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アントニ・ガウディ

2016-08-01

ペラ・カセージェス・イ・タラッツ

建築家ペラ・カセージェス・イ・タラッツ(Pere Caselles i Tarrats, 1864-1936年)はガウディより1世代若い、レウス生まれの建築家だった。父親はやはりレウス生まれで、製造業従事、母親の実家はタラゴナで繊維業を営んでいた。兄弟のジョセップ・マリアはワイン販売の仕事をしていて、やはりレウス出身のマリア・セギモン・イ・ヌデイジョス(Maria Segimon i Nudillos)と結婚している。
ペラはガウディが学んだエスコラピオスの中学校に学んだ後、バルセロナへ出て、建築を学んでいる。ガウディより11年遅れの1889年建築家のタイトルを得ている。
翌年にはレウスの市の建築官の代理としてサン・ラモン教会の修復の仕事をしているが、学生時代から協働していた建築セバスティアン・カボットの死にそのポジションを受け継いで、レウスにとどまっている。カセージャスはレウスに生涯とどまり、ほぼすべての建築活動をこの町で展開している。その中には民間の仕事もあれば市の建築官としてパブリックな仕事も残している。
しかし、彼の最大の貢献は時代の建築界の大御所ドメネク・イ・モンタネールをレウスに招き、数々の作品をこの町に残させたことだろう。ドメネクは建築学校時代の師弟関係にあり、尊敬もしていたが、同郷のガウディとは疎遠であった。そのためにガウディは生涯故郷で何も作品を残さなかった。一方でドメネクはバルセロナに次いで沢山の作品を残したのがレウスだった。
といってもカセージャスがガウディを毛嫌いしていたわけでもなく、1915年にサグラダ・ファミリアの資金調達不足に建築家協会も立ち上がって寄付を集めようとした時、カセージャスはこの会報に『サグラダ・ファミリア贖罪教会』という論文を発表している。
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ドメネクの設計のサン・ペラ精神病院特別病棟娯楽室

2016-05-25

バルセロナのガウディ建築案内番外編(50)

ガウディがデザインした?Escorial通りの家
1899年11月の日付のある建築申請用の数枚の図面が市役所には保存されていている。これには同年12月1日に市の建築官ファルケス(Pere Falqués Urbí (1857-1916年)によって申請承認のサインが付け加えられている。どうやら施主は画家のクラペス(Aleix Clapés i Puig, 1850-1920年)で、2児をもつ未亡人と結婚し、この家の新築を思い立った。クラペスはパリで学んでバルセロナでは画家として確固たる地位を築いていた人物であったが、ガウディとはサン・ジュックの美術アカデミーで顔を合わせていた。ガウディはグエルの居館パラウ・グエルを設計依頼を受けた時に中央サロンのヘラクレスの絵などの担当に起用しているように画家としてグエルに紹介するに相応しいそれなりの名声を得ていた。パラウ・グエルのためにガウディに協同していた時にはクラペスはパラウ・グエルがある街中のノウ・デ・ランブラ通りの55番地に住んでいたが、結婚して郊外のグラシアに移るためにこの申請図面を出した。その図面にガウディのサインがあるのだ。
ガウディとの関係はサグラダ・ファミリアの発起人、ボカベージャのポートレートを描いているという繋がりもあったし、パラウ・グエルの後、カサ・ミラの玄関周りの天井画を描くように依頼している。
さて、このガウディの知られざる作品は、翌年の1900年に着工し、更にその翌年の1901年に完成している。場所は当時建設中であったグエル公園サグラダ・ファミリアの間にあり、ガウディはその後も日常的に通ったエスコリアル通りだが、友人クラペスに名義を貸したというのが実物を見れば分かるし、グエル公園のような大きな工事も無許可で着工したガウディであるが、友人のクラペスが市役所と問題を起こさないように配慮してこちらのほうはちゃんと建築申請をしたのだろう。

所在地:Carrer Escorial, 123-125 Barcelona
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ガウディのサインの入っているクラペスの家のファサード展開図
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現在の同家
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側面ファサード
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クラペスの描いたパラウ・グエル内の絵の一つ
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クラペス作Manuel Dalmauのポートレート(1915‐1919年)、MNAC蔵

2016-03-23

バルセロナのガウディ建築案内番外編(49)

グラノジエールスのサン・エステベ教会
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鐘塔が残ったサン・エステベの教会の現在の様子
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スペイン戦争時1936年7月20日空襲にあった教会内陣

1879年11月25日ガウディバルセロナから鉄道で30分ほどにあるグラノジェールスに「カタルーニャ主義科学遊覧協会」の一部のメンバーと遠出している。目的は町にある一番大きなサン・エステベ教区教会(Sant Esteve, Granollers)が修復工事をしている最中で、修復担当者に「カタルーニャ主義科学遊覧協会」として意見を述べるのが目的だった。この教会は1480年から16世紀にかけてゴシック様式で建設された、その後ルネッサンスバロック期に改装増築されている。しかし、この教会はスペイン戦争で空襲にあい、身廊部分は大破し、鐘塔だけがかろうじて残されている。現在見られる教会は1940年以降の修復されたもので身廊の柱はじめ主な部分はRC造の教会となっている。ガウディがどう係わったかは定かではないが、遠出のメンバーの中の唯一の建築家ガウディであった。祭壇のパネル4枚は幸いにも美術的な高い評価1917年に教会から移転されていて、現在ではカタルーニャ国立美術館(MNAC)のコレクションとして保存展示されている。
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教会から持ち出されていたので戦火を逃れ現在まで残されている祭壇画

現在の教会の内部には記憶として空爆以前のペーヴメントが一部残されて、壁に掛けられている。一部黒くなっている部分は空襲の生々しい痕だろうか。このデザインはベージュ色の自然石をベースとして、格子状に緑の自然石を並べ、1m各に床が切られていたのだろうか。そして、一部にはやり同寸法のタイルがはめ込まれている。タイルは緑と白を使ったデザインものだ。これはセメント・タイルといわれるもので、19世紀中頃に南フランスで生まれ、モデルニスモ時期以前からインテリアの床としてカタル−ニャでは競って建築家は使った床材である。セメント・タイルは様々な模様がでるような仕切りのある型があり、これに複数の着色したセメントを流し込み、裏には接着性能を上げるためのザラットしたモルタルで嵩上げする、更にこれをプレス機にかけてセメントの中に残る空気を追い出し、24時間は水中で養生し、その後は3週間日陰で干すという、非燃焼型のタイルだ。
ここで使われているセメント・タイルは無論ガウディがカサ・バトリョのためにデザインしたような高度なテクニックも使われていないが、ガウディのもではないという証拠もない。
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一部残された内陣のペーヴメント
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修復されたサン・エステバンの教会
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所在地:Plaça de l´Esglesia, 1, Granollers, Barcelona

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バルセロナのガウディ建築案内 (コロナ・ブックス)

バルセロナのガウディ建築案内 (コロナ・ブックス)