Arisanのノート RSSフィード

「ファシズムとは、現実のユートピア化である」(久野収)

2018-12-08

[]『資本論』第三巻から

資本論 6 (岩波文庫 白 125-6)

資本論 6 (岩波文庫 白 125-6)


あいかわらず、資本論をぼつぼつ読んでいて、今は第三巻のはじめの方、向坂逸郎訳の岩波文庫版の、全九冊のなかの(六)の途中。

資本論の第二巻と第三巻は、マルクスの死後、エンゲルスが編集して出版したもので、特にこの第三巻は、ほとんどエンゲルスの著作だといわれるぐらい手が入ってるらしい。しかし、なかなかに面白い内容だ。

まあ、難しい本なので、書いてあることがよく分からなかったり、全然分からなかったりするところが多々あるのはいいとして、この(六)(つまり第三巻の初めの方)の前半を読んでいて、周りとの関係でどうしても腑に落ちない箇所があった。それは、ここのところだ。

それゆえにわれわれは、社会的平均資本よりも百分比的により多くの不変資本を含み、したがってより少ない可変資本を含む諸資本を、より高度な組成の資本と名づける。反対に、社会的平均資本におけるよりも、不変資本は相対的により小さい範囲を占め、可変資本はより大きい範囲を占める諸資本を、われわれは、より低度な組成の資本と名づける。(p256)

つまり、可変資本(まあ賃金)の比率が少ない方が「高度な組成の資本」で、不変資本(材料費とか設備費とか燃料費とか)の比率の少ない方が「低度な組成の資本」だと言う。

可変資本の比率が少ないということは、技術革新等で生産力が上がって、必要な労働者の量が減ってるから、そうなるのだ。

しかし、マルクスの理論だと、資本が利潤を生みだすのは、可変資本から、つまり労働者に対する搾取によってでしかないのだから、そこの比率が下がるということは、生産力を上げるほど、つまり資本の組成が「高度」になればなるほど、資本は儲からなくなるということではないか?

ざっと、こんな点がひっかかって、不思議に思った。


読み進めて分かったのだが、結論をいえば、その通りなのである。

生産力が上がると、それだけ利潤率が下がってしまい、資本は儲からなくなる。だが(この辺は正確な説明が出来ないので、大体ですが)、「率」としては減っても、利潤量は増大させねばならない。そこで、矛盾と共に、資本主義が果てしなく拡大していくことになる。

実は、そのことこそが、この後に語られるマルクス・エンゲルスの資本主義分析の要なのだ。

次の個所を読めば、それははっきりする。

資本主義的生産の真の制限は、資本そのものである。資本とその自己増殖とが、生産の出発点および終点として、動機および目的として、現われるということである。生産が資本のための生産にすぎないということ、そして、それとは反対に生産手段が生産者の社会のためのたえず拡大される生活過程形成の単なる手段であるのではない、ということである。したがって、生産者大衆の収奪と窮乏化とに基づく資本価値の維持と増殖とが、ただその内部でのみ運動しうる諸制限、この諸制限は、資本が自己目的のために充用せざるをえない、そして生産の無制限な増加を、自己目的としての生産を、労働の社会的生産諸力の無制限的発展を、目指す諸生産方法と、たえず矛盾することになる。手段 ― 社会的生産諸力の無条件的発展 ― が、既存資本の価値増殖という制限された目的と、たえず衝突することになる。それゆえ、資本主義的生産様式が、物質的生産力を発展させこれに対応する世界市場を作り出すための、一つの歴史的手段であるとすれば、それは同時に、かようなその歴史的任務と、これに対応する社会的生産諸関係とのあいだの、不断の矛盾なのである。(p394〜395)

つまり、資本主義という搾取的な仕組みは、「社会的生産諸力の無条件的発展」という「歴史的任務」と矛盾する。

このあたりはいかにも、エンゲルス的・弁証法的な表現だけど、要は、万人が十分に暮らしていくための富(財)の生産と分配という目的に、資本主義は結局そぐわない(阻害する)ということだろう。

この少し前のところには、資本家たちの直感的な「恐怖」に関して、こう直截に書かれている。

しかし、利潤率の低下にたいする彼らの恐怖で重要なことは、資本主義的生産様式が生産諸力の発展において、富の生産そのものとは何の関係もない一つの制限を見出す、という感じである。そして、この特有の制限は、資本主義的生産様式の被制限性と、単に歴史的な経過的な性格とを立証する。資本主義的生産様式が、富の生産のための絶対的な生産様式ではなく、むしろ、ある段階では富の生産のそれ以上の発展と衝突するに至ることを立証する。(p382)


こうなってくると、『資本論』で言われている、「生産力」や「富」、それに「欲望」といったことの内実が気になってくるところだが、さらに後のところでは、資本主義的「生産」の本質について、たとえば次のように分析されている。

人口中の労働能力ある部分を就業させるのに過多な生産手段が生産されるのではない。逆である。第一には、事実上労働能力のない、その事情により他人の労働の搾取に頼るか、またはただ惨めな生産様式の内部でのみ労働として通用しうるような労働に頼る部分、人口中のかような部分が過大に生産される。第二には、労働能力ある人口の全部がもっとも生産的な事情のもとで労働するには、したがって労働時間中に充用される不変資本の大量と有効性とによって彼らの絶対的労働時間が短縮されるには不十分に、生産手段が生産される。(p406〜407)

つまりは、資本主義とは、富を生み出すというよりは、利潤の増大のために、むしろ不足を、窮乏を生み出す仕組みなのだ、ということである。

すなわち利潤率の一定の高さが、生産の拡張または制限を決定するのであって、社会的欲望にたいする、社会的に発達した人間の欲望にたいする、生産の比率がこれを決定するのではないということ。(中略)この生産様式は、欲望の充足が休止を命ずる点においてではなく、利潤の生産と実現とがこれを命ずる点において、休止される。(p407〜408)

利潤率は、資本主義的生産における推進力である。そして、利潤を伴って生産されうるもののみが生産され、また、利潤を伴って生産されうるかぎりにおいてのみ生産が行われる。(p408)

『資本論』で言われている(少なくともマルクスの考えた)、「富」や「欲望」ということが、資本主義のなかで育ったわれわれの思うそれとは、かなり違っているらしいことが、うかがえるのではないかと思う。

そして、万人が十分に暮らせるための富の量を増大させる手段として、生産力の発展ということが、『資本論』では肯定されているということも、ここでは確認しておきたい。

2018-12-02

[]『鎖国前夜ラプソディ』


 秀吉の一度目の朝鮮侵略である文禄の役の直前のことだが、まだ禅宗の僧侶だった藤原惺窩は、朝鮮通信使の一員として日本を訪れた許箴之という官吏と筆談で対話する。

 著者の上垣外憲一は、個人のことしか問題にせず、社会に関する思想のない禅宗の思想が、戦乱の時代であった室町・戦国の日本で指導的な理念としてもてはやされたのは自然なことだったという風に書いているが、この対話で許箴之は、道徳・倫理や社会(秩序)構築を重視する儒学朱子学の立場から、形式や規律を無視する(ある意味でアンモラルな)禅宗を信仰する者である惺窩に語りかけたのである。

 その内容は、形式から自由で「臨機応変」という禅の思想の優れた点を認めながら、儒教の古典である孟子の「浩然の気」という言葉を示唆することで(もちろん、惺窩にはその教養があった)、惺窩自身が考えを深めていくことを促す趣旨のものだったという(つまり、決して教条的ではない)。

孟子が、「浩然の気」という場合、それは本然的にある宇宙の生気、ひろびろとしてとらわれのない明るい心を指していて、老荘思想の無や玄に近いし、孟子の浩然の気は、老荘思想に非常に近いところにある。

ところが、孟子は「無心」に近い浩然の気に、「義」や「道」という、儒教的人間社会の倫理を結びつける。

本来なにものにもとらわれないはずの「浩然の気」を、それは義と道に合していないとしぼんでしまう、と孟子はいう。(p54)

おそらくこの対話が、藤原惺窩の思想が、その後の世界史的な激動のなかで、特異な価値を持つものとして形成されていく重要な契機となったということだろう。


本書では、当時の国際的な貨幣金属だった銀や、最重要な軍事資源ともいえる硫黄や硝石の産出・流通をめぐって、日本が世界の中でどのような位置を占め、また振る舞ったかを、生き生きと知ることができる。 

当時の日本は、(スペイン支配下の)南米と並ぶ銀の大産出国であり、また薩摩(なかば独立国ともいうべき存在感を示していた)の領内から産出される硫黄は、いうまでもなくなく火薬の材料だが、朝鮮侵略戦争の戦いの相手である明国への主要輸出(密輸)品でもあった。そこから得られる巨大な財力が、秀吉の侵略戦争遂行を可能にし、また桃山文化の華麗な発展を支えたのである。

いや、既にそのはるか以前、平清盛の時代に、薩摩硫黄島(鬼界が島)で産出される硫黄は、清盛による日宋貿易の主たる輸出品だったという。「鹿ケ谷の謀議」で俊寛ほか三名がその鬼界が島に流されたのも、そこが監視の行き届く場所だったからこそであり、明への留学を志した惺窩がこの島に「漂着」したとされる史実も、実は薩摩の軍事産業的貿易の一拠点であったこの島に立ち寄ることは当初から予定されていたのであろうと、著者は類推している。

