リポールの修道院/Monasterio de Santa María de Ripoll

リポールのサンタ・マリアはたび重なる火災に、その時4度目の修復となり、今日の姿はほとんどこのオリーバ司教の修復時のものである 。会堂の建築面積は2500平方メートル、身廊長さ70メートルを越え、幅は35メートル半、翼廊は40メートル、それに大小7つのアプスがつくという当時としてはきわめて大きな構造物である。
五身廊の内部はリヴのないトンネル・ヴォールトで覆われ、側廊の角柱と円柱の交互の配置には、ロンバルディア様式から摂取した過渡期的な姿が見い出される 。
ところがこのプランは旧サン・ピエトロのそれを想い起こさせるのである 。しかしこの教会堂をもっとも美しくしているのは、正面ファサードを飾る彫刻であろう。これは教会建設後1世紀ほど経てつけ加えられたもので 、レコンキスタの勝利を記念したカトリシズムの凱旋門といった意味を持ち、後に述べるサンティヤゴの道に同種の手法が表われている 。
クシャのサン・ミゲルは現在のフランス側のピレネー山中にある、953年創設の修道院である。当初この教会堂はモサラベ様式によって建てられていた 。オリーバはこの方形のアプスを身廊の幅ほどに広げさらに延長させ、結果的に周歩廊というものを形成させている。
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リポール修道院教会堂、七つのアプスのシリンダーはすごい迫力です。といってもこれは後の修復にあっています。

プランは三身廊形式

正面ファサードはロマネスクの凱旋門と俗に呼ばれているように彫刻で埋め尽くされている。
74年撮影

リポールのオリーバ/Oliva de Ripoll

オリーバはバルセローナ伯の子として生まれ、いくつかの領地を治めるが、21歳という若さで、リポールの僧院へ入り、俗界との関係を絶ってしまう。その後たび重ねてローマへの旅をし、リポールやクシャの修道院にさまざまな特権や免除を法王から願い受けたり、新たに司教座を設置することに尽力し、1018年にはビィック(Vic)の司教に就く。以降、ビィック、クシャ、リポールの修道院長を歴任しているが、彼は多くの廃村を再興させ、教会を整備させ、文学的貢献を残し、その死はカタルーニャ中世を嘆かせている。
さて、このオリーバ司教は、リポールの教会を1032年、クシャの教会を1035年、ビィックのカテドラルを1038年に、当時国際様式化していたロンバルディア様式をもって修復し、奉納しているのである。
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リポールの修道院正面ファサード。ポーティコの奥にあるメインエントランスの彫刻を保存するためにガラスが張られているが、この工事中。
1973年3月撮影