サン・フェルナンドの意見書

サン・フェルナンドの美術アカデミーは政府の代理として、教会建築のプロジェクトに意見を述べることを委ねられているわけだが、その意見は「承認できうる」という必ずしも望ましい回答ではなかった。アカデミー教授連によれば,屋根の構造的な弱さ、窓枠の寒さに対する配慮の欠陥、階段のデザイン上の問題、円柱の貧弱さを指摘してきたのであった。当然政府としてはこの意見書を読んで軽々しい許可を出すわけにはいかなかったが,建築家を当地に送りこみ、土地の事情を理解させ設計変更をさせようとした。
こうして建築家はアストルガを訪れる機会を得るのであったが,アストルガに着いて驚いたのは何のことはないガウディの方であった。というのも,その土地と風景が想像していたところとまったくもって違っていたからであった。ガウディはアストルガの街を、ゴシックに溢れた、モニュメンタルな古い町としてイメージレていたのである。せい高の尖塔アーチ,か細い柱頭,大胆な二重アーチ,そういったものが建築的風景を飾っていたと思っていたのであった。少なくとも,グラウ司教から送られたた写真や書物から見たところではそう思えたのである。
ガウディはそこで計画案を練り直すことを決心した。何日も町を歩きまわった。最初の計画を頭に入れ、町の観察をそれに加えながら練り直していったのである。残念ながら我々はこの図面を失なってしまったが,現在我々が目にするアストルガ司教館の大半はこの時に計画されたものである。
ところが問題は建築上のことだけではなく,財政上の問題も浮かび上がってきた,というのも建設委員会の最初の考えでは15万ペセタ,ところがガウディの最初の見積もり179.726ぺセタ78センチモ、最終的には169.521ぺセタ78センチモで大幅に上回っていたのである。ところがこれも幸いにも当時アストルガ出身の熱狂的援助者がスペイン銀行の要職についていたため解決され,計画完成後2年を経た1889年6月24日ガウディ立ち会いのもとに起工式が行われたのであった。

ガウディも見たであろう、プラサ・マヨールと市役所の建物