マネーと軍事が歴史を動かすのは、今も昔も変わらないのだ。


先にも書いたが、本書で特に印象深いのは、明や琉球、堺、ルソン(スペイン人)、ポルトガル、東南アジアといった地域との交易で栄えた薩摩の存在感だ。

なかでも、島津家の領地だった日向の都城には「唐人町」が栄え、数千人の明の人たちが暮らしていたらしい。商業と同時に、倭寇の影響も、そこにはあった。

その明出身の人々(二世、三世も多かったという)を朝鮮侵略に動員しようとする秀吉の策謀のなかで起きたのが、「梅北一揆」と呼ばれる島津家配下の武将の反乱だった。それに対して秀吉政権は、抜群の行政能力を持つ石田三成を薩摩に送って厳しい処置をとり、島津の武将たちの領地を取り上げて、朝鮮での戦役に功績のあった者たちに知行するということにした。

二度目の侵略である慶長の役で、薩摩勢が目立って奮戦したとされるのは、この「生活のため」という理由からだったのだ。

幕末にパリで開かれた万博に、薩摩は「薩摩琉球国」として、日本国(江戸幕府)とは別個に出展したそうだが、そうした「日本とは異なる国」という意識は、この時代からずっと、鎖国の時代にも底流として流れていたものだという。それを支えたのは、軍事と結びついたものでもある交易であり、戦争や(特に琉球に対する)侵略・支配の連続でもあったわけだ。


この本のもう一人の主人公ともいえる徳川家康にしても、その視野の広さは、信長や秀吉をはるかに上回るほどの国際性を有していたことが語られる(北極海を通ってヨーロッパと北太平洋を結ぶ北極航路の開拓にさえ意欲を示していたという)が、それは、軍事に対する強い関心と不可分のものでもあった(薩摩の琉球侵攻を許可したのも家康だ)。

形式を破壊するかのような「個」や「自由」の論理が支配的であった時代のなかで、その現実と向き合いながら、どのように「平和」や「寛容」の思想が模索されたのかを、この本は垣間見させるのである。

2018-10-24

[]『中動態の世界』

この本は、昨年出版された日本の人文書のなかで、間違いなく最も話題になった本なのだが、僕は正直、途中まではそんなに引き込まれなかった。しかし、メルヴィルの小説『ビリー・バッド』を論じた最後の章の力強さには圧倒された。


途中まで引き込まれなかった理由は、たとえばこんなことだ。

「意志と選択」と題された第5章で、著者の国分功一郎は、「非自発的同意」という概念を行為の一類型として認める必要性を述べている。つまり、同意には、積極的でなく、「なんとなく」だったり強いられたりした結果なされるものもあるということだ。

これは、著者も言っているように、ハラスメントや性暴力の問題を扱うにあたっては有効かもしれない。しかし、この章でその具体例としてあげられているのは、カツアゲされて金を差し出す行為なのだ。そうした行為まで、「同意」の範疇に含めてしまえば、日本のような社会では、何が起きるか?

「あの同意は、自発的になされたものではないから効力をもたない」という、真っ当かつリベラル(?)な意見が広く通用するということはないであろう。逆に、「自発的だろうが非自発的だろうが、同意には違いないではないか」という、権力者や加害者にとって有利な見解が支配的になると思われる。

だから、日本のような抑圧的な社会では、「非自発的」になされたものは「同意」に含めるべきではない。それは、強制や誘導の結果であるということを強調するべきなのだ(そう思うのは、僕がカツアゲにあいやすい人間だからという理由だけではないであろう。)。

著者は、こうした日本社会の状況という、いわば政治的な現実性を見落としているか、もしくはあえて捨象して論を進めているのであろう。それは、抽象的な議論としては価値をもっても、現実に生きていく上では、むしろ弊害が大きいものだと思う。

こうした不満があって、僕はこの本の内容に、心底からは「のれなかった」のである。


ところが、先に書いたように、最後の章には大いに引きつけられた。

上に述べたような、政治的現実の捨象の疑いについても、著者自身が、政治的・歴史的強制力を無視して「選択の自由」を信仰するリベラル派・脱構築派への批判を明確に述べている箇所がある。正直、「ちゃんと分かっているんだ」と思った。

しかも、第5章の「非自発的同意」の議論は、マルクスの暴力・権力観を否定したフーコーの権力論を援用しながら(これ自体は、明解な説明だ)書かれていたのだが、こちらでは、他ならぬマルクスの言葉『人間は自分自身の歴史を思うが儘につくっているわけではない』が引用されているのだ。

また、この章では、ハンナ・アレントがその『革命について』のなかで、『ビリー・バッド』に関して書いた文章も紹介されているが、「暴力的な善」(絶対的善の暴力性)とそれを抑制する「徳」(法制度)の必要性を述べているというその議論は、ドストエフスキーの「大審問官」をほうふつさせるものだが、こちらも非常に印象深かった。

 そして何より、主人公のビリーに対峙する登場人物クラッガードの「ねたみ」の感情を分析している部分は、太宰治の「駈込み訴え」を思い出させるものだが、文章にぐいぐい引き込まれた(「駈込み訴え」も「大審問官」もイエスに関わる話だが、ビリーもやはり作中でイエスになぞらえられているという。もちろん、偶然ではないだろう。)。


 「ねたみ」については、著者の国分は、それは嫉妬とは違って、自分自身にかかわるものであり、その意味でより根源的な感情であると言う。クラッガードは、光り輝くような「善」の体現者に見えるビリーの存在に強く惹かれながら(愛情まで抱きながら)、その惹きつけられている自分を受け入れることが出来なかったために、それを心のなかで「ねたみ」へと変換してしまい、苦悩しながらビリーを憎悪し、陥れる結果に至ったというのである。

 何らかのきっかけでクラッガードが己の抱いた愛を素直に受け入れることができたならば、彼はこのようにして死ぬことはなかっただろう。しかし、彼の心が、彼の心のなかの何かが、それを許さない。(p277)

 このクラッガードの苦悩に、国分が、中動態に対する抑圧がますます強まっている現代の社会の人々の感情を重ねていることは、第7章で、「意志」を批判する後期ハイデッガーの思想を論じた次のような一節と重ねると、よく分かる。

一言で言えば、意志は過ぎ去ったこと、あるいは歴史に対して「敵意」を抱くことになる。しかし敵意を抱くことは不快なことであって、結局「意志は自己自身に苦悩する」ことになる。

 ハイデッガーはこのような意志そのものに巣食う「敵意」こそ、ニーチェの言う「復讐」の本質であるとすら述べる。ハイデッガーは意志することは憎むことであり、復讐心を抱くことだとまで述べるのである。(p206〜207)

 「ねたみ」や「復讐心」を生み出すのは、「意志」による、言い換えれば「能動/受動」の二分法的な思考原理の支配による、生の中動態的な在り様の抑圧であると、国分・ハイデッガーは、言っているわけだ。

 その「意志」の概念の現代哲学における最大の擁護者として、本書中で何度も言及されている(もちろん単純に批判されてるわけではないが)のが、上にも挙げたアレントであり、師弟関係にあたるハイデッガーアレントが、ここでは「意志」をめぐって正反対の位置にあるみたいになってることも、ちょっと面白い。


 その「意志」についてだが、国分によれば、中動態的なものの存在を抑圧している「能動/受動」の体制(本書の中核をなすのは、その文法的・言語的な基盤の分析なのだが)と相即的なものとして「意志」という概念の存在が考えられるようなのだが、それについては面白いことが書かれている。

 意志(自由意志)は、今日では脳科学の発達によっても否定されつつある想像物(仮象)であって、生の本来的なあり方を抑圧する装置であるともいえるが、しかし、それが仮象であり、抑圧を生むものだからといって、たんに否定してすむようなものではない(これは、マルクスの宗教に対する考え方に似ている)。

 人間は、生きていくうえで、どうしようもなく「意志」という概念を生み出し、それに依拠してしまうものである。そのことに、国分は、スピノザが精神のあり方について述べた「効果」という表現を使って注意を促している。スピノザは、いち早く「自由意志」の存在を否定した人として知られるが、同時に、「意志」という概念が生み出される不可避性のようなものにも注目した人だった。

そのことを、スピノザは、人は太陽が地球からはるかに遠いという「真理」を認識していても、日の光に当たると太陽が近いかのように実感してしまうという事実になぞらえて語っているという。

 太陽の光と人間身体が出会ったとき、両者のもつ特性ゆえに、そのような効果が発生する。スピノザは意志についても同じようにこれを効果として考えた。われわれの精神は物事の結果のみを受け取るようにできている。だからこそ、結果であるはずの意志を原因と取り違えてしまう。そのことを知っていたとしても、そう感じてしまう。(中略)そもそも、哲学者ハンナ・アレントが意志をめぐる考察のなかで明確に指摘しているように、スピノザは意志の自由を否定したのであって、「意志が主観的に感じられた能力としては存在していること」についてはこれをはっきりと認めているのだ。(p31〜32)

 「意志」は、実際の原因ではないのだが、人間が生きていく上で不可避的に「効果」として生じる、いわば仮象である。

 だが、その元来は仮象にすぎなかったものが、いつか実体のような地位を獲得し、抑圧の体制に化していく。その抑圧によって歪められた生から、「憎悪」や「復讐心」が生じる、ということになるだろうか。

 ところで、マルクススピノザの思想から大きな影響を受けているという説を聞いたことがあるが、『資本論』でマルクスが言っていることも、確かにこれとよく似ていると思う。

 たとえば、『資本論』第三巻で言われているのは、本当は(真理としては)生産過程における搾取の産物である「剰余価値」や、その単なる転化形態に他ならない「利潤」といったものが、神秘化されて、あたかも資本自体から発生してくるもののように思いなされるということ、たとえば交換(販売)過程で生じてくるものであったり、資本家の手腕によって手品のように生み出されるもののように、資本家の(そしてまた労働者の)主観には信じ込まれるという事実の異様さである。

 資本が生産過程と流通過程を経るその運動中に、この新価値を産み出すこと、それは意識されている。しかし、いかにしてそれが行われるかは、いまや神秘化されて、資本自体に属する隠れた性質に由来するもののように見える。(『資本論』第3巻第1篇第2章 向坂逸郎訳 岩波文庫『資本論』(六)p74)

 つまりは、「効果」としての、言い換えれば、仮象としての資本というものに、マルクスは着目し、分析しようとしているのだ。

 

しかし、このように「効果」(仮象)に過ぎなかったものが、いつしか実体のように思いなされて抑圧をもたらすということが事実だとすれば、そしてまた、生身の人間が仮象を抱くということが避けがたいことでもあるならば、この仮象というものを(マルクスが考えていたであろうように)「真理」の名のもとに抑圧・排斥してしまうのではなく、その「効果」という地位に留めておく方法はないものだろうか。

言い換えると、元来は「効果」(仮象)であったはずの「善」というものを、アレントが批判した「絶対善」にするのではなく、その本来の次元にさし留めておくというのが、ありうべき良き未来への選択肢というものではないか?

