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アントニ・ガウディ

2016-05-25

バルセロナのガウディ建築案内番外編(50)

ガウディがデザインした?Escorial通りの家
1899年11月の日付のある建築申請用の数枚の図面が市役所には保存されていている。これには同年12月1日に市の建築官ファルケス(Pere Falqués Urbí (1857-1916年)によって申請承認のサインが付け加えられている。どうやら施主は画家のクラペス(Aleix Clapés i Puig, 1850-1920年)で、2児をもつ未亡人と結婚し、この家の新築を思い立った。クラペスはパリで学んでバルセロナでは画家として確固たる地位を築いていた人物であったが、ガウディとはサン・ジュックの美術アカデミーで顔を合わせていた。ガウディはグエルの居館パラウ・グエルを設計依頼を受けた時に中央サロンのヘラクレスの絵などの担当に起用しているように画家としてグエルに紹介するに相応しいそれなりの名声を得ていた。パラウ・グエルのためにガウディに協同していた時にはクラペスはパラウ・グエルがある街中のノウ・デ・ランブラ通りの55番地に住んでいたが、結婚して郊外のグラシアに移るためにこの申請図面を出した。その図面にガウディのサインがあるのだ。
ガウディとの関係はサグラダ・ファミリアの発起人、ボカベージャのポートレートを描いているという繋がりもあったし、パラウ・グエルの後、カサ・ミラの玄関周りの天井画を描くように依頼している。
さて、このガウディの知られざる作品は、翌年の1900年に着工し、更にその翌年の1901年に完成している。場所は当時建設中であったグエル公園サグラダ・ファミリアの間にあり、ガウディはその後も日常的に通ったエスコリアル通りだが、友人クラペスに名義を貸したというのが実物を見れば分かるし、グエル公園のような大きな工事も無許可で着工したガウディであるが、友人のクラペスが市役所と問題を起こさないように配慮してこちらのほうはちゃんと建築申請をしたのだろう。

所在地:Carrer Escorial, 123-125 Barcelona
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ガウディのサインの入っているクラペスの家のファサード展開図
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現在の同家
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側面ファサード
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クラペスの描いたパラウ・グエル内の絵の一つ
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クラペス作Manuel Dalmauのポートレート(1915‐1919年)、MNAC蔵

2016-03-23

バルセロナのガウディ建築案内番外編(49)

グラノジエールスのサン・エステベ教会
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鐘塔が残ったサン・エステベの教会の現在の様子
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スペイン戦争時1936年7月20日空襲にあった教会内陣

1879年11月25日ガウディバルセロナから鉄道で30分ほどにあるグラノジェールスに「カタルーニャ主義科学遊覧協会」の一部のメンバーと遠出している。目的は町にある一番大きなサン・エステベ教区教会(Sant Esteve, Granollers)が修復工事をしている最中で、修復担当者に「カタルーニャ主義科学遊覧協会」として意見を述べるのが目的だった。この教会は1480年から16世紀にかけてゴシック様式で建設された、その後ルネッサンスバロック期に改装増築されている。しかし、この教会はスペイン戦争で空襲にあい、身廊部分は大破し、鐘塔だけがかろうじて残されている。現在見られる教会は1940年以降の修復されたもので身廊の柱はじめ主な部分はRC造の教会となっている。ガウディがどう係わったかは定かではないが、遠出のメンバーの中の唯一の建築家ガウディであった。祭壇のパネル4枚は幸いにも美術的な高い評価1917年に教会から移転されていて、現在ではカタルーニャ国立美術館(MNAC)のコレクションとして保存展示されている。
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教会から持ち出されていたので戦火を逃れ現在まで残されている祭壇画

現在の教会の内部には記憶として空爆以前のペーヴメントが一部残されて、壁に掛けられている。一部黒くなっている部分は空襲の生々しい痕だろうか。このデザインはベージュ色の自然石をベースとして、格子状に緑の自然石を並べ、1m各に床が切られていたのだろうか。そして、一部にはやり同寸法のタイルがはめ込まれている。タイルは緑と白を使ったデザインものだ。これはセメント・タイルといわれるもので、19世紀中頃に南フランスで生まれ、モデルニスモ時期以前からインテリアの床としてカタル−ニャでは競って建築家は使った床材である。セメント・タイルは様々な模様がでるような仕切りのある型があり、これに複数の着色したセメントを流し込み、裏には接着性能を上げるためのザラットしたモルタルで嵩上げする、更にこれをプレス機にかけてセメントの中に残る空気を追い出し、24時間は水中で養生し、その後は3週間日陰で干すという、非燃焼型のタイルだ。
ここで使われているセメント・タイルは無論ガウディがカサ・バトリョのためにデザインしたような高度なテクニックも使われていないが、ガウディのもではないという証拠もない。
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一部残された内陣のペーヴメント
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修復されたサン・エステバンの教会
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所在地:Plaça de l´Esglesia, 1, Granollers, Barcelona

