も出た。

たとえば、長居公園の行政代執行のとき、住人や支援者の人たちが台の上で行なった、あの芝居の話。酒井さんは、それに大いに注目したが、その後を見ると、ああしたことが継承されたり語られる形跡もなく、無かったことみたいに扱われている。それは、なぜかということ。

また、同時期にあった京大のくびくびカフェや、石垣カフェも、それきりになってしまったという現状。

あの時期から現在への継承が無いということ。

ここで、李珍景著『不穏なるものたちの存在論』にも描かれた韓国のスユノモの運動の特徴(生活的な共同性や、教条的でない生活倫理のようなもの、そしてユーモアの重視など)や、酒井さん自身が体験したニューヨークのオキュパイ運動の合議民主主義的な性格にも言及。そうしたものを取り入れられなかったぼく等(日本)の運動シーン。

オキュパイの運動で最も印象深かったのは、本当に多様な団体が集まっていたが、決して煩を厭わず、長々と会議・話し合いを続けた姿勢。あれこそが民主主義だと実感した。

でも、こうした姿勢は(僕が思うに)今の日本のメジャーな運動シーンには見られないだろう。

このへんは、正直、絶望的になる。


また、長居公園や石垣カフェにせよ、オキュパイやスユノモにせよ、ピークは10年ぐらい前だろう(実際は、オキュパイは2011年でした。僕の思い違い。)。

特に日本では、この10年で、若者をとりまく状況は極めて悪化した。

酒井さんが言う「持続」の感覚は、食事などの共同生活の時間を通してしか養えないものだと思うが、今の若者たちには、そういう経験をするための時間的・金銭的余裕も乏しいのが現状だ。

そんな若い人たちから見ると、10年前の話は、もはや「昔語り」のようにしか思われないのではないか?

これが、最も深刻なことだと思う(会場で感想を述べた若い人の意見にも、酒井さんの話と自分たちの感覚との距離に戸惑っている感じがうかがわれた)。

最後に、過度な対立や緊張を取り除こうとする、スユノモにおける「笑い」の役割や、オキュパイ運動の(他者に対する)寛容さに関して、それらにおいては運動内の倫理性がどう担保されるのかは、気になるところだろう。

この点は、酒井さんに確かめられなかったのだが、おそらく、「長々とした話し合い」(民主主義)などを通じて、外からのお仕着せの倫理や規則ではない、自生的な倫理のようなものが培われたという趣旨だろうと思う。

ぼく等の社会には、それも欠けている。

2015-10-10

[]小熊英二氏への賛意と疑問

2011〜2012年のデモを見てきたからこそ、今、こうしてデモをやっている

http://www.webdice.jp/dice/detail/4856/



上の対談のなかで、小熊英二氏は、次のように言っている。

それから現在の運動は、60年代後半の運動のように、非日常的な革命の夢に脱却しようというものではないですね。その理由の一つは、生活が厳しくなってきているからです。60年代は日本がどんどん豊かになっていく時期だったし、学生は少しぐらい暴れても就職先があるという安心感のもとに運動をしていました。このままだと会社勤めの人生になるから、今のうちに暴れておこう、というメンタリティがあったんですね。今から考えれば、一つの会社に一生雇ってもらえるのが前提だった。

 それと比較して今は、例えばSEALDsのメンバーの中にも、奨学金の借金を何百万円も負っている人や、電車賃がないからミーティングに来られない人もいるわけですよね。雇用も厳しくなってきているし、「革命で安定した日常を壊す」といった志向にはならないのでしょう。

私は大学の教員をやっていますが、この10年の間に、学生がどんどん貧しくなっていることは、はっきり感じ取れます。2011年の震災と原発事故は、全体状況の変化に気づくきっかけを与えた。日本のある時期の運動というのは、遠くに問題があって、困っている人々がいるから助けに行かなくてはならないというものでしたが、福島事故後の反原発運動はそうではなく、自分の住んでいる地域に放射能が降ってきたから立ち上がらざるを得なくなったという運動だった。そういうきっかけで生まれた運動の政治文化が、社会状況の変化と、結果的に一致したのだと思います。SEALDsの運動は、そうした政治文化の変化の延長にあると同時に、社会全体の変化を象徴していると思います。

