小野不由美『屍鬼』とスティーブン・キング『呪われた町』

アサです。小野不由美氏について触れたのでついでに『屍鬼』にもちょっと。

いうまでもなく件の作品は、スティーブン・キング呪われた町』へのオマージュである。ていうか本人が後書きで述べている。

ネットに散らばる「屍鬼」についての書評(と呼べないものまで含めて)を読んでみると、「『屍鬼』が『呪われた町』をモチーフに書いたのは、尾崎紅葉がバーサ・M・クレーの『Weaker than a Woman』をモチーフに『金色夜叉』を書いたように、日本文学界における伝統ある行為なり!さすが主上!」みたいな論調がいくつかあったんですが、これは過小評価じゃないかなーと、思うわけです。

面白いのは、キングを下敷きにした云々以前に、そもそも、当のスティーブン・キング様の「呪われた町」が、ブラム・ストーカーの「ドラキュラ」の再構築によって書かれたことを、誰も指摘していないところです。これは、キング好きなら当然踏まえているはずの事実だし、なによりキングが作品ノートの中で述べてます。

で、当時からキングのファンで『呪われた町』も『ドラキュラ』も読んでいた私としては、少女向けファンタジーで名を馳せた小野不由美の期待の新刊『屍鬼』が、各登場人物の描写の積み重ねから、伏線の張り方まで、真っ向からキングと張り合う内容だったことに驚き、彼女をえらくかっこいいと思ったのを良く覚えています。

つまり、小野不由美氏は、『ドラキュラ』の再構築である『呪われた町』を、さらに再構築して『屍鬼』を上梓したわけです。これって、単にキングへオマージュをささげるだけでなく、『呪われた町』の書かれ方そのものにもオマージュをささげたことになると思いませんか。良い題材は時代を経ても人々を惹きつけ続ける、作品を持ってその真実を実践した小野不由美氏。かっこいい。しかも作品の作り方まで含めてガチで組み合った相手がスティーブン・キング。かっこいいとしか言いようがありません。

小野不由美『十二国記シリーズ』と『悪霊シリーズ』に共通するテーマ

どーも!アサです!
最近、小野不由美氏の初期の少女小説?であるところの悪霊シリーズが全編リライトの上、復刊されましたね。

http://www.mf-davinci.com/yoo/index.php?option=com_content&task=blogsection&id=14&Itemid=88

というわけで数年ぶりに主人公麻衣の一人称語りに触れて「ふわー」とか「ぽむ」とかなってたわけですが、何となく、同じく(キャリアからすれば比較的)初期からのシリーズである十二国記の展開とあわせて、気づいた共通点をメモしておきます。

それは、漠然と「ある」とされている事象への徹底的な疑問です。悪霊シリーズでは心霊現象、十二国記シリーズでは神の存在と世の成り立ちについて、とことんまで否定を重ねている作品です。私は、これが各シリーズにおける氏の裏テーマにつながっているような気がしてならないんですよ。

ちなみに裏テーマってのはなんというか、あらためて喧伝されるようなキャッチーなものじゃなくて、作者が作品の内に秘めた商業的じゃない想いっていうか、言わざるテーマっていうかそういうことを指してます。

さて、悪霊シリーズの第一巻では、心霊現象は「なかった」という結論で終わります*1。主人公が属する集団も、サイキック「リサーチ」であり、決して心霊現象を前提としているわけではありません。復刊ではなく、オリジナルの講談社ティーンズ・ハート版のあとがきで作者自ら、「全く信じていません」と語っています。

これが、どーにも文字どおりの意味に受け取れません。主人公のボスであり、中心人物であるナルこと渋谷一也は、徹底的に科学的なアプローチで心霊現象解決の依頼に応じます。これが、ないよね?ないよね?と何度も作品中で確かめている印象を受けるのです。で、続きではいろいろ霊とか出てきてしまうのですが、ここまで科学的に分析して、なんか霊とかいちゃったらもうしょうがないよね?ね?ね?と。

もちろん、科学的に否定に否定を重ねた上で、否定しきれない心霊現象を出して、その説得力を増すという手法とも受け取れます。が、やはり、主人公麻衣の「だっていたほうがロマンがあるじゃん」の台詞にも現れているように、作品からは、いるかもね、いたらいいよね、の印象を受けてしまいます。というわけで、実はこれが裏テーマではないでしょうか。