国分の議論の方向性は、そういったところにあると思われる。


 ところで、スピノザが提示した、能動と受動の独特な定義について、国分は次のように説明している。ここで言われる「能動」とは、普通に言われる(近代的な)「能動/受動」の概念とは異なり、もっと肯定的な、この本で言う「中動」に近い概念だ。

われわれの変状がわれわれの本質によって説明できるとき、すなわち、われわれの本質を十分に表現しているとき、われわれは能動である。逆に、その個体の本質が外部からの刺激によって圧倒されてしまっている場合には、そこに起こる変状は個体の本質をほとんど表現しておらず、外部から刺激を与えたものの本質を多く表現していることになるだろう。その場合にはその個体は受動である。(p256〜257)

 これは、「憎悪」や「ねたみ」や「復讐心」といった、いわば悪しき「仮象」の氾濫のなかに生きている私たちに、一つの指針を示してくれる考え方だろう。

 スピノザ的な意味で、「われわれの本質」を十分に表現しつつ生きるということ、つまりは真に自由であることとは、何か。

 『中動態の世界』は、そのことを追求した本であることはたしかだが、その具体例としては、初めの方に書かれている、次のような文章が、特に大きな示唆を与えてくれるのではないかと思う。ここには、著者の言う「中動態」的な生の、核心の部分が示されているように思われるのだ。

逆の立場に立って考えてみればよい。相手に謝罪を求めたとき、その相手がどれだけ「私が悪かった」「すみません」「謝ります」「反省しています」と述べても、それだけで相手を許すことはできない。謝罪する相手の気持ちが相手の心のなかに現れていなければ、それを謝罪として受け入れることはできない。そうした気持ちの現れを感じたとき、私は自分のなかに「許そう」という気持ちの現れを感じる。

 もちろん、相手の心を覗くことはできない。だから、相手が偽ったり、それに騙されたりといったことも当然考えられる。だが、それは問題ではない。重要なのは、謝罪が求められたとき、実際に求められているのは何かということである。

 たしかに私は「謝ります」と言う。しかし、実際には、私が謝るのではない。私のなかに、私の心のなかに、謝る気持ちが現れることこそが本質的なのである。(p019)

2018-05-30

[]『資本論』読書メモ・子どもの権利とラディカリズム

『資本論』が書かれた19世紀中頃のイギリスでは、さまざまな労働法制が(数十年にわたる闘争と論議の末に)成立していったわけだが、そのなかでも、工場などにおける子ども(早い場合、6歳頃から)の長時間労働を法律で禁止するかどうかが、大きな問題となっていた。というのも、当時、ほとんどの資本家(工場経営者)は、子どもの労働なしでは経営は成り立たないと考えていたからである。

長い議論の末に、ようやく議会において人々が一致した見解は、とにかく、貧困(それはもちろん、資本主義がもたらしたのだが)の故に子どもたちを工場などの労働力として売り渡してしまう親たちの横暴から、子どもの権利を守らねばならない、という点だった。つまり、資本による搾取からではなく(これでは、資本家側は納得しまい)、親権の暴力から子どもを守るべき、ということで議論が一致し、子どもの長時間労働を禁じる法の制定にこぎつけたというわけだ。

このことについて、マルクスはこう書いている。

しかし、親権の濫用が、資本による未成熟労働力の直接または間接の搾取をつくり出したのではなく、逆に、資本主義的搾取様式が、親権に適応する経済的基礎を廃棄することによって、その濫用に至らしめたのである。資本主義制度の内部における古い家族制度の解体が、いかに怖ろしく厭わしいものに見えようとも、それにもかかわらず、大工業は、家事の領域の彼方にある社会的に組織された生産過程において、婦人、男女の若い者と児童に決定的な役割を割り当てることによって、家族と両性関係とのより高度な形態のための新しい経済的基盤を創出する。(『資本論』第一巻第13章 岩波文庫版(二)p511 向坂逸郎訳)

この文章は、前段では一見すると、資本主義の暴力こそが問題の本質だと言っているように読め、『資本主義制度の内部に・・』に始まる、後段とのつながりが分かりにくい。

 だが、もちろん、マルクスの思想の特質は後段の方に示されている。

つまり、資本主義による『親権に適応する(旧来の)経済的基礎』の破壊を、マルクスは悪いこととは考えていないのだ。それは、この破壊が、親の子に対する、強者の弱者に対する、搾取と支配の構造(それは、資本主義以前からあるものだろう)をあかるみに出し、解体する力を持つものだからだ。家族制度は、たしかに時には、この構造から弱者を守るために機能することもあるが、人類史の中では、むしろその逆の働き方をすることの方が一般的だったのではないか(「母よ、殺すな!」という、「青い芝の会」の横塚晃の叫びが想起される)?

資本主義は、その一般的構造をむしろ代表し、拡張するものであり、それがもたらす矛盾(闘争)の激化が、結果的に、あるべき未来を開く。つまり、『古い家族制度の解体』が、真に解放された、平等な社会の実現を可能にするというわけだ。

マルクスは、たんに資本主義の悪だけを問題にしたわけではない。強者が弱者を支配する構造は、資本主義よりも古くから、あるいはより根底に存在するものであり、資本主義(特に産業資本主義)は、その構造の暴力性を急速に拡大する半面、その解体をもたらす力でもある、という考え。

ここに、マルクス主義の(悪い意味で)進歩主義的な側面、少なくとも資本主義の発展に対する両義的な態度も出てくる。

とはいえ、資本主義という現象を越えて、より根底的な構造の解体を目指そうとする、この傾向自体は、マルクスの思想の最大の魅力ではないかと思う(それは、ルソーにも通じている)。その意味では、中国の文化大革命は、決してマルクスの本道からの逸脱ではなく、その本筋をそれなりに突き詰めたものだったのだと思う。

どれほど大きな災厄をそれがもたらしたからといって、「あれはマルクスの思想の本質とは無縁」などと言ったのでは、彼の思想の核心の部分を受け継ぐことは出来ないと思うのだ。


しかし、では、その末に、未来においてもたらされるとマルクスが考えた『家族と両性関係とのより高度な形態』なるものが、果たして、この搾取と支配の構造を脱しているものなのか。

それらは実際には、真のラディカリズムとは真逆の、強者による弱者の、別様の支配や利用のあり方にすぎなかったのではないか。それが、マルクスの思想に対して批判のなされるところであり、共産主義等々の名を付されたすべての(ラディカルとみなされた)コミューン主義的な思想や運動の実態でもあっただろう。

だが、だからといって、マルクスによるラディカルな告発をなかったことにして、資本主義をはじめとする諸力が支配する暴力的な世界の現実をひたすら追認していくことなど、われわれに許されているはずもない。

搾取と支配の構造からの解放は、「あるべき未来」においてではなく、資本主義の過酷な現実との闘争のさなかでこそ、私たちの中で追求され、少しずつ実現されるべきものなのだろう。

2018-03-18

[]『ポスト・オリエンタリズム』

近所の図書館にあることを知って、さっそく読んでみた。


 書名の「ポスト・オリエンタリズム」とは、かつてサイードが批判した、西洋(植民地主義諸国家)による政治的な「東洋」(オリエント)なるものの創出の方式としての「オリエンタリズム」が、今日(特に9・11以後の米国)の社会においては、まったく新しい様式のもとに出現しているという事態を示しているようだ。

ここでの主張は、今日実際にエージェント的主体のあり方が欠けた知の様式が目撃されているということである。そしてそれがヘゲモニーなき帝国のやり口である。シンクタンクで特定の利害をもった知識として生み出され、その後公的空間に浸透していくようなあり方、すなわちエピステーメーの内方浸透こそが「使い捨ての知識生産」の多様な方法を促しているのである。これは長持ちもせず正当でもないエピステーメーに根拠を置き、即席の満足を与え一度の使用ですぐに捨てられてしまう返品のきかない日用品をモデル化したものである。(p253〜254)