60年代の運動がどうだったのかは分からないが、ただ、最近の若者たちの暮らしが、特にここ10年ほどの間に急激に貧しくなっているというのは、小熊氏の言う通りだろう。

そういう意味では、貧困の問題にせよ、被ばくの問題にせよ、戦争や徴兵制の問題にせよ、今の学生たちは、私たちの社会による被害の当事者である。その人たちのなかから生じてきている運動を、「社会全体の変化を象徴している」と捉える小熊氏の見方には、うなづけるところがある。

そして、シールズの二人のメンバーの発言に示されているように、「声を上げること」を蔑視・異端視するような社会の風潮が支配的であるなかで、それに抗って行動を始めた若者たちに対する小熊氏の態度には、かつて岡本恵徳が、沖縄出身の若者たちに向けた眼差しを思い出させるものがある、とも思う。

これは、最近こちらに書いたことだが、あらためて紹介しておこう。

http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/zenkindai-2.html

それは1978年に沖縄タイムスに載った「「同化」と「異化」をめぐって」という文章だが、その中で岡本は、当時話題になっていた、沖縄から集団就職で「本土」に働きに出た若者たちが、「文化の違い」とされる理由から離職してしまうことが多いという事について、次のように書いている。

集団就職の少年たちの職場を離脱する例の多いのを指して、挫折とよび、その辛抱のなさを非難する声は多い。しかし果たしてそうなのかは、問題であろう。この少年たちは本来あるべき、自分の資質にあった職業を、自分の意志で選んだというのではない。むしろそういう機会を奪われ、やむをえず強いられた道を歩んだ少年たちであるはずである。沖縄に生きる場所を与えることのできぬ状況が、彼らをして、その道を行くことをよぎなくさせたに違いない。とすれば、彼らは、もともと、自分の志をのばす場を奪われた存在であって、みずから選びとった道をゆく人々と異なる道を歩まされているのである。(中略)挫折するもしないもない。彼らは、そこでようやく強いられた存在であることを自覚し、自己をとりもどし始めたといえないか。(『「沖縄」に生きる思想』岡本恵徳著 未来社、2007年 p145〜146)

もちろん、この最後の部分を指して、小熊氏の態度に岡本恵徳の眼差しを思わせるところがある、と言いたいのだ。

ただ、岡本の場合、この「自己をとりもどし始めた」若者たちに向けるその視線は、岡本自身の葛藤と重ねられていたはずだが、小熊氏の場合はどうだろう?

私には、小熊氏は、「日常生活の安定を回復するための行動」という自分の理解の枠組みのなかに、無理に若者たちを押しこめようとしているように見えるのだ。

たしかに、この人たちは、抑圧された状態から自分を解き放って、行動を始めたわけだが(それは、私たち上の世代が経験したことのないような重圧との闘いだろう)、ただ私が思うのは、その解放は、他者の絶えざる発見を通してしか十分に実現されることはないだろう、ということである。

そして、「他者の発見」のためには、社会の仕組みのなかでの自分自身の位置の正確な把握ということが必要である。他人に対して、被害者でもあれば加害者でもあるものとして自分を捉えることで、他人ははじめて、「自分」という抑圧的な枠組みの外側の存在として見出される。つまり、発見されるのだ。

「左翼」が、構造の認識ということを重視するのは、このためである。

その過程を介した、「他者の発見(出会い)」ということがなければ、若者たちが、自分を苦しめている仕組みから解放されることは、結局は出来ないのではないかと思う。仕組みから解放されないまま、仕組みの中に別の仕方で取りこまれていく。

小熊氏は、そういう意味での解放ということは、「非日常からの解放」として、時代遅れの理念的なものだと見なしているのだろう。そして、日常という枠のなかで、その枠を健全なものとして維持し続けるための行為(装置)として、デモなどの抗議行動(政治参加)を捉えている。

運動が勝ったとか負けたとかは単純に言えるものではないという小熊氏の見方も、そういうところから出てきているのだろう。

破壊や逸脱から距離をとって(あるいは拒んで)、「日常」を大切にするのは、理解できる立場だ。理念に踊らされるようにして行われた過去の闘争が、生身の人間を否定し、また結局は体制を利することにしかならなかったという歴史の反省も、そこには込められているのだろう。

だが、そうかといって、秩序の維持を第一義のようにし、行動や感情を、既存の「日常」を健全化・活性化するような性格のところにだけ押しこめておこうとすることが、果たして、生身の人間を大事にするということになるだろうか?