もう一方、十二国記も、実は同じような試みを持っている気がするんですよ。こっちは、神はいるか否か、を問い続けているシリーズだと思います。(約10年前の)正編最新作『黄昏の岸 曉の天』では、いよいよ核心に触れるところまできました。十二国すべてを司る天帝の直下の位である西王母がでてきて瀕死の泰麒を癒してしまうのです。これに登場人物の1人がブチ切れます。「神なんていると思ってなかった。ああやって実在して、泰麒を癒すことができるなら、世界のこの惨状はなんだ!」と。続きは10年経つのでそろそろ出たらいーなーと思ってますが、未刊でございます。

同じくオリジナルのあとがきにて作者曰く、どう終わるかは決まっているとのことですが、私には『風の谷のナウシカ』が世界の変化と自分の変化に応じて、どうしても最初に想定していたラストで終わらせることができなかった宮崎駿の姿がダブってしまいます。はたして、小野不由美氏にとって20年前と、今の答えは等しいのでしょうか。この刊行ペースの影には、自分が答えを得るまでは作品も完成し得ない型の創作スタイルがあるような気がしてなりません。神は在るか在らざるか、在るならば我々にとって何なのか。

さらにちなむと、十二国記では、既存の家族の概念を否定する実験も行われていたり、また別の小説『屍鬼』では、同じく神の不在が1つのテーマとなっていたりもしますが、それはまた別の話。

で、当『東京マジカルボーイズ』ですが、主上にあやかって、裏テーマを設定したいと思います。私たちが一生かけて探す答えを、少年達にも一緒に探してもらいたい所存です。

さて、だいぶ間が開きましたが、当ブログ、いよいよ再開です。ここしばらくずいぶんと世界や少年達の設定を詰めていました。もうちょっとしたら企画書でもアップしようかなーと思っています。それでは、本年も宜しくお願いします。

*1:超常現象は起きます

設定その1

気がついてみれば。肝心の「東京マジカルボーイズ」について何にも書いていないじゃないですか。これはいけません。何故ってここは「東京マジカルボーイズ」企画日記。なので今日はきちんと書きます。まずは大まかなところから。

―設定その1―
『魔法使いが男の子だっていいじゃないか』

「男の子達が主人公の魔女っ子ストーリー」があったらおもしろいんじゃないかな?と思ったのが企画のきっかけです。
元来、「魔女っ子」と言えば女の子向け、「ロボット」と言えば男の子向け、と、割とはっきりとジャンル分けがされてきました。でも昨今、その境界線は曖昧になりつつあります。男性も女性も大人も子供それぞれを楽しむようになってきました。「女の子が主人公のロボットストーリー」だってあります。もちろん、男の子が主人公の魔法ものが今までなかった訳ではありません。でも、それらは戦隊ヒーロー(特撮)だったり一部特定女性向けなどです。
私達が企画したいのは、可愛かったりカッコ良かったりする、私達が子供の頃から見てきた「魔女っ子」の男の子版なのです。
魔法使いサリー」や「魔女っ子メグちゃん」や「おジャ魔女どれみ」などの万能魔女っ子。「魔法のプリンセスミンキーモモ」や「魔法の天使クリィミーマミ」などの変身魔女っ子。「キューティハニー」や「美少女戦士セーラームーン」、「二人はプリキュア」などの戦う魔女っ子、など数々の名作魔女っ子があります。これらの主人公たちが男の子だったら……と仮定すると、さまざまな可能性が広がり、新しい世界観が生まれるのではないかな、と、思うわけです。

「新劇場版ヱヴァンゲリヲン:破」は、「サマーウォーズ」に比べて新しいようで、そうでもなかった。

アサです。

「新劇場版ヱヴァンゲリヲン」と「サマーウォーズ」について考えていたら、サマーウォーズに比べて新ヱヴァは作り方そのものが新しいなーと思ったけどやっぱ新しくないと思った話。

どちらも大好きな監督だし、楽しみにしている作品だけど*1、ネットで感想をいろいろ読んでみて、新ヱヴァに湧いてくるこのワクワク感と、サマーウォーズに対するちょっとがっかり感が引っかかったのでこれを書いてみました。