(前略)近年のイスラームや「中東」についての知識生産の局面は、エピステーメーの内方浸透と呼びうる知の様式の指標となっている。すなわちこれはポスト・オリエンタリストの時代という局面である。この時代には知はもはや大学や研究所には集まっていない。実際は私的なフォーラムや公的なフォーラムにおいて多様な形式をとって広く拡散している。(中略)ここで言う「内方浸透」とはマスメディアを包んでいる透過性のある薄い皮膜をとおして、確かな情報や偽の情報がわれわれの内部へ浸透してくることを指す。マスメディアは多様な情報が散布される細胞の迷宮であり、そのような情報が変質する空洞でもある。そのようなマスメディアの被膜をとおして情報はパブリックな領域全体に浸透していき。突然変異して巨大な集結物になる。(p264)

 こうした「オリエンタリズム」(政治的・支配的な知の様式)の新ヴァージョンは、もちろん、世界資本主義の変化に応じて出現してきたものであり、その現実のさなかで、この知を道具の一つとする資本の破壊的な力にどう対抗・抵抗していくかが、常に抑圧された者の側に立つべき真の知識人の喫緊の課題だと、著者はいうわけだ。

 その提案のいちいちを、ここには書かないが、グローバル資本主義がもたらす人口の巨大な変動が、(世界の全ての国や地域の)保守主義者たちのアレルギー反応や、権力による「線引き」の策動にも関わらず、不可避的な現実であり、その現実を肯定することのうえでだけ、抵抗も解放も連帯も可能であるという力強いメッセージを、本書から受け取った気がした。

 序文でもベンヤミンを引いて言われているように、(支配者たちにとっての)歴史の危機的な一時期としての「ポスト」とは、そこに生じるわずかな断裂をきっかけとして、抑圧された者たちがその手に歴史を作り出すイニシアチブを奪い返す好機でもあるのだ。

これまで世界は否定され、制圧され、軽視されてきた。その多種多様な「抑圧された過去」が、いまや解放され、承認と理論化へ向けて緩やかに動き始めたのである。(p16)

難解な部分もあるが、とにかく読んで元気の出る本だと思いました。

2017-12-30

[]『眉屋私記』

眉屋私記 (1984年)

眉屋私記 (1984年)

上野英信のノンフィクション『眉屋私記』は、以前から読みたかったが、最近やっと読めた。


移民や遊郭の女性となった、やんばるの庶民たちのドキュメント

現在の沖縄県名護市屋部というところで生まれ、メキシコに移民して炭鉱で働き、最後はキューバで死んだ山入端(やまのは)萬栄と、その兄妹たちの伝記。

初めの部分では、沖縄、とくに名護を含む国頭地方の、薩摩による征服以後の苦難の歴史が語られる。

この致命的な「大和の御手討」の傷にあえぐ琉球王府が、起死回生を賭して推進したのは農業生産の拡充であり、農民の収奪強化であった。十七世紀の後半、国頭地方に大規模な行政改革の波が襲ったのも、ひとえにそのためである。(p28)』

 初めて知ることばかり。

 たとえば、蔡温という人は、琉球の歴史の中でも傑出した政治家といわれ、その森林保護政策は、世界に先駆けたものとして、米軍占領当局が英訳して世界に広めたほどだということは知っていたが、本書によれば、その実態は、森に住む住民を不毛の海岸部へと強制移住させるものでもあったという。

 そうやって移住させられた国頭の海岸部の住民は、近世・近代を通して、常に凶作と収奪による飢餓の脅威にさらされた。救いとなったのは、まれに海岸部に押し寄せるヒートゥ(イルカ)の大群だったという。

 辺野古に行ったときに、名護の名物だというイルカ料理を、何度も食べたが、そういう苦難の歴史が背景にあったのだ。

 

 こうした苦難は、明治の天皇政権による支配の始まりと共に、沖縄にとってさらに致命的な破壊となっていく。弾圧や拷問を含むむき出しの暴力と、法制度による地域社会の破壊と強制的同化。

 とりわけ、1899年に発布された土地整理法は、農民を地割制という旧習から解放するという美名のもとに、実際には大多数の貧しい農民たちを債務奴隷化するものだった(これは、明治維新自体もそういうものだが)。実際、これを契機として、「花の島」と呼ばれる那覇の遊郭に身売りされていく少女たちが急増する。主人公萬栄の妹たちも、そうだった。

 そして、男たちは、「移民会社」という業者の甘言に煽られて、海外移民することを余儀なくされるが、そのなかでも高収入がうたわれて、明治末期に多くの移民が送り出されたのが、メキシコだった。

 ちなみに、移民は全国から送られたが、沖縄のなかでは、国頭地方からの移民が飛びぬけて多かったのは、(進取の気性と共に)やはり孤立と貧しさのためだろう(ゾルゲ事件の宮城与徳や、その父もその一人だった)。

 メキシコでは、主に炭鉱に送り込まれたのだが、その実態は奴隷労働だった。逃亡者が大量に出るのだが、その理由は、その労働実態の酷さと、また初めからメキシコを経由地として米国に渡ろうとする人が多かったためだという。

 そして、移民に際しては、移民会社の関連の金融会社から、多額の借金をする仕組みが作られていたため、逃亡した移民たちの保証人になっていた沖縄の貧しい家族のもとには、会社が差し向けた借金取りが殺到し、差し押さえが頻発、大きな社会問題にもなった。徹底した搾取だが、「技能実習生」問題をみても、この日本社会の構造は今も変わっていないと思う。

 このくだりでは、移民会社(もちろん、政治家や官僚と結託している)の悪行を告発する「琉球新報」とサンフランシスコの邦字紙「新世界」との共闘が素晴らしい。

 

メキシコ・キューバでの流浪

 さて、山入端萬栄は、メキシコに炭鉱労働者として送り込まれるが、ほとんどの移民たちと同じく、逃亡して米国密入国を図るものの、果たせず、折から起きたメキシコ革命戦争(1910年から)に遭遇。

ウエルタ将軍の反革命軍の傭兵となって、各地の戦線を転戦し、何度か死の危機にも直面。1916年にキューバに渡航。そこでも無数の職場を転々とする。荒涼たる人生だ。

後年、当時の孤独と焦燥の心情を回顧した萬栄の手記の一節を引いたあと、上野英信はこう書いている。

「冒険主義者」山入端萬栄の痛ましい敗北宣言である。と同時に、断腸の棄民宣言でもある。彼はこれまで事あるごとに、「冒険家」をもって自負し、「生来ノ楽天主義」を誇ってきた。しかしもはやここには、その若い気負いの余燼もない。あるのはただ、祖国から棄てられた民の絶望的な孤独と焦燥の影のみである。そのくろぐろとした影は、彼がもはや帰国の意志も希望も喪失していることを物語っている。

 独り萬栄ばかりではない。それはまた彼と同じように若くして、しかも男性のみの労働移民集団として海外へ送られながら、ついに帰国の機会にもめぐまれず、故郷から妻を迎える機会もえられないまま、「野犬ノ如」く異郷を彷徨する男たちの運命そのものでもあろう。

 日本の海外移民史は、労働移民は棄民と同義語であることを教える。単身の労働移民が棄民化する率は、確かにもっとも高い。そして、棄民化の甚だしい所ほど、異民族との婚姻率も高い。不幸なことだが、わが国の移民に関するかぎり、異民族との婚姻率は、かならずしも人種差別の壁の高低を測る尺度とはならない。むしろ、棄民化の遅速を示すメーターである。(p334〜335)』

とはいえ、やがて萬栄は、キューバの首都ハバナのドイツ大使館で使用人として働くうち、同僚のドイツ人女性と、念願の結婚を果たし、娘も生まれ、いったんは小さな幸福を手に入れる(やがて、第二次大戦が起きると「二重の適性外国人」として収容所に入れられることになるのだが)。

しかし、萬栄の末妹で、本書のもう一人の主人公であるツル(元々、マツという名だったが、辻遊郭に売られ芸妓になって改名)にとっては、この国際結婚は、許せない裏切りとしか思えなかった。というのは、ツルにしてみれば、自分たち三人姉妹が、いずれも辻遊郭に売られながら家族を経済的に支えようとしてきたのは、ひとえに「眉屋」一族の血統を絶やさないための犠牲的行為だったからである(沖縄で、徴兵を逃れるために子どもを移民させることが多かったのも、この血統重視と無縁ではないようだ)。

はるかな外地での長男の国際結婚は、この「血統」への願い(もちろん、日本による植民地支配の過酷さと無縁ではあるまい)と、自分たちの犠牲を踏みにじるものとしか、当時のツルには考えられず、ずっと後年まで、彼女は兄を許せなかったという。


妹ツルの不屈の半生

ところで、海外で流転の人生を歩んだ兄と相似的に、この妹ツルは、日本国内を転々とする波乱の人生を送った。那覇の辻遊郭にはじまり、宮古島、和歌山(沖縄からの労働者が多かった)、大阪の四貫島(此花区)、神崎川の河原の集住地区、東京の下町、疎開先の千葉の山村、そしてまた東京、沖縄と、めまぐるしく移動していく。神崎川などは、僕の住んでいる場所に近いので、とくに興味深かった。そして、葬式など何かあると、しょっちゅう帰郷している。

移動というと、印象的なのは、国内に限らず、沖縄から海外に移民した人たちも、三年とか五年ぐらいの間隔で、ひんぱんに沖縄に行き来しているということだ。太平洋を船で渡ることの大変さを思うと、驚かされる。もちろん、これは事情が許せばということで、社会条件の厳しかったメキシコやキューバへの移民の場合には、難しかったようだ。

これは別の本で読んだのだが、どうしても沖縄の学校に通わせたいと、子どもだけを海外から帰国させる例も多かったらしい。そのため、「鉄血勤王隊」にとられて亡くなった子どもたちも居た。

