3/8 アストルガ司教館


ジョアン・バプティスタ・グラウ・イ・バジェスピノスJoan Baptista Grau i Vallespinós (1832〜1893年)アストルガ司教としては1886年以降務める。

レウスの人グラウは1886年10月16日、アストルガAstorgaの司教として当地に赴いた。アストルガはかつてのレオン王国、近代における旧カスティージャ地方にあたり、主都レオンから50キロほどマドリッドよりというかポルトガルに近い、カンタブリア山系の麓に位置し、個性的なゴシックのカテドラルを持つ小都市である。
グラウの司教就任から間もない、同年12月23日の早朝、司教館は火災にあい、全焼の憂き目にあう。そこで支給それに代わる館が緊急の必要時となったのであるが、教会は教建築家すら持たないありさまで、市の財政も芳しいわけではなかった。結局は政府を頼りに再建議会は翌年の2月末日、建築家をバルセロナ在住のアントニ・ガウディ・イ・コルネに委任する旨を決議すし、政府へ報告した。
グラウ司教とガウディの関係は既に少し触れたように、タラゴナのヘスス・マリア教会礼拝堂(1880〜1882年)、あるいはサン・アンドレスに同宗派教会礼拝堂(1879〜1881年)の依頼者として、あるいは同郷の人物として親しい間柄とも考えられるが、その辺りの関係は明らかではなく、“アストルガのガウディ”の著者アォンソ・ガベーラのようにその年齢差、分野の違いから親友説を否定しようという考え方もあるが、どちらにしろ司教はガウディの才能を理解していたことは確かなことであろう。