何より、その「日常」と呼ばれてきたものこそが、この若者たちを、被害の(同時に、加害の)当事者の位置に置いた当のものだったのではないか?それならば、その「日常」を自明のものとして成り立たせている仕組みこそを、人としての疑いや怒りの対象として据えるべきではないのか?

私には、小熊氏のスタンスは、根本のところで、そういう要請に背くもののように思えるのだ。

2015-09-29

[]白川真澄さんの論考をめぐって

『今日、考えたこと』さんに、白川真澄さんの「2015年安保闘争について――その意味と課題(覚書)」という文章が紹介されてました。

http://tu-ta.at.webry.info/201509/article_6.html

まずは、読んでいただきたいのですが、そのうえで感想を以下に簡単に書いておきます。


当然ながら、見事な分析であると思いました。

特に、「2 たたかいのエネルギーはどこから生まれたのか」の終わりの方の、小熊英二氏の見解に対する批判は、私には正確に理解できてるかどうか分かりませんが、今回の若者たちの行動の「可能性」の核心を捉えた、鋭いものだという印象を受けました。

しかし、大事なことは、「小さな幸せ」という「平和な日常」を脅かす不安は、若者を「日常」に閉じこもらせず、「日常」の外へと動かしたということである。「平和な日常」は、政治への無力感や無関心でもある。リスクを恐れながらも「黙ってはいられない」、「何かをしたい」という衝動は、新しく湧き起った力であり、「非日常」への跳躍の動力である。初めてデモに参加する――それはたった1日だけでも、人にとっては「非日常」の世界に踏み出す貴重な行為であり、経験なのである。小熊は、「日常」と「非日常」の固定した二分法でしか若者の行動を捉えられないのである。

白川さんの分析は、市民運動の立場から、今回の「2015年安保闘争」を評価しようとしたものであろうと思います。

そこでは、「3 たたかいの主体の特徴」に示されているように、特に70年安保以降の、無党派的・ミクロ的な運動の蓄積の延長線上に、今回の「闘争」が置かれ、SEALDsの運動も、あくまでそのなかの一つという位置づけになっています。

これは、最近よく見られる、「過去の運動」として一緒くたにして否定するような歴史破壊的・新自由主義的な「運動論」とはまったく違うもので、私には、説得力のあるものでした。

また、「4 運動から制度圏への展開のための課題」に書かれている、野党は選挙協力の目標を「国民連合政府」というところにではなく、

政権構想は棚上げして、政策的な共同目標で選挙協力を推進するほうが、政治的には有効であろう。

との指摘も、私にはうなずけるものです。

それは、現実的であるというだけではなく、とりわけ日本共産党が、辺野古基地建設反対や新自由主義反対、そしてもちろん改憲反対といった、最も大切な主張を手放さないためにも(それは、社会全体にとって大きな意味を持つことだと思います)、適切な意見であると思います。

かつての社会党のように、解体してもらっては、こちらが困るのです。


以上のように、白川さんの文章には、多くのことを学べるのですが、ただ私は、やはり全体としてこの見解が、対安倍政権という意味でも、また運動内部の問題についても、あまりにも楽観的ではないかという危惧を抱かざるをえません。

今回の「2015年安保闘争」は、元々が政権の暴走によって追い込まれた結果生じたものという側面が強く、法案そのものも通ってしまい、対抗運動を含めた社会全体の統制的な傾向は、日増しに強まっているというのが、圧倒的な現実ではないでしょうか?