他には、沖縄の人たちの、死者とのつながりの深さ(例えば、出稼ぎ先のヤマトで親族の誰かが亡くなったとき、その人が暮らしていた家の水道の水や、部屋のホコリも棺に詰めて沖縄に送ったりする。死者の霊は隅々にも宿ると考えられたかららしい)も印象的だった。   また(生者と死者の間だけでなく)「遊郭の内と外」とか「狂人や物乞いと一般社会」、それぞれの間に、近代的な境界が引かれていなかった、伝統社会の雰囲気も伝わってきた。


最後にもう一つ、遊郭で暮らした三姉妹をはじめ、沖縄の特に女性たちが、たくさんの養子を引き取って育てたことが、非常に印象深かった。

これは、上記の血統重視とは矛盾するみたいだが、困窮した同胞や身近な人たちの命を、少しでも救い、大事にしていこうという気持ちの表れとして、共通するものがあり、そのより本源的な形ではないかとも思う。

ツルも、彼女自身は、結局自分の子どもを持つことはなかったのが、何人かの養子を育てたり、兄弟の子どもたちの面倒を見た。

やはり子どもがなく、養子を育ててきた疎開先の住職の言葉を聞いて、自分のこれまでの人生も、少しは親への恩返しになっていたのだと気付いて、ツルが深く安堵するくだりは、とりわけ心に残った。

2017-12-09

[]『ゾルゲ事件とは何か』


だいぶ前から読みたかった本だが、先日、やはり図書館で借りてきて読んだ。

僕は引き込まれてあっという間に読んだが、密度がすごいので、本を読みなれてない人には、とっつきにくいかもしれない。


この本は、戦前に起きたいわゆる「ゾルゲ事件」を、ゾルゲよりもむしろ尾崎秀実を中心にして描き、同時にこの事件の「真実」をめぐる戦後(1990年まで)の各国での「情報戦」の推移を詳細に追ったものである。

つまり、ゾルゲ事件そのものと、その実態と解釈についての論争や「工作」という、二種類の「情報戦」を描いたものになっている。そこから、目まいがするような感覚が生じる。

 しかも、著者のチャルマーズ・ジョンソン自身が、一時期CIAで中国情勢の分析に関わる仕事をしており、それをブルース・カミングスら後続の歴史家から批判されたりしたこともあるということで、どこか尾崎の葛藤する姿とだぶるような気もしてくる。そういういわば著者の実存的な息吹を感じさせる本でもあるのだ。

 実際、この本の核心ともいうべき、著者の描く尾崎秀実像は、著者の東アジアに対する眼差しや姿勢と重なるところがあるのではないかと思う。最初の方に、簡潔にこう書かれている(ちなみに、この本の大部分が書かれたのは1964年のことで、まだ著者がまだCIAでの仕事に就く前である)。

尾崎はその育った生活環境、経験、それにその知識から政治活動に駆られるようになった知識人である。そして彼が直面した問題は現在世界中の誰しもが向いあっているものである。つまり中国の統一と中国人民の目覚めに自分の国がどう対処するべきかという問題である。(p6)

  本書では、尾崎だけでなく、ゾルゲをはじめ、宮城与徳、アグネス・スメドレー、ウィロビー(GHQ)、伊藤律(日本共産党)ら、いわば脇役の人たちも非常に興味深く描かれるのだが、ここではやはり著者の描く尾崎像に絞って紹介しよう。

後に近衛内閣の中国問題のブレーンともなる尾崎秀実は、日本の植民地だった台湾で生まれ育つ。そこで日本による植民地支配の実態に触れたことが最初の原体験になったというのは、埴谷雄高を思い出させる。さらに、学生時代に経験した関東大震災での朝鮮人及び左翼の虐殺や、朝日新聞の記者として滞在していた上海で見聞した日本の中国侵略の実情(上海事変を含む)などによって、次第に思想傾向が形作られる。

基本的には、抑圧された中国人民とアジア全体の帝国主義からの解放を願う心情がベースにあり、そのための手段としてコミンテルン(共産主義)やゾルゲに接近することになったというのが、著者の見方である(ゾルゲは、自分がコミンテルンの所属ではなく、ソ連赤軍の諜報員だということは、最後まで尾崎にも、他の同志や協力者にも明かさなかったらしい)。

 

著者の尾崎観を、もっと詳しく見ておこう。

尾崎は、鍵のかかったロッカーから盗み出した書類を写真にとったり、会議室のテーブルの下に盗聴マイクを仕かけたりするようなスパイではなかった。彼は政治情勢を客観的な論文にまとめあげる一級の分析専門家であった。彼が、「諜報行為」を行う上で一番必要としたのは、自分の個人的な考えを実際現実の政策決定者たちにぶつけてみて、それが正しいかどうかを確認することであった。一九四二年四月一日、検事の玉沢光三郎に尾崎は「諜報技術について述べよ」と聞かれてかなり驚いたように見えたが、次のようにこと細かに答えた。「私の諜報の態度あるいは特徴ということを一言にして言えば、いわゆる技術的な考慮を持たなかった点にあると確信しております。これは別の観点から言えば、その態度が一つの技術であったとも言い得るのでありましょう。私は元来社交的人間好きでありまして、たいていの人とは、毛嫌いせずつき合ったばかりでなく、人には親切な方であります。従って交際の範囲はただ広いばかりでなく、相当の深さも持つのが常であります。私のいわゆる諜報の源泉は、かかる人との交際の中に求めることができます。

 かつ、私の情報に対する態度は箇々の細かい情報を箇別的にあさるという態度ではなく、まず何よりも自分自身の一定の見解を定め、全体の包括的な事実あるいは流れの方向というものを作り上げるのに箇々の情報を参考とするという態度をとりました。従って私とつき合った人々は、私が情報を欲しがってあさっているという感じは、決して得られなかったことと確信しております。多くの場合、私にはすでに一定の見解なり情報らしきものがすでに集積されていて、相手方はむしろ私から情報なり、意見なり、見通しなりを聞かされているという感じを受けたことと思います」。

 尾崎はさらに、激しい流動と混乱の時代には細切れの情報は使いみちがないと述べた。彼は、軍部や政府の指導者たちの姿勢を評価する際には、一時的な状況はいつも無視し、現象の底に流れているものの客観的な分析と、日々の情勢の進展を関係づけるようにしたと語っている。この点からみても彼は、内外の著作者に、一般に政策の決定者というよりはむしろ、政策の追従者として特徴づけられているような日本の政治家たちとは異なっていた。唯一、尾崎がつねづね注意を払っていたのは、「日本がソ連を撃する時」であった。(p187〜188)

すぐれたスパイとはどんな特質を備えたものかと意見を迫られた尾崎は、まさに彼自身を特徴づける次の二つを挙げている。「最大の秘訣は、要するに人間的信用を相手に与え、何らの不自然なく情報の交換をなし得るごとき情況を作り出すことが前提であります。

 以上と関連して情報の性質にもよりましょうが、私のごとき立場からは充分よく研究と経験を積んで、自分自身が綜合判断の一箇の源泉たるごとく自らを完成する・・・」。尾崎が昭和研究会、内閣、朝飯会に居座り続けられたのもまさに総合的な判断力を持った情報の源泉だからだった。職業的なスパイというものはいつも偽装のことを心配するものだが、尾崎は厳密に言って己に隠れ蓑を着せるようなことはしなかった。彼は正真の政治分析家であり、戦前の日本政治の惨状に関わった一人だった。彼は、多数の日本の知識人と同様、侵略政策の愚かさを政府に警告しようとした。だが尾崎は、自由主義者たちの努力が多分無為に終わる場合の埋め合わせとなるように、ゾルゲを介して国際政治に影響をおよぼせるよう、独自の動きをしていた。スパイは己を偽装するものという考えと、ことに尾崎が著作を通して世に訴えていたその行為との相容れなさは、他に論理的に説明しようもない。(p188〜189)

戦時体制においては、人間らしくあることが、すなわち「スパイ」や「反逆者」と名指される条件のようになってしまうということが、よく分かる。

尾崎には、政治的現実に対する認識の致命的な甘さ(たとえば、ソ連の国家体制を信頼していたり、コミンテルンとソ連を別個のものと考えていたりすること)があったことは、著者も指摘しているが、とはいえ、彼が日本のソ連攻撃に最大の注意を払ったのは、それが彼の考える「アジアの解放」を決定的に阻害する出来事になると思ったからだ。「アジアの解放」(帝国主義と差別の排除)という目的に反しない限りにおいては、彼はまた「愛国者」だったと言えるかもしれない。

しかしながら、ソビエトに対する日独の協働を妨げる上でゾルゲと尾崎が大きく寄与したことは諜報活動とは全く別ものであったともいえよう。二人は一九四一年の間ずっと日独両国が協力してソビエトに当たらないよう、枢軸の指導者たちに働きかけていた。これは最大の慎重さと、気配りを必要とする非常に危険な冒険であり、モスクワはこれに対して決してはっきりと是認の態度を示すようなことはなかった。しかし、尾崎もゾルゲも自分らが置かれた高い地位からして、政治的決定に関する情報を収集するばかりではなく、そういった政治的決定自体を望ましい方向に持ってゆくようにすることも必要であると感じていた。(p236)

