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アントニ・ガウディ

2017-06-19

バルセロナのガウディ建築案内番外編(54)

グエルのコロニア・グエルの家
Can Solé
一般にコロニア・グエルと呼ばれる場所は工場部分と労働者の住む住宅そして、カジノ(今でいえば公民館)、劇場、学校、公売、教会(地下聖堂は本書の104〜107頁)、そして労働者の住宅と大きく2つにわかれている。工場は現在ではグエルの手から離れ工業団地として再生され、その一部が賃貸されて使われている。一方労働者住宅は今だかつてグエルの工場で働いていた子孫の一部が住んでいるが、現在の工場に働く人ではない住民がこれらの大半を占めている。この大きく分けて二つの間には実はカン・ソレ(アントニ・ソレの名前がイエス、マリアの名前とともにファサードの上部のまぐさ石に刻まれ、メイン・エントランスのキーストーンの部分には1692年という年号が入っている)という産業コロニーが建設される前の17世紀起源のマシアがある。このカン・ソレはチャペルを隣接させているという立派な家であるが、グエルがコロニーに来た時に使われた家で、外観はマシアだが、内部は手が加えられている。グエルは事業展開する場所にほとんど不動産を持っていたので、それは膨大な数に上っているが、うち良く知られているのは、ガラーフのワイナリーの横にガウディに作られたものだろうか。このインテリアの改装は誰が手掛けたのかは記録がないので定かではないが、素晴しい内部空間を持っているので、弟子のベレンゲールかルビオなのか、あるいはガウディのサジェスチョンもあったかもしれない。
マシアは一般にエントランスに入った部分は土間で、室内での農作業や、農機具、家畜などを入れるため、あるいはキッチンに充てられて、その上階が居住スペースとなっている。カン・ソレは中に入るとトップライトがあり、この構成が崩されている。この気持ちの良い空間は上階に上がると背面のファサード側には大きな開口が取られ更にダイナミックに展開されている。この大窓にはバルコニーが付きコロニー労働者住宅に向かって開けられているが、ここから労働者演説でもできるような外部にはオープンスペースが取られている。ここがメインのサロンである。
サロン中央にはマントルピースが一方にあり、耐火煉瓦をむき出しに使って囲っているがその内側の周辺には柔らかな粘土でもあるかのようにプレートを曲げた鉄細工がセラミックとともに使われ縁取りされている。全体では更にガウディが良く使ったプジュール・イ・バウシス社(本番外編32参照)のセラミックが貼られている。サロンなど全体に腰壁は木で縁取りされこの間はカサ・カルベを思い出させる板が斜めに貼られている。建具はこれも細工がされて、下部には開閉可能なメカニズムが付けられ、目隠しをされたまま換気ができるように工夫されているのも面白い。廊下にはパラボラ・アーチもある。
さらに興味があるのは地上階で、ここも誰かの手によってアーチを補強する工事がされたのが見えるが、ここではコロニーの教会設計のために懸垂模型が作られた最初の場所でもあり、地下には地上に出ることなく工場へと通じるトンネルもある。
所在地:Colònia Güell
アクセス:スペイン広場からFGCでColònia Güell下車, あるいは全ての列車が止まるMilí Vellで下車し700m歩く。個人住宅なので一般公開されていない。
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2017-06-16

バルセロナのガウディ建築案内番外編(53)

マヌエル・ジローナの家
本編である『バルセロナガウディ建築案内』34ページにはバルセロナカテドラルの正面ファサードのコンペが1882年に開催されたことが書かれている。建築家ジョアン・マルトレイは当時ガウディの当時の雇い主であり、ガウディはすでに建築家のタイトルを得ているものの、マルトレイの事務所でインターンとして働いていた時期の事であった。このコンペでガウディドラフトマンとして絵を描き、レタリングは75年以降建築学校で教鞭を取りはじめ将来を約束されていた若手建築家であるドメネク・イ・モンタネールが担当。筆頭建築家のマルトレイはむろん建築家とし社会的な地位を確固としていたのは勿論、教会とのコネも十分あるという最強のメンバーであった。
審査の結果は建築家でもないが、資金援助を申し出ていたマヌエル・ジローナ(Manuel Girona i Agrafel, 1817-1905年)の案が入選している。しかし、市民からのプレッシャーがかかり却下、そしてコンペに参加した一人であった司教座の建築家であったオリオル・メストレス(Josep Oriol Mestres i Esplugas,1815-95年)とその弟子であるアウグスト・フォントが設計を担当することになった。しかし、市民からの評判はこれも芳しくなく、設計変更を繰り返しているうちにどうもマルトレイが出した案に近い形で最終的に実現された。
このごたごたのあった時期にエウセビオ・グエルはガウディの参加したコンペ案を世間にアピールするために印刷代を負担して雑誌にこの案を発表させたりしている。
さて、このマヌエル・ジローナは、実業家の家に生まれ、父を受け継ぎ実業家になり、父親の創設した金融業の仕事を16歳で受け継ぎ、後に近代の銀行を築いた人物で、例えば1876年にはアントニオ・ロペスとともにイスパニア植民地銀行を創設し植民地政策に金融面からサポートした。1876年から77年にはバルセロナの市長を務め、88年万博コミッショナーでもあったし、モントリオール潜水艦建設の資金援助もしている。この息子の家が現存している。プロベンサ通りといってもパセイジ・デ・グラシアに隣接つまりカサ・ミラのすぐ前にある。1912年父親が死んで、Ample, 2番地の家から引っ越して、新市街に移った。設計は多才な建築家、エンリック・サグニエール・イ・ベラベッキアであった。
所在地:Provença, 298, Barcelona
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コンペのあった当時のカテドラル
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現在のカテドラル
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交差廊上に一般には付けられるランターン―タワーはファサード近くに付けられる
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カサ・マヌエル・ジローナ

2017-05-18

バルセロナのガウディ建築案内番外編(52)

アレージャのビセンスの家
1880年から11年間、若きガウディは夏の休暇をクライアントのビセンスの好意で彼が持っていたアレージャの村にある家で過ごしている。この家は現存してファサードにはそれを記念して大理石のプレートが市役所によって貼られている。これには「天才建築家アントニ・ガウディ1880年から1890年の間この家に過ごす アレージャ2002年4月」と市役所の紋章とともに刻まれている。ガウディは村のサン・フェリウ教会(本篇P.117頁収録)の側面の祭壇計画を作っているが、世話になったビセンスの家でも小さな仕事を残している。休みを利用してデザインし、プンティの工房で作らせたのだろうが、3点の家具を残している。うち一つが〈ガウディ友の会〉の手によって保存され、同会が運営していたグエル公園の中にあるガウディ記念館(本篇P.102頁収録)の展示されていたが、ガウディ記念館自体の管理がサグラダ・ファミリアに移り、近年の改装で見られなくなってしまった。サグラダ・ファミリアは現在のところ展示公開していない。

所在地:Anselm Clavé, 34, Alella, Barcelona
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グエル公園内のガウディ記念館に展示されていたビセンス家のためのマントルピース

バルセロナのガウディ建築案内 (コロナ・ブックス)

バルセロナのガウディ建築案内 (コロナ・ブックス)