ジョアン・アルティーガス・イ・アラルト

Joan Artigas i Alart ( 1903年没)
クライアント。グエイをよく知り、尊敬さえもしていたアルティーガスはグエイがスペイン初のポートランド・セメント工場(Compañía General de Asafaltos y Portland Asland)を作っていたポブラ・デ・リジェットと同じ村で繊維産業を起こしていた実業家だった。グエイのセメント工場はバレンシア出身でニューヨークに出て大成功していたエンジニア・グスタビーノ(Rafael Guastavino Moreno, 1842, 〜1908年)が計画したが、ガウディは原料の採掘技術者のための鉱山に近い場所に住宅をグエイから依頼されていた。これは小さな山小屋を少し大きくしたような規模の住宅だったが、この現場を見に行った1902年のこと、アルティーガスの使いの者がガウディの泊っていたポブラ・デ・リジェットに現れ、アルティーガスに合ってくれないかという伝言を持ってきた。バルセロナからポブラ・デ・リジェットに行くには鉄道でリポイまで向かい、そこからは誰かが迎えにきたのであろうが、その後、ガウディが再度現場に向かう時にアルティーガスがリポイの駅まで迎えに来ていた。
アルティーガスの話というのはガウディが当時グエイのためにバルセロナで建設中だったグエイ公園のようなものを繊維工場に隣接した敷地に作りたいという設計依頼だった。
ガウディは翌年の1903年春雪解けを待って現場が再開された時に設計図を携えてアルティーガスと合って二晩ほど彼の家に厄介になっている。
現場に入ってからはグエイ公園の左官を二人ばかり送り込んで、地元の左官を指導教育しガウディの設計意図を現場に反映させようとしている。しかし、アルティーガスはこの年の暮に完成を見ず亡くなってしまった。その弟ジョアン・アルティーガス・イ・カサス(Joan Artigas i Casas)は遺志を継ぎ建設を続行、1906年にほぼ完成させている。1910年には再度ガウディはチャンスを見つけ現場を訪れたという記録がある。その後はスペイン戦争で焼き討ちにあい、ガウディの図面ばかりか工場までもが無くなってしまった。

ジョアン・アルティーガス