彼(尾崎)は、共産主義者、知識人、政治家としては、自国にとっても、生きた時代からしても、全く典型的な所はない。おそらく日本で最も傑出した政治学者である丸山眞男は、軍国主義華やかな時代について「権力構造の頂点から底辺まで、個人が真に自由で何らの束縛も受けずに存在することは全く不可能であった」と述べている。尾崎はこうした枠の外にあった人物であった。尾崎は、権力構造のなかで生き、思考し、行動したが、その理想は自身のものであり、自分の生きた時代での重大な出来事を、他に頼らず自分なりに評価して、その中から行動の理念を引き出していた。(p293)

人間として最も重要なことは、彼が観察者のままではいられなかったことである。彼は信念に生命をかけたのである。(p317)


ゾルゲ事件の全体について、特高や憲兵隊は元々、事件発覚前から尾崎を潰すべき対象キーパーソンとして狙っていた節があり、実際にこの事件の発覚を契機として近衛文麿に代表される非軍部勢力が一掃されて軍部独裁的な体制が確立したということから、この事件はそもそも軍部・当局によるでっち上げであって、尾崎がスパイであった事実など存在しないのではないかという議論もあったようだ。

 この説は、特に、戦前には尾崎の同僚であり、戦後は日本社会のなかで要職をしめることになったリベラル保守の政治家や官僚によって語られた。 

 だが、著者は、そうした説を次のように否定する。ここには、著者の尾崎に対する見方の本質と、著者自身の気概のようなものが、よく示されていると思う。

日本の文官の尾崎の友人たちが、彼がスパイであったなどとは信じきれないでいたこと、そのこと自体は、尾崎のことよりもたぶん彼ら自身のことをより多く物語っている。彼らは中国に関する情報には疎かったし、自分らの国が大陸でやっていることも知らなかったし、また知りたがってもいなかったのである。(p357〜358)

2017-11-16

[][]『ヴァレンシュタイン』

このごろ私どもが眼にするのは、

かつて百五十年前、ヨーロッパの国々が、

悲惨な三十年戦争の尊い成果として喜び迎えた、

堅牢なはずの古い秩序が崩壊している姿です。

そこで、いまいちど詩人の空想を動員して、

あの暗かった時代を皆さま方のお眼の前によみがえらせ、

御一緒に、いまより朗らかな気持で現代を眺め、

希望に満ちた遠い未来に眼を向けようではありませんか。


 これから御披露する作品で詩人は、皆さま方を、

あの戦争の真っ只中にお連れいたします。

荒廃と略奪と悲惨の十六年が過ぎましたが、

世間はいまだ混沌を極め、

遠くを望んでも、どこにも平和の希望は見えて参りません。

国土は武器のたまり場と化し、

町々は荒らされつくして、

マクデブルクは廃墟となり、商工業も技芸もどん底の状態、

市民はもはや一文の値打ちもなく、怖いものなしは軍人ばかり、

天をも恐れぬ破廉恥が良俗を嘲笑し、

長い戦さで凶暴化した荒くれどもが、

荒廃した大地にのさばっております。(p17〜18)

ヴァレンシュタイン (岩波文庫)

ヴァレンシュタイン (岩波文庫)


上に引用したのは、このシラーの戯曲『ヴァレンシュタイン』が1798年10月にヴァイマル劇場で上演された時に朗読されたという、「序詞」の一節だ。

 先に感想を書いた『ヴィルヘルム・テル』があまりにも面白かったので、他にもシラーの戯曲を読んでみようと思ったが、簡単に手に入るものがなかなかなかった。

やっと、この代表作といわれる長大な歴史劇の翻訳を、近くの図書館で借りて、少しずつ読んでみたのだが、正直言って、よく分からなかった。どうも、長すぎるということもある。

 それで、他の人たちはどんな風に感じたのだろうと思って、ネットでいろいろあたってみた。

 そのなかで、特に、下のサイトに書かれていた要約と感想が、引用も極めて的確であり、優れていると思った。僕が要約を書くより、はるかに分かりやすいと思うので、ぜひ読んでいただきたい(僕は不勉強で知らなかったが、有名なサイトのようです)。


「敵国破れて謀臣亡ぶ− シラー著「ヴァレンシュタイン」」(『リアリズムと防衛ブログ』)

 http://www.riabou.net/entry/2015/02/07/000129


 というわけで、申し訳ないが、以下では上記の重要部分以外で、僕が気になったことだけを書くことにする。

 これは他にも書いている人が居るのだが、この戯曲で特に生き生きとして面白く読めるのは、三部構成の第一部と、第二部の初めの方、陣営のなかで酒に酔ったり口論したりしている兵士たちの姿や、謀略をめぐらせる幹部連中のうごめく様が描写されている部分だ。

 兵(傭兵)たちは、まさしく荒くれ者の集団で、殺戮にも略奪にもなんら罪の意識を抱いていない者も少なくない。たとえば、こんな調子だ。

第二の狙撃兵 その通りだとも!俺たちのことを聞きたきゃ言ってやるが、俺たちゃ、ヴァレンシュタイン将軍の荒くれ狙撃兵で、その名に恥じず、種まきしたばかりの畑だろうと、たわわに稔った畑だろうと、縦横無尽、敵の土地だろうと味方の土地だろうと、あたり構わず突進すらあ―ホルク軍団狙撃兵の角笛と言やあ、聞こえたものよ!遠くからでも近くからでも、ノアの洪水みたいに、素早くあっという間に俺たちゃ姿を現わす。ちょうど、闇夜に火事の炎が見張りのいない家に侵入するようなものさ―そうなりゃ、防ぐも逃げるもありゃしない。秩序も躾も糞もあるものか―戦争となりゃ、情けは禁物、娘っ子が俺たちのごつごつした腕の中でもがきもするだろうさ。(p35〜36)

しかし、ここで興味深いのは、諸国から集まってきて、今はヴァレンシュタインの指揮下に結集しているこの烏合の集団の、いわばアイデンティティが、「自由」ということにあるらしいという点だ。

 第一の重騎兵 この世に生を享けて何かを手に入れようとすれば、そりゃ、うんと働きもすりゃ、うんと苦労もするだろうさ。また、高い栄誉や地位を手に入れようとするなら、黄金の軛の下に身を屈するのもいい。また、父親としての仕合せを満喫し、子供や孫たちに囲まれて安穏に暮らそうってのなら、まともな職業に就いて平和に過ごすがいい!でも俺は―俺にゃそんな気持ちは毛頭ないね。俺は―俺は自由に生き、また自由のままに死にたい。誰の物も盗まず、誰からも相続せず、馬上からちょっと眼をそらして、眼下のつまらん営みを見下してやろうと思ってるんだ。


 第一の狙撃兵 ブラヴォー!それでこそ俺そっくりだ。(p70)

 こういう心理は、僕にはよく分かるし、(善悪はともかく)時代や社会を越えて共感されることの多いものではないかと思う。

 実際、後の国民軍などと違って、この時代(中世から近世の初頭)の下級兵士の多くは、あぶれ者の寄り集まり、流浪の傭兵集団であったというのは、日本でもそう変わらないところだろう。

 僕は、この部分を読んでいて、ジャン・ジュネの『泥棒日記』の冒頭部分に描かれた、国境を越えて流浪する大戦間期のヨーロッパの最底辺の群衆の姿とか、折口信夫がやはり戦前に書いた中世の流民・悪党についてのエッセイなどを思い出したのだが。

 とはいえ、シラーのこの戯曲は、そうした「自由」というものの内実、行末、あるいは裏面というものを批判的に、少なくとも冷徹に描こうとしたのだと言えるかもしれないのだ。


 さらに注意を引くのは、主人公ヴァレンシュタインの占星術への耽溺ぶりである。それは、彼が人間の生を根底で支配する運命(必然)的なものの力に触れ、それに魅入られてしまっていることを示している。

 下は、ヴァレンタインの述懐だ。

 (重々しく)偶然なんぞ、ありはせん。そして、わしらの眼にはでたらめな偶然に過ぎんように見えるそういうものこそ、いちばん奥深い底のほうから立ちのぼってくるのだ。(p304)

いいか、人間の行動や考えというものは、むやみやたらと荒れ狂う海の波とは違う。小宇宙(ミクロコスモス)と呼ばれておるわしら人間の内なる世界は、深い深い縦抗のようなもので、わしらの行為や考えは、いつだってそこから吹き上げてくるのだ。それは、木に生る実のように必然的なもので、偶然なんぞといういい加減なものによって変えられるものではない。わしは、まず最初にこの人間の核心を探究したのだから、人間の意欲や行動も、底の底まで知っておるのだ。(p305)

 こうしたヴァレンシュタインの性向に対して最も辛辣な批評を加えるのは、(ここでも)妻である公爵夫人だ。

 レーゲンスブルクでのあの不幸な日(引用者注:主人公が皇帝に最初に見捨てられた事件)、得意の絶頂から奈落へ突き落されなすったあの日以来、お父さまの上には、他人を寄せつけぬ落ち着きのない心、猜疑心に凝り固まった暗いお気持ちが襲いかかってきたのよ。お父さまは平静さをおなくしになり、もう昔からの幸運や御自分の力を喜んで信頼することがおできにならなくなって、あの暗い術に心を向けるようになられたの。あんなことに夢中になって幸福になった人なんて、昔から一人もいやしないのにね。(p337)

 ヴァレンシュタインの「運命」への耽溺が、ある種の精神的な衰退の表れであることが、ここでははっきり見抜かれているわけだ。

 

ところで、先日エントリーを書いたアイザイア・バーリンは、歴史についての「決定論」的な捉え方を厳しく批判したのだが、そこでいう「決定論」とは、必ずしもマルクス主義的なものだけを指すわけではなく、極めて広い射程を持っている。たとえば、フロイトやニーチェのように(フロイト主義者やニーチェ主義者のように、と言うべきかもしれないが)、欲望や欲動の支配から人間の行動は結局逃れられないといった考え方も、「決定論」的な思考に含まれるのだ。