新しい社会運動のあり方を肯定するにせよ、この絶望的な現実を否認しないところからしか、真に力ある抵抗は生まれてこないのではないかと考えます。

2014-10-21

[]橋下「見直し」発言について

http://www.asahi.com/articles/ASGBP3RLBGBPPTIL00C.html




ここでは何か、橋下市長が在特会側の主張を聞き入れて、(差別・ヘイトスピーチ防止のために)制度の「見直し」に取り組むことを考えたかのように書いてあるが、もともと橋下氏や維新と在特会とでは、その主張の内容においても、活動のスタイルにおいても、ほとんど違いはないのだから、実際には、昨日の「面談」をいい機会にして、自分が思っている政策を実行に移す、そしてそのことを正当化しているだけであろう。

政策といっても、この人の場合、いや、橋下氏ひとりに限らず、今の日本の多くの政治家に見られる傾向だが、その眼目は、「よりよい社会や制度」を作り出すということではなく、特定の対象、とりわけマイノリティへの攻撃を行うことを通して、権力や権益の確保を図るところにある。

攻撃的な社会が、彼のような政治家を産み出し、彼のような攻撃的な政治家が、さらに社会を攻撃的なものに変えて行く。そして、そのことで国家や資本はより多くの搾取を実現していくのだ。だから、橋下氏の言う制度の「見直し」とやらが、どういう方向のものであるかも、当然察しが付くというものだ。


今回の発言で、橋下氏は、「特別扱いは差別を生む」として、差別やヘイトスピーチの原因が在特会の主張する「在日特権」であるということを、暗に認めている。そう明言せずとも、差別を行いたい者たちに与える、励ましの効果は絶大だろう。

植民地支配の帰結として生じた法的状態を指して「特別扱い」などと呼ぶことが真っ赤な大嘘であることは勿論として、そもそも差別にそれを正当化しうる「理由」などありうるのか?「いじめられる側にも原因がある」という類の暴論ではないかというのが、まともな疑問だと思うが、この人にそんな正論を説いても始まるまい。

橋下氏にとって重要なのは、自分と、彼を支持する人々とにとっての攻撃の目標と材料を、できれば永続的に確保することだ。そのためには、在日が「特別扱い」されており、「在日特権」なるものは実在するのだと、強引に主張する必要がある。こうして、制度が変えられ、特別永住制度を産み出した在日と日本の歴史が、ある意味で消去されることによって、在日の人々は、半永久的に、国民たちから「特別扱い」の負債を要求され続けることになるだろう、「合法的」あるいは非合法の差別という方法によってでも。


ところで、昨日の在特会会長との面談では、橋下市長は、在特側の主張には「理解」を示しながら、その手法だけを批判して、政治の場で「特権」を問題化することを相手に強く迫るかのような態度を示したが、これは自分がこれから行おうとすることを正当化するためであったと同時に、在特会のような「粗暴な」スタイルとは一線を画したイメージを作っておきたかったからだろう。

つまり、一方では、大衆(特に中産層以上だと思われるが)の排外主義的傾向を満足させる極右的政治家というイメージを保つと同時に、自分は街頭でのヘイトスピーチのような下品なことを行なう人間たちとは違うのだという、新たなイメージの確立を図ったのだ。

このことは、大阪市の再開発政策において、都心部から貧困層を排除して、高所得者層を呼び戻そうとする、いわゆるジェントリフィケーションの路線に沿ったものだと考えられよう。貧困層の都心からの排除(浄化)と再開発という、資本や国家の要請を代行する首長として、橋下氏は、ここでは在特会をダシに使って、新たな役割を担うことを宣言したのだと思う。

要するに、橋下氏と在特会とは、共に排除・浄化という資本や国家の要請(特別永住制度に代表される植民地支配の歴史的責任の否認、いわば歴史的不公平性の隠蔽は、その最たるものだと思う)を代行する「汚れ役」という点では同じであり、だからこそ、橋下氏は「面談」によって在特会に広くその主張を世に広める場を与えたわけだが(実際、その宣伝効果は小さくなかっただろう)、今や役者たちには新たな役回りを演じることが要請されており、その要請をいち早く察して、役柄の転換のために在特会をうまく利用したというのが、今回の「対決」の内実だったと思われる。

そして、このパフォーマンスによって、橋下氏は、さらに新たな支持層を獲得したのかもしれない。それは、この日本の社会が、まだそれほど差別的・排外主義的ではなく、良心的な要素を色濃く残しているリベラルな空間であり、自分もそこに帰属していると信じ続けたいと願う人達だ。

こうした人達は、この願望の強さの故に、在特会を「差別主義者」と断じる(そうすることで、橋下氏は、自分の一切の政策や発言が差別的でないと巧妙に印象付けようとしてるわけだが)橋下氏の態度を見て、そこに、日本社会の最後の希望の光のようなものを見出さずにはおれない。これは無論、幻想にすぎない。