本編はこちらです

バルセロナのガウディ建築案内 (コロナ・ブックス)

バルセロナのガウディ建築案内 (コロナ・ブックス)

2016-03-22

バルセロナのガウディ建築案内番外編(48)


グエルの新居パラウ・フォノジヤールPalau Fonollar
1871年11月29日、グエル家の御曹司エウセビ・グエルは25歳でアントニオ・ロペス・イ・ロペスの娘イサベル・ロペス・イ・ブル(20歳)と結婚している。この結婚自体スペイン実業界史上に残るべく記念すべき出来事だった。何しろスペイン有数の財閥を築いていた二つの家族が親族となるという一大事件であった。結婚式は義父の居館であるモヤ宮内の大サロンに面する小さなチャペルで執り行われている。
そして、父親ジョアン・グエルの住んでいたラス・ランブラス37番地の家に同居するのではなく、アントニオ・ロペスの住んでいたパラウ・モヤに隣接する家の一部を借りて新居とした。パラウ・フォノジヤールがそれだ。グエルは父以上にアントニオ・ロペスを慕っていたという。そのためだろう隣の家を借りているのだ。しかもロペスの家は宮殿と呼ばれるに相応しい堂々とした構えなのに対し、こちらどちらかといえば変哲も無い建物で、これも義父への遠慮からか、それともグエルの驕りを見せない性格からだろうか。
さて、グエルの長女イサベルの家はガウディが改装わけだが、この家はガウディに設計させるわけにはいかなかった。グエルはまだガウディのことを知らなかったばかりか、ガウディ自身は1871年にはまだ学生だった。
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パラウ・フォジャール概観
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同メイン・パティオ
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内装を担当したのは当時の代表的な建築家マルトレイの元で、アントニオ・ロペスのパラウ・モイヤの改装を担当したカミリ・オリベーラス・イ・ジェンサーナCamil Oliveras i Gensana (1840- 98年)だった。このオリベーラスはもともと工匠のタイトルを持ち建築の仕事に従事していたが、その後建築学校に入り直し1877年建築家のタイトルを得ている。オリベーラスはドメネク・イ・モンタネール、ジョセップ・ビラセカなど当時の代表的な建築家のもとにも学び、建築学校を卒業した1877年にはバルセロナ県の建築官となり、県立出産病院(バルセロナ、1889-98年)、県庁舎(現在の州政府の建物)のメイン・エントランスなどをこの時期に設計している。ガウディとの接点はジョアン・マルトレイに協働してカスペ通り27番地のジェスイット派の修道院付属教会(1883-85年)の設計を担当した時期であった。マルトレイの事務所で両者は机を並べていたわけだ。ガウディはエル・カプリチョで設計に協力してもらい、その後もグエル館で主にインテリアを担当しサポートしている。といってもグエルとの繋がり自体はグエル館以前、今だグエルがパリでガウディのショー・ケースを見る以前からグエルを知っていたわけで、ガウディは工匠であったオリベーラスの建設上の実務経験の豊かをかっていたばかりか、パラウ・フォノジヤールの改装をしていてグエルのことをよく知っていたオリベーラスであったから心強い協同者だった。
しかし、グエルはオリベーラスの改装が気に入らなかったらしく、改装後、プジョール・イ・バウシス*から1500枚のセラミックを買い、手を加えている。このセラミックはパラウ・グエルが完成すると剥がして、ガウディは屋上の煙突に使っている。
また、その後ガウディに依頼したパラウ・グエルは父親の家との連絡路を設けさせている。
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グエルが手を入れるためにタイルを使って自ら改装したが、パラウ・グエルが完成するとそれを剥がしてガウディに使わせた。
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ジョアン・グエルのラス・ランブラスに面する家
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父の家とパラウ・グエルをつなげる通路
現在はフェラン・アドリアのファンデーションがある。

所在地:Puertaferrisa, 7-9, Barcelona

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