 コントロールすることができない非人間的な力に人間が左右されていると示唆して、人間を驚ろかすのは、超自然的な力、全能な個人、かくれた手という観念などの虚構を抹殺するためと称しながら、実は別種の神話をつくり出している。(バーリン『自由論』 p49)

 欲望や欲動といった「非人間的な力」の支配を絶対視して、その摂理のようなものを見出すことで「運命」に逆らわない生を歩もうというヴァレンシュタインのような態度は、絶対的な法則を探究する客観的・中立的な「知」の態度のように見えて、実は、その力に進んで屈しようとする欲望の表れである。つまり、それはすでに、一つの屈服(非自由)なのだ。

 公爵夫人の言葉は、占星術という「暗い術」(運命への知)に耽溺する夫の態度の中に、この屈服とそれへの意志を見据えているのである。

 この「非人間的な力」への(自発的な)屈服という点において、第一部に登場した無名の兵士たちも、ヴァレンシュタインと全く同じとまでは言わないまでも、よく似通った要素がある、というぐらいのことは言えるだろう。

 もちろん、流浪し、時には兵士となることもある全ての庶民・貧民が、必ず人間としての真の「自由」を手放す結果になるとまでは、言い切れないにしても。

2017-11-09

[]バーリン『自由論』

自由論

自由論


本書の著者、アイザイア・バーリンについては、最も有名な講演「二つの自由概念」において、「積極的自由」(自己実現)と「消極的自由」(非干渉)を明確に区分し、両者は基本的に相容れないものだとしたうえで、「積極的自由」の支配に警鐘を鳴らし、「消極的自由」の価値を強く擁護する主張を行った人として、20世紀後半の個人主義的自由主義の先駆者のように考えられているようだ。

その場合、彼が警鐘を鳴らした「積極的自由」の弊害については、ルソーやマルクスなどの革命的思想の追求というものが、実際にはジャコバン派や共産圏諸国の全体主義的・抑圧的体制をもたらしたこと、あるいはまた社民主義的な理念の重視が、英米などにおける「大きな政府」による「消極的自由」への圧迫を生んだことなどが、思い浮かべられることが多いようである(同時に、「啓蒙主義・合理主義」への批判ということが論点とされるが、ここではそれには詳しく触れない)。

だが、この『自由論』に収められたバーリンの主要論文(上記の「二つの自由概念」を含む)を読んでみると、バーリンの疑念は早くから、それらばかりにではなく、むしろ個人の「自由意志」と呼ばれるものとか、それらの「自由意志」の集約の制度とされるデモクラシーといったものに向けられていたことが分かる。

「二つの自由概念」のなかの、次の一節は、そのことをよく示している。

なぜなら、(中略)デモクラシーそのものは(中略)個人的自由の不可侵性を保護することはできなかった。これまですでにいわれているように、政府が欲するようなある意志をその被治者の側に生じさせるようにすることは、どんな政府にとってもいともたやすいことなのであった。「独裁専制政治の勝利は、奴隷たちに自分が自由だと言うようにさせることである。」(引用者注:バンジャマン・コンスタンの言葉)(p378)

 ここでバーリンは、政府が強制によってではなく、大衆宣伝やメディアによる情報操作などによって、人々が(主観的には)「自由意志」によって、奴隷であることや他者への抑圧を選択するような社会の出現を、眼前のものとして警戒しているのだ。

 それでは、バーリンの政治的な立場は、大衆への不信、デモクラシーの否定であるかというと、そうとは思えない。彼の立場が鮮明になっていると思えるのは、講演「ジョン・スチュアート・ミルと生の目的」のミル論においてだ。

 もし最大多数の最大幸福(最大多数はめったに理性的であることはない)が行動の唯一の正当な目的であるとすれば、非理性的な人間こそ満足をうることができるのではなかろうか。(中略)もし幸福が唯一の基準であるとすれば、人間をいけにえに捧げるとか魔女を火刑にするとかというような習慣が強くかつ広い感情を広い感情により支えられているような時代には、そうしたことは疑いもなく大多数の人びとの幸福に寄与していたわけです。(中略)ミルはそうした事柄に考慮を払ったことは全くありませんでした。というより、それ以上彼の確信に反するものはなかったといった方がいいでしょう。ミルの思想や感情の中心を占めていたものは、(中略)人間は善の選択の能力とともに悪の選択の能力によって人間的となる、という深い確信でした。過ちうること、あるいは過つ権利を自己改善の能力の系として認めること、斉合性や終局性を自由の敵として嫌うこと、これこそはミルが一度も放棄したことのない原理であります。(p425〜426)

しかし、彼は、そうした人たち(理性的エリート)にも、プラトンのいう≪国の守り手(統治権をもつもの)≫の地位を与えようとはしませんでした。ほかの人たちも、その人たちのように教育しうるし、教育されたときには、選択をなす資格をうるだろうし、こうした選択は、一定の限度内では他の人びとによって狭められたり指図されたりすることがあってはならない、とミルは考えたのであります。(中略)彼は教育と自由の双方を求めたのであります。(p435〜436)

人間を非人間化する大衆文化の結果についての現代での鋭い意識、大衆宣伝やマス・コミのメディアによってあざむき操作しうる非理性的生物として人間を扱ったり、従ってまた無知、悪徳、愚鈍、因習、「疎外されてしまう」被造物というように人間を扱うことによって、個人や共同体の真の目的が破壊されてしまうという鋭い意識、こうした鋭い意識をすべて、(中略)ミルは感じとっていたのであります。(p440)

 ここに、ミルだけでなく、バーリン自身の自由主義の精髄(彼が何に対抗しようとしたか)も語れらているのだと思う。 

 

さらに付言するなら、バーリンが警鐘を鳴らした「積極的自由」の危険について、それは共産主義に代表される(とかつて考えられていた)「合理的理性の支配」を想定したものと思われがちだが、冷戦突入寸前の1949年に語られた「二十世紀の政治思想」の次のような一節を読むなら、彼の危惧は同時に、(マッカーシズムに代表されるような)大衆社会の非合理性の危うさにも向けられていたことは間違いないと思える。

それはもちろん、現在のわれわれ自身の問題でもある。

それどころか、この人びとは、多くは深刻な内面の破産とか恐怖から起った、理性を棄てた信仰と懐疑への盲目的な不寛容とをもっていて、ここには少なくとも安全な港があり、たとえ狭くて暗い、他から遮断されたものであったにしても、安定しているのだという、頼みにもならぬ希望に執着しているのである。この意味における安定を購うためなら、意識的または無意識的に人間の活動範囲を扱いよい程度に狭め、人間を全体の部分、もっと容易に組み立てられるようなパターン全体の部分品―すなわち、取り換えることもできれば、前もって作っておくことさえできる―になるように訓練しようと組織的にやっている人びとの統制に、人生の莫大な領域をまかせることを認めるという代価をさえ払おうとする人びとの数は、次第に殖えているのである。必要とあらば最低水準―それ以上おちこみようもなく、裏切られよう筈もなく、おとされることもない―であっても安定をえたいという、こんなにも強い安定の欲求に直面しては、すべての古い政治原理、もはや新しい現実に適応しない信条の弱々しい象徴は消え去りはじめたのである。(p148)

2017-09-23

[]『生政治の誕生』(読了)


(承前)

フーコーは、自由主義(経済的自由主義。先に述べたように、ルソーに代表されるような、人権や革命につながるような自由主義のもう一つの側面とは、分離は出来ないものの、一応分けて考えていいだろう)というものを、ホモ・エコノミクス、つまり経済的人間をモデルとする政治・経済思想として捉える。それは、次のような思想である。

結局、経済学は、合理的行いに関する分析ではないのか。そしてあらゆる合理的行いは、それがどのようなものであるにせよ、経済分析のような何かの管轄に属するのではないのか。(p331)

人間のすべての合理的行為は経済学の論理で説明し尽くせるというわけだが、この思想は、さらに進んで、非合理的反応を含めたあらゆる人間行動を経済の論理で一元的に分析・予測できるという考えにさえ至るものだという。

ホモ・エコノミクス、それは、現実を受容する者であるということ。(中略)したがって経済学は、環境の可変項に対する反応の体系性に関する科学として自らを定義することが可能になるわけです。(p332)

ここまで行くと、行動科学と経済学(主義)の違いがよく分からなくなるが、フーコーが特にアメリカの新自由主義を問題にするとき、それはやはりアメリカの行動主義の思想のようなものを考えに入れてるのではないかと思える。

そして、これは余談だが、以下に展開されるフーコーによる、英米の自由主義者の思想の解説には、やはり20世紀前半の米国の行動主義的な哲学の影響を受けた西田幾多郎の著述を思い出させるところがある。

さて、フーコーは、自由主義の要であるホモ・エコノミクスというモデルの起源を、自由主義思想の誕生と同時期に出現したイギリス経験論のなかに見出す。というよりも、自由主義と経験論は、同時代的に密接に関わってるということだろう。

フーコーによれば、経験論が思想史上初めて提起した「主体」像とは、次のようなものである。

還元不可能であると同時に譲渡不可能であるような個人的選択の主体として現れる主体(p334)

このことを、フーコーは、経験論の代表的哲学者であるヒュームの(実際、ヒュームとアダム・スミスは親友だったそうだが)、『私の指の切り傷よりも全世界の破壊を選ぶとしても、それは理性に反することではない』という有名な言葉を引きながら、説明している。