まず、テーマの違いが最初にひっかかった点。

作品を観ずしてこんなことを語るのはナンセンスだと分かっているが、どうにも僕は、サマーウォーズに対する「現代に感じることがあって、それを一般的に分かるように投げかけるスタンス」での細田氏の言動に、近年の宮崎駿の陰を見てしまう。世の中、最近こんなだけど、こういうのが良いんじゃない?みたいな。そして僕は近年の宮崎作品がどうにも苦手なのだ。これがサマーウォーズに対するプチがっかりの理由。

対して、庵野氏のテーマは旧エヴァから変わっていない。個人と世の中との向き合い方、つきあい方。世の中うんぬんの前に、無限に広がる個々の内がテーマです。今の僕にはこっちのほうが、身近だし、興味がある。


次にネットでは両作品を取り上げて、セルフリメイク、貞本氏によるキャラデザなどの共通点が指摘されているけど、個人的には、同時代性の取り扱い方の違いが興味深いところ。

「つらいけどがんばろうよ」とか「家族って大事だよね」とか、メッセージ自体はどちらもすごく普遍的。ただ、そのメッセージをターゲット層に伝えるにあたって、おそらく、身近なモチーフで興味を持ってもらうため、細田氏は「アバター」、庵野氏は「二次創作、MAD」を作品に取り入れてると思う。

細田氏は、地縁や家族といったローカルなネットワークの対比として、アバターが活躍するグローバルネットワークを扱う。ストーリーのアウトラインがおおむねウォーゲームをなぞるならば、作品の構造はきわめて古風だ。その中でおそらくアバターは、古風なテーマと受け手の架け橋としても機能しているんじゃないかなーと。

で、サマーウォーズにおける同時代性の象徴であるアバターの扱いが、あくまで物語に内包される要素に過ぎないのに対して、かたや庵野氏は、彼なりの同時代性のモチーフであるところの二次創作とMADを、作品そのものの枠組みとして取り込んでいるところが一番おおきな違いだなーと思ったわけです。

ファンによる二次創作で幾つも生まれた「ザザーン」もの、逆行ものの一つにすら感じてしまう、微妙に設定を変えて繰り返す物語。戦闘シーンで流れる「今日の日はさようなら」「翼をください」は唐突なようでありながら、歌詞の内容はシーンを代弁している。まるでMADの一形態。

僕は、最初これらを聞いて非常に新しいと感じた。でも、気づいたのだ。旧エヴァは同時代性のキーワードとして「ライブ感」を掲げて、作品の制作過程に取り入れていたじゃないか(後付けかもしれないが)。よく言われる「ループ」についても、テレビ版と劇場版でパラレルに迎えた結末は、新劇場版と構造が同じと言っていいと思う。

つまり、新劇場版ヱヴァンゲリヲンの新しさは、すでに旧エヴァで提示されている。新しくないのだ。あれ、それってガッカリじゃ?

いやいや「Q」とそれに続くであろう結末が楽しみでしょうがない。新世紀エヴァンゲリオンで続く10年のアニメに影響を与え続けた、時代を取り入れ、先取りする庵野氏が安易な二次創作的作品で終わるわけがない。どれだけ壊してくれるのか、期待しています。

*1:アメリカ在住のため未視聴

火曜日 晴れ

恵です。
ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」は、エヴァの同人サイト界隈でよく見かけるネタがかなり入っています。

例えばLAS*1でよくある「お弁当」ネタ、LRS*2でのアヤナミ初めてのクッキングネタ(指バンソコは忘れずに)、スーパーシンジ君*3、目赤白髪シンジ君等々。

そして序公開時から言われてる、新劇場版は、かつて大流行した二次創作ジャンルの逆行もしくはループものなんじゃないか、ってことについては、庵野監督自身が、所信表明で「エヴァはループする物語です」とはっきり宣言しています。最初はまさかと思いましたが、ここまでそろうと偶然ではなく、宣言どおりなんだと思います。

だとすれば、同じく所信表明から「本来アニメーションを支えるべき中高生のアニメ離れが加速していく中、彼らに向けた作品が必要だと感じ」、「現状のアニメーションの役に少しでも立ちたいと考え」た結果、二次創作の引用が行われているというのは、ものすごく意味深い気がします。

エヴァ同人は、1995年10月から始まったテレビ版放映当時から、2009年半ばの今に至るまで長い歴史があります。そのジャンルは拡張し、細分化し、融合し、変異し、エピソードからカップリングまで、無いジャンルはない!というほど多彩。また、上記のLASやLRSなどの用語も、知らない人には暗号ですが、その筋の方々には常識なのです。