だが私は、それを一概に非難しようとは思わない。それほどに、ネオリベや排外主義・植民地主義的反動による攻撃が熾烈であることの、それは証左に他ならないからだ。

ただ、私が憂慮するのは、こうした幻想にしがみつきたい人、そうせざるをえない人たちは、その願望の強さの故に、一度抱いた橋下氏への(そして、この社会への)幻想から抜け出すことが出来ず、橋下氏による排除や浄化の政策を、最終的には、自分たち自身がその対象となるに至るまで、支持し続けるのではないかということだ。

それが、どれだけの悲劇を産み出すか。

だが、それを防ぐ責任は、われわれにあるのだ。

2014-09-01

[][][]京丹後・基地問題のドキュメンタリーを見て

以下の催しに行ってきたので、感想をここに書いておきたいと思います。


☆丹後フェス☆

http://blog.livedoor.jp/noarmydemo/archives/40575954.html


都合で、僕はドキュメンタリーの上映と、コンサートの一部(長野たかし&森川あやこのお二人。すごく良かったです)しか見られなかったのだが、ここではドキュメンタリー(毎日放送制作の『見えない基地〜京丹後・米軍レーダー計画を追う』)を見ての感想を書きたいと思う。


気になったことだが、ナレーションの中で、建設が望ましくないことの理由として、「北朝鮮などのミサイルの標的にされるから」とか「テロの標的にされかねない」といったことが、強調されていると感じた。

つまり、「北朝鮮」や「テロリスト」などの「敵」の攻撃にさらされることになるから、基地建設は問題だ(そのように住民は感じてるはずだ)という論調である。

このような不安を、実際に現地の人たちが抱いているのかも知れないが、しかし、そのことと、マスコミなどが、それを不安や問題点の中心のように報道するということとは、別の話ではないかと思う。

これでは、「住民の不安」ということを理由にして、メディアが差別的・排外的な感情を是認し強化する役割を果たしてしまっていることになるのではないだろうか?

これはもちろん、この番組だけではなく、マスコミなどでこうした問題が(基地建設に疑問や反対を呈する立場で)取り上げられる場合に、一般にある傾向だと思う。


いや、このような論調は、マスコミだけでなく、反対運動の中にも少なからず見られるものだろう。

だが、そもそも、「敵が攻撃してくるから」というのは、基地を作る側が理由として挙げているものであり、その土台に乗っかって「基地建設反対」を言うことは、政府や米軍の主張を補強していることになりかねないのではないか?

日本の軍事力の増強は、朝鮮や中国、またイスラム教徒などに対する差別的な感情をテコにして進められようとしていることは明らかなのに、こうした「敵」の「脅威」を自明のものとする言説が、基地建設反対の側にさえ見られるのは、困ったことだと思う。


また、このドキュメンタリーでは、米兵による犯罪への懸念から、青森にあるレーダー基地の現状が紹介されたりもしていた。これは初めて知ったことだが、この地域(京丹後)は、敗戦直後に米軍が駐屯していたことがあったらしく、その頃の負の記憶を今も持っている高齢の方もあるらしい。

たしかに、米兵の犯罪については、沖縄でも韓国でも、また日本の他の各地でも、深刻な問題になっている。

だが、上記の事柄(ミサイルや、テロの脅威)と同様に、米兵の犯罪への懸念ということも、それが報道や言論の中で独り歩きするなら、差別や排外主義に転化しかねないものではないかと思う。

つまり、そうした言論は結局、戦争遂行の歯止めにはならないのだ。

問題は、「基地の危険」を言う場合に、反対運動や反対論的なメディアが、どこにその危険(暴力)の本質を見るかということだろう。


原発反対運動において、「障害のある子どもが生まれるから」原発はいけないという差別的論調があるが、これは「北朝鮮」や「テロリスト」の脅威を自明の前提にするような排外的基地反対論と同じで、問題の本質を見誤ったもの(体制内的言論)だ。

原発や基地を建設することが悪であるのは、それらが自然や人々の生活を、不当に破壊し、変更させる暴力だからだ。戦争そのものも、この暴力の延長線上にあるものだと言える。