心地よいとかそうでないといった「私の感情」は、それ以上還元できない、私の選択の根拠だということ。いかなる倫理・道徳によっても、理性の言葉によっても、それを断罪することは出来ないという、西洋思想史上、まったく新たな主体についての考え方。

そして、この主体はまた、譲渡不可能でもあるというのは、法権利や社会契約といったものとは根本的に異質な存在だという意味である。

利害関心の主体は、したがって、法権利の主体に対し還元不可能です。(中略)法権利の主体は、定義上、否定性を受け入れる主体、自分自身の放棄を受け入れる主体です。(中略)これに対し(中略)利害関心の主体の方は、それと同じメカニズムに従うものでは全くありません。(中略)一人ひとりが自分自身の利害関心に従うことが可能であるばかりでなく、そうすることが必要でもある。一人ひとりが自分自身の利害関心に従い、それを最大限に押し進めようとすること。そこから出発して、他の人々の利害関心は、ただ単に保存されるだけでなく、まさにそれゆえに増大することになるだろう、と。したがって、経済学者たちが機能させるようなものとしての利害関心の主体とともにあるのは、法権利の主体のあの弁証法とは全く異なるメカニズムであるということになります。というのも、それは、利己主義的メカニズム、直接的増大のメカニズム、いかなる超越性もないメカニズム、一人ひとりの意志が自然発生的にそして意志的ならざるやり方で他の人々の意志および利害関心と調和するようなメカニズムであるからです。(p338〜339)

「自分自身の放棄を受け入れ」ないということは、精神分析の言葉で言えば、「去勢」を拒むということになるだろうが、経験論が提示するのも、(経済的)自由主義思想が前提とするのも、そうした主体であり、それに基づいた「利己主義的」社会観なのだ。

ルソーの社会契約論はもとより、これではほとんど立憲主義とも相いれないように思うのだが、どうなのだろうか?

実際、国際社会を見ていても、国内を見ても、自由主義全盛と言われる今日の世界は、「自分自身の放棄を受け入れない」ことを旨とする(われらの)社会の代弁者のごとき指導者や政治家が、覇を競っているようにしか思えないではないか。


さらにフーコーは、アダム・スミスの「見えざる手」に言及して、こうした自由主義の経済主体(ホモ・エコノミクス)が要請するのは、市場(経済世界全体)の認識不可能性なのだということを指摘する。

フーコーの言っていることは、この辺から、先述の捉えにくさの印象が出てくるのだが、それは自由主義思想の持っている神秘主義的(ロマン主

義的?)な性質に起因するのだろうか?

不明瞭さ、盲目性が、あらゆる経済主体にとって絶対に必要である、ということです。(p344)

経済的合理性は、プロセスの全体性の認識不可能性によって包囲されているだけでなく、その上に基礎づけられてもいるということ。ホモ・エコノミクス、それは、一つの経済プロセスの内部において可能であるような合理性の唯一の小島であり、経済プロセスの制御不可能性は、ホモ・エコノミクスの原子論的行動様式の合理性に対して異議を唱えるどころか、逆にそれを基礎づけるものであるということです。(p347)

ここでフーコーは、世界全体の認識不可能性を明言し前提とするそうした経済的自由主義の思想が、カントの批判哲学と同型的なものであることを指摘する。この時期のフーコーが、カントに多大な関心を寄せていたことを、ここを読んで思い出した。

これより少し後の時代に、カントは、人間に対し、あなたには世界の全体性を認識することはできないのだ、と語ることになります。政治経済学はその数十年前に、主権者に対し、あなたもやはり経済プロセスの全体性を認識することはできないのだ、と語っていたのでした。(中略)私が思うに、これはやはり、もちろん経済思想の歴史において、しかしとりわけ統治理性の歴史において、非常に重要な地点のうちの一つです。(中略)十九世紀および二十世紀のヨーロッパにおける自由主義思想と新自由主義思想のあらゆる回帰、あらゆる反復は、依然として、経済的主権者の存在の不可能性の問題を提起するためのある種のやり方なのです。(中略)アダム・スミスの政治経済学、経済的自由主義は、そうした政治的企図の総体からの価値剥奪を構成しているのであり、さらにラディカルな言い方をするなら、それは、国家とその主権にもとづくような政治理性からの価値剥奪を構成しているのです。(p348〜350)

全体を認識することの不可能性と、自由主義的な主体、そしてカント主義的な自由というものとは、重なっている。

それは、政治システムのある種の転換、少なくともモード・チェンジの基盤となっていくような思想の要素みたいなものであろう。フーコーの分析は、その(70年代末に顕在化した)時代の動きを鋭敏に捉えているのだと思う。



さて、最後の日の講義で(初めて書くが、この本は何日間かにわたる連続講義の記録なのだ)フーコーは、アダム・スミス以来の自由主義の政治が生み出した、統治のための不可欠の装置として、「市民社会」という存在を見出し、論じることになる。

市民社会は、資本主義が発達してきた当時の社会において生じた新たな統治の課題に応えるものとして、いわば産み出されたのである。

経済主体に住みつかれているという不幸もしくは利点を持つ主権空間のなかで、法規範に従って統治を行うにはどのようにすればいいのか。(中略)市民社会は、したがって、哲学的理念ではありません。市民社会、それは、私が思うに、統治テクノロジー上の一つの概念、というよりもむしろ、一つの統治テクノロジーの相関物、すなわち、生産と交換のプロセスとしての経済に対して法的なやり方でかかわることでその合理的測定がなされなければならないような、一つの統治テクノロジーの相関物です。(p364)

したがって、ホモ・エコノミクスと市民社会は同じ総体の一部をなすということ。つまりそれらは自由主義的テクノロジーの総体の一部をなすということです。(p365)

社会の変容(大衆化)に対応する統治の装置として、一見進歩的・民主主義的な仕組みが作り出されるという発想は、ホブズボームのようなマルクス主義の歴史家とも共通しているのではないかと思う。

ただ、フーコーは、こうした統治に「外部」があるとは考えていないのだろう。統治は、完全に内面化されている、ということであろう。

さて、ここから(といっても、もう最後だが)フーコーは、ファーガソンの『市民社会史』という18世紀中頃の書物の内容を詳しく紹介していく(この本は、ファーガスンという著者名で、日本でも敗戦直後に翻訳が出たようだ)。

これはなるほど、非常に興味深いことが書いてあるのだが、そのうち何点かだけ引いておきたい。

つまり、市民社会は常に、限られた総体、他の諸々の総体に対する特異な総体として、自らを提示するであろうということです。(中略)ファーガソンが言うには、市民社会とは、個人が「一つの部族ないし一つの共同体を支持する」ようにするものです。市民社会は、人類のためのものではなく、共同体のためのものなのです。(中略)国民とはまさしく、市民社会の主要な諸形態のうちの一つ、〔ただし〕単に可能な諸形態のうちの一つなのです。(p371〜372)

ここで、「市民社会」概念の、閉鎖的というか、非普遍的な性格、たとえば国民主義的な傾向というものが述べられている。

これはカントの「世界市民」とは相いれないものであろう。

さらに、

経済的な絆は分離の原理となる。(中略)逆説的なことに、市民社会を構成する絆はますます解体し、万人とのあいだの経済的絆によって人間はますます孤立するということです。(p372〜373)

カントは、(国際間の)商業を、「自然」という無意識的なるものによって仕組まれた普遍的な絆として考えたはずだが、ファーガソンの考える市民社会においては、経済はむしろ絆を解体するものである。

社会契約(自分自身の放棄)ということがなく、なおかつ絆も解体されているのであれば、こうした社会はどのように形成されていると考えられるのか。ファーガソンは、(神に?)「選ばれた」支配する人々と、自らそれに服従する人々という形で、権力は自然発生的に形成されるとする。権威的な社会関係が、「自然なもの」として、常にすでにそこにあるというわけだ。ファーガソンが善きものとして構想した「市民社会」とは、そういうものだったらしい。

つまり、権力は自然発生的に形成されるということです。(中略)権力の事実は、法権利によるその権力の創設、正当化、制限、強化に先立つものであるということです。(中略)実際には、市民社会は、絶えず、最初から、市民社会の条件でもなければそれに追加されるものでもないような一つの権力を分泌するのだということです。(p374〜375)

こうした恒久的な社会としての「市民社会」において、歴史を動かしていく原動力になるのは、「不均衡」の原因としての経済ゲーム以外にはあり得ないことになる。

利己主義的利害関心こそが、したがって経済ゲームこそが、市民社会のなかに、それによって歴史がそこに絶え間なく現前することになるような次元、それによって市民社会が不可避的かつ必然的に歴史のなかにはめ込まれるようなプロセスを導入することになるのだ、というわけです。(p378)

ファーガソンを引きながらフーコーが描いていく「市民社会」の像は、自由主義思想の、いやむしろ新自由主義(ネオリベ)の産み出す究極的な社会のあり方のようにも見える。

この講演が行われた時期(70年代末)は、サッチャー政権が登場するぎりぎりのタイミングであるが、そこには、ネオリベ化し、やがてポピュリズム化していく社会の未来が見通されているかのようである。

市民社会という自由主義的な思想は、現実にはポピュリズムへと帰結するものだったのだろうか。

フーコーの、この本での分析は、契約や法権利の言葉が、もはや機能しがたくなる新自由主義的・ポピュリズム的な世界の由来と実像を、予見的に描き出していると言えるだろう。