1/9 シウタデージャ/ Ciutadella

ガウディはフォンセレと数年間にわたりこの仕事をともにしているが、フォンセレは1871年に市の主催のコンペで得た、当時の市内のビッグ・プロジェクトであるシウタデーリャ公園計画の建設に着手していた。この公園建設というか要塞を撤去してその代わりパブリックスペースを建設するというのはカタルーニャ人にとっては歴史的な中央政府への従属に対する開放を意味する一大事業であった、しかし、ガウディをシウタデーリャ公園建設へ走らせたのは他にも理由があったようである。
この要塞の起源は、はるかスペイン継承戦争(1701〜1713年)にさかのぼらねばならない。カルロス2世(1661〜1700年、在位1665〜1700年)の没後起きたハプスブルグ家とボルボン家との継承戦争であり、ボルボン家のフェリッペ5世(1683〜1746年、在位1700〜1724年)が勝つのだが、ヨーロッパ的にはハプスブルグかボルボンかということなのだが、カタルーニャアラゴンはハプスブルグ系であり、中央カスティージャがボルボン系であり、この争いでもあったのだ。このためにカタルーニャではレジスタンスは戦後の1714年9月11日の攻落まで続き、マジョルカ島では更に1年も続いたのであった。中央政府はこのカタルーニャの反乱を防ぐために市域に隣接するこの場所に要塞を作り武力でカタルーニャに圧力をかけようとしたのであった。カタルーニャでは現在もこの9月11日は祭日になっている。戦勝記念日が祭日ではなく、中央政府に対し没落した日、屈辱の日である。
このために要塞の建設は戦後間もなくの1716〜1718年に行われた。設計者はフランドル出身の軍事建築家Joris Prosper Van Verboom (1667〜1744年、スペイン語名ホルヘ・プロスペロ・デ・ベルボーン)で、ヴォーヴァンが考案した星形プランで、規模としては当時ヨーロッパでも有数の要塞であった。ヴァン・ヴェルブーンは父の時代からスペイン帝国に従事した軍事エンジニアで、ヴォーバンとも親交があり、スペイン領であった現在のベルギーのナミュール(旧スペイン領ネーデルランド、ハプスブルグ家の支配下にあった)の要塞化に協働している。
このカタルーニャとしては屈辱の要塞が非武装化され、緑地がなかったバルセロナにとっては重要な出来事であったが、歴史的、政治的にはそれ以上重要なことであった。市民に開放されるまでにはこれまた、何度かの屈折があった。1841年には軍部が撤去命令を発したが、2年後には再びボルボン家から修復の勅令がでた。最後にレウス出身の当時の軍の最高責任者であったプリムがこの要塞を市に寄付するという形で決着がついた。1868年の革命でこれは現実のものとなり、要塞および軍事施設の一部は取り壊された。現在も当時の建物で残っているのは、チャペル(現在は軍の教区教会)、総督館(現在、中学校)、兵器倉庫(現在、カタルーニャ議事堂)などである。

バルセロナの市街区に比べてシウダテーリャの異常な大きさが分かる。


現在州政府の議事堂となっているかつてのアルセナル


アルセナル平面

手前がチャペル、その奥が現在学校となっているかつての総督館

インテリアも軍付属にふさわしい質素なもの

側面