現地の人たちは今、降って湧いた基地建設によって、土地を奪われ、これまでの生活のあり方の変更を(権力と金の力で)強いられるという、酷い暴力にさらされているのだ。

これこそが、基地建設という暴力の根幹であるはずだ。


そして、もうひとつ大事なことは、このような不当な社会的暴力は、そもそも、原発や基地の建設という話が降りかかる以前から、「過疎」を強いられた地域に住む人々の生を襲い、蝕んできたものであるはずだ、ということだ。

僕は、原発や基地建設に反対する言論や運動は、この、元々の暴力の構造の告発と解消に向かうのでなければ、結局、無力だと思う。

僕が、このドキュメンタリーを見て、最も痛切に感じたのは、実はそのことなのである。


僕には、「北朝鮮のミサイル」とか「テロの標的」とか「米兵の犯罪」といったことへの不安が、現地の人たちの中にどのぐらいあるのかは、分からない。

だが、これらの不安が、現地の人たちにあるとすれば、それは、そもそもこの地域の人たちが、「過疎」を強いるような戦後の日本社会の構造の中で感じてきた、孤立感や不信感の反映であると思う。

少なくとも、僕らのような都市部に住む人間は、そのことを自覚する必要があるだろう。

「原発」や「基地」のような、突然降りかかった外からの脅威を排除して、元々の自然を回復しようという話ではなく、そもそもこうした地域の人たちが、長年にわたって被り続けてきた暴力と排除と搾取にこそ、目を向け、僕らは反省しなければならない。


そして、社会の中で感じている孤立感や不安感を糸口にして、排外主義を煽られ、戦争の遂行へと動員されていくという図式は、実は都市に生きる僕たちの日常とも共通するものであろう。

戦争の暴力は、すでに「平和」と考えられているこの日常の中に、十分に芽吹いているのであり、だから戦争を阻止する契機も、この日常の中以外にはありえないはずなのだ。

暴力的・差別的な日常を「回復」する(それは、国家に都合の良いイデロギーだ)のではなく、抵抗の中で、元々存在していた暴力、僕たち自身がそれに加担していた暴力を直視し、解消することにこそ、向かうべきなのだ。

2014-07-25

[][]前回への補足

前回書いたことに、一点だけ補足します。


今回の「反日デモ」に対する、運動内部からの(かりに、こう言っておきます)批判として、「なぜ仲パレと同日同時刻にデモをぶつけたのか」とか、「仲パレに参加しながら、自分たちの主張を表現すればよかったではないか」といった意見がある。

僕は、こうした意見が出るのは、このデモの意図するところが、よく理解されていないからではないかと、思う。ここでは、便宜上、特に後者の意見(仲パレに参加しながら、批判を行えばよかったではないか、ということ)に関して書いてみる。

あくまで僕の考えだが、このデモが、仲パレに対する批判として発している重要なメッセージは、おおまかに言って二種類ある。

一つは、仲パレが、植民地主義に代表されるような、日本の政治や制度、あるいは社会における根本的・構造的な問題への切り込みを行っていない、もしくはあえて禁じているように思われるので、そのことへの批判ということだ。また、それに関連して、仲パレが、警察の警備に代表されるような、権力の行使に対して順応的であると思われることへの批判もあろうかと思う。

これらのことに対する批判ならば、「仲パレに参加しながら、批判を行う」ということが、確かに成り立つだろう。


だが、このデモのもう一つの主張として、「小さな差異や、小さな差別には目をつぶって、大きな目的に向って団結(参加)しよう」という傾向・圧力への抵抗、拒絶ということがあると思う。

ここで「小さな差異」とは、たとえば上に書いたような植民地主義などをテーマにするか否かということや、権力との対立をどの程度に考えるかという違いなどである。また、「小さな差別」とは、仲パレと密接な関係にあると思われる「しばき隊」系の人たちがネット上で行ってきた差別的言動などがあげられるだろう。右翼的な人々の関わりということを、ここに加えてもよい。

