グエイの事業

さてグエイは芸術家・文学者の擁護と同時に,自らもその創造性を発揮し、箸作やら講演、そして発明などを残している。39歳の時つまり1886年にはパリで"L‘inmunité par les leucomaines” (角膜白斑の免疫抗体)を刊行し、注目を得ている。これを評して当時のパリの新聞は、次のような記事を残しているのである。「パスツールがこれについて唯一語るのみであるが、彼は獣医である。にもかかわらず、グエイ氏は医者でもなければ獣医でもないのである。」しかしこのほかに当時の60以上の専門家がこの発刊に言及し、その三年後には英訳がニューョークで出されたほどであった。このほかにも数々の著作があるが、良水源に恵まれないバルセロナ市へ自分の別荘のあるガラ—フから飲料水を給送しようという提案を出している"Abastecimiento de Barcelona. Manantial de Garraf, 1899”-といったものも、グエイの発明家としての指向を示している。
もう一方では工場経営者としての確かな手腕を示している。父親の始めたサンツSantsの綿工場は手狭になったため、1890 年3月バルセロナを離れ、労働者により良い食料と、より良い住宅の提供、子供たちの教育、身体の健全という目的のためサンタ・コロマSanta Colomaに工場を移し、コロ ニーをつくっている。これは30年前父親によって買われた土地であるが、彼自身ではセメント工場をカタロニアへ導入したことが記録されるべきである。企業的には必ずしも成功しなかつたのは周囲の人々の言った通りだったが、現在もその村にはグエルの功績を讃えたモニュメントといささか落ちぶれたとはいえ工場、労働者住宅などにグエイのかっての事務所も残っている。
またこんな話もある。1905年の2月、コロニア・グエイの工場でひとりの若い見習工が過って沸騰した染料の釜へ落ちた。火傷は体全体に及び、重体である。若い見習工の命を救えるのは健康な皮膚を移植することだけである。しかしだれが自分の皮膚をくれてやるものか、この当時のことである。切り取られた方が逆に命取りになるかもしれないし、宗教的問題も絡んでくる。ところがまつ先に皮膚提供を申し出たのは、外ならぬグエイの五人の子供のうちのふたりの息子であった。ほかに20人ほどの労働者がこれに続いて申し出て、若い見習工を救ったのであるが、これに対して時の法王ピオ十世、スペイン王アルフォンソ13世は最大の賛辞を送ったという。これはコロニア・.グエイの雰囲気とその設立者グエイの雰囲気をよく示した事件である。
グエイはそのグエル公園内の家"ララ—ドの家"で72歳の生涯を閉じるが、その死は息子クラウディオの死の悲しみに耐えかねてというものであつたが、このクラウディオは若い見習工に皮膚を与えたひとりであり、それ以来病弱となつていたのであった。

コロニア・グエイのグエイとガウディ