新劇場版ヱヴァンゲリヲンは、二次創作の既存ジャンルに収まってしまうのか、はたまた、新たなジャンルを築くのか、それとも、私たちのまったく予想も付かない方向に二次創作を導くのか。こういった二次創作とエヴァという観点からも、新劇場版から目が離せません。

*1:ラブラブアスカ×シンジの略。アスカとシンジが(いろんな意味で)仲良くする系の話

*2:ラブラブレイ×シンジの略。レイとシンジが(いろんな意味で)仲良くする系の話

*3:シンジがATフィールド飛ばして使徒の首をはねたり、F1レーサーだったり、とにかくすごい力を持っているジャンル

日曜日 晴れ

恵です。
ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」について。
観た。すごい観た。真剣に観た。一生懸命に観た。そして思った。「お星様お願い。庵野秀明氏とアサがどうかお友達になれますように!」(私は人見知り)そして以下、ネタバレありの感想です。




"「序」と「破」は対照的である"。
静の「序」、動の「破」。暗の「序」、明の「破」。シンプルな「序」、複雑な「破」。
これが映画を観ての私の感想でした。

「序」は、一言で表現するなら旧"新世紀エヴァンゲリオン"でした。ほぼ変わらぬスタッフが、あれから年齢とキャリアを10年以上重ね、作ったエヴァ。一つ一つをじっくり吟味し作り直して、話の進め方も人物の掘り下げ方もより丁寧に作られています。"ヤシマ作戦"の逼迫した状況下で、懸命に働く職員の姿をたんたんと描いているシーンなどはとても印象的でした。けれど、決して「新世紀エヴァンゲリオン」という枠からは、はみ出していません。それ故に、当時、夢中になって観て、今も大好きなファンの方達にはぐっと来る作品になっているのでは、と思いました←特に私。とても「渋い」「大人っぽい」作品です。しかし、新しさは余り感じさせられませんでした。

対して、「破」は"現在"でした。ワンカットずつが短く、その画面一つずつや、物語の中に情報量が溢れるように詰め込まれています。が、その思わせぶりや人物を掘り下げることなく、割とあっさりと物語は展開していきます。とにかく緩急がはっきりしていて、とにかくスピードと勢いがある作品。「破」のこの感じ。なにかに似ているな、と、見終わったあと思いました。ハルヒとかマクロスFとか……?そう。それは現在のアニメ作品でした。私の中で、あの感じに似ていたんです。「新世紀エヴァンゲリオン」を、もし "現在のアニメ風"として新しく作り直したら…というふうに見えたんです。

「破」が「序」と比べてどれだけ速いかは、ヱヴァの数が3倍以上、使徒の数が1.5倍に増えて*1いることに端的に表れていると思います。

リメイクで始まった「エヴァ」、それが "ところどころ"から"どんどん"とスピードをあげて「ヱヴァ」に変わっていく。90年代(前世紀)のアニメが、2000年代(新世紀)のアニメと、時代を超えて融合し、rebuildされていく。古きから新しきへ、その変貌が作品中で行われている。すごい。

では、その次の作品となる「Q」は、「結(名無しさん)」はどんな作品になるのでしょうか?

「序」が過去、「破」が現在を表現しているということは、「Q」は、"未来"なのかもしれません。

そしてそれは庵野氏が所信表明で書いていた「疲弊しつつある日本のアニメーションを、未来へつなげたいという願い」に繋がっていくのかもしれない、と思いました。

*1:「序」:ヱヴァ(初,0)、使徒(4,5,6)に対して、「破」:ヱヴァ(初,0,2,3,4,5,6)、使徒(3,7,8,9,10)

金曜日 晴れ

どうも、麻十恵のアサ担当です。
「魔法少年たち」というテーマでいろいろ描いたり書いたりします。


何人組か、とか、どんな少年たちか、とか、これからどんどん設定を固めていきます。
公の場で二人で何かを作るのは初めてなので緊張していますが、
チャゲ&アスカくらい有名になるように頑張ります。
ちなみに、アスカ担当希望です。チャゲ式波・アスカ・ラングレーです。


とりあえず、同居している恵担当の人のためにも
自宅にあふれかえっている資料と称した大量のCDとゲームを片付けるところから始めます。
よろしくお願いいたします。