このデモは、こうした「小さな差異や小さな差別には目をつぶって、大きな目的(良き市民社会の回復とか)のために一体となる」という姿勢を、本当の連帯ではなく、差異を押し潰して大きな動きの中に運動と諸個人を回収してしまおうとするものとして、反発しているのだと、思うのだ。この「大きな動き」(国民的・市民的運動)への回収ということは、それが権力への順応という要素を帯びるなら、体制に都合の良い運動、体制内運動への回収という性格を持つことになろう。僕はこれを、運動のファシズム化と呼びたいのである。

こうしたことへの危惧は、仲パレに協力している運動系の人たちの中にも、ある程度共有されていて、その上で、それに対処する考え方や方法の違いということがあるのではないかと思っているのだが、それはともかく、この「反日デモ」は、こうした「大きな運動」への統合の傾向と圧力(社会的な風潮)とに対する、批判であり抵抗という側面を持っているというのが、僕の考えである。


だとすると、こちらの側面における批判というものは、「仲パレに参加しながら行えばよい」と簡単に言うわけにはいかない。なぜなら、ここでの最も強い、明確な表現は、自分がそうした「大きな動き」(仲パレ)に参加しない、ということだからである。

「大きな目的のために、小異やこだわりを捨てて、ここに参加するべきだ」という無言の圧力(それは、大義や倫理の為の大きな行動に、なぜ協力しないのだ、という形をとるだろう)に対して、「自分の中の大事なものを犠牲にしてまで、大義のために参加する必要はない」ということを伝える、最も強い表現は、自分が態度(参加しないこと)によって、そうして見せることである。

もし参加してしまったならば、そして、その上で自分たちの主張を行うとすると、言語以前の、態度・行動という基本的な部分では、こうした統合的な運動のあり方を容認していながら、言葉の上でだけ、そうした運動のあり方を批判するという、自己矛盾的なメッセージを発することになるだろう。

それでは全く無意味だとまでは断定しないが、ただ、このことに関しては、「あえて参加しない」という形によってだけ、明確に伝えられるものがある、とは言えると思う。


ところで、行動や態度が発している基盤的メッセージと、言語によって発せられるメッセージとが矛盾するという、この現象は、心理学でいう「ダブル・バインド」に似ている。

ダブル・バインドとは、たとえば、母親が幼児に向って、微笑みを浮かべながら、同時に、虐待に近いような叱責を行う、という状況である。これをされると、幼児は、基盤的な部分(表情)のメッセージと、言葉によって伝えられるメッセージのどちらを信じてよいのか分からなくなり、酷い混乱に陥っていく。

これは、たんなる欺瞞や曖昧性ということとは違う。

母親と幼児の関係を例に引いたことからも分かるように、これは「非対称的な関係の強制」ということに関わっているのである。

僕は、この「反日デモ」の人たちが希求した「明確さ」とは、そうした混乱状態がもたらす、支配と抑圧からの解放だと思うのだ(前回の文章で、僕が「抑圧」とか、それからの解放と書いたのも、このことに関わっているのだ)。

実はこれが、上記の統合的な運動(国民運動や、市民的連帯)というものの持つ、最大の暴力性にも関わっている。そうした運動の中では、すべてのものが、一見平等に包摂されているようにみえるが、「小さな差異」や「小さな差別」への「こだわり」は捨て去ることが強いられているため、結果としては、強者による支配が維持される。

この強制は、明示的な形をとるわけではなく、たとえば、次のように言うのだ。

わかった。あなたの異議はすべて認めよう。でもそのことは、この大義のための運動に参加した上で語りなさい。

こうして、異議を唱えようとした人は、非対称的な関係の中に再び閉じ込められてしまう。


この「反日デモ」を企画した人たちについて、閉鎖的(党派的)であるとか、(良い意味の)曖昧性を否定している、という批判がされ、印象が持たれることがあると思うのだが、彼らは硬直した、柔軟性や曖昧性を認めない態度をとっているというわけではなくて、この「非対称的な関係の強制」に対して抗っているのだというのが、僕の考えである。

これは、植民地主義その他の問題に劣らず、またそれらとも密接に関わって、重大な問題の提起だと、僕は思う。

運動の大きな場面としては、3・11以後に顕在化してきた問題ではあるが、もちろん、根はそれよりずっと深く広い。いま、その根の上に、ファシズムという暗黒の森が広がろうとしているのだが、誰もが、その枝や葉を払うだけではなしに、根を自分自身の中に探って除去しなければならぬ。私もまた。