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空中楼閣*R25 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2010-10-07 エンドマーク

限りある永遠について

 そういうのを純愛とか、究極の恋だとかと言うのは、かなり狡い事だと思う。むしろ、かつての戯曲や物語のように、先が知れぬままに引き裂かれてしまう恋愛のほうが、ずっと純粋なものだと思う。

 最近の流行かもしれないが、相手が先に死んでしまうことが分っているような恋愛をもって、究極の愛などと言えるのだろうか。

 甘美な歓びに確実な喪失が定められている状況であれば、その残された時間が短ければ短いほど、人は恋愛の歓びと切なさを力とできるだろう。

 愛しい人の喪失、死というゴールが見えているから全力で走り、全てを捧げるような気持ちになれる。

 ゴールの見えない恋愛は辛いという人がいる。

 恋愛のゴールとは何だろう。同じ時間、同じ空間を共有することだろうか。それとも、それが日常となり、それ以降の人生となることだろうか。

 そして、互いの命が尽きるまでを過ごす。それがゴールだろうか。

 そうならば、やはり死がゴールと言えるのかもしれない。ゴールの見えない恋愛とは、互いの死、もしくは喪失がやってくるか見えない、そういう恋愛ということになる。死や喪失というゴールが見えていれば、辛くないというのだろうか。

 喪失がゴールならば、ゴールが見えない恋愛のほうが、私には嬉しい。

 寿命という喪失がゴールではなく、尽きるまで人生を共有できる状況をゴールと言うのかもしれない。

 だが、人生を共有するとはどういう事だろう。四六時中、同じ空間に居ることだろうか。視界に常に相手が存在することだろうか。五感のどこかで相手を感じ続けられることだろうか。

 あるいは、同じ時間を生きていると感じられる、ということだろうか。姿が見えず、声を聴けず、肌に触れることもなくとも、同じ時間を刻んでいると感じられれば、それが人生の共有、つまりゴールという人も居るのだろうか。

 相手だけが先に死んでしまって自分が置き去りにされるなんて酷い、という人もいる。私は酷いとは思わないが狡いと思う。先に死ぬ方がでなく、残るほうが狡いのだ。

 何故なら、旅立った人に未来の希望も、過去の記憶も、もちろん今の体温もない。けれど、残された人は恋の記憶という永遠を得るのだから。

 この先には希望がないし、抱き締める体温もないから、残されのは残酷だ、と言うかもしれない。

 けれど、ほんの数秒先の自分の運命すら見えてないのだから、次の希望を見いだせないとは言えないし、その先にある体温を抱き締められない定めだと結論することも出来ないのだ。

 手の届かぬ人は抱き締められないと言うかもしれない。触れることだけが恋愛だろうか。五感を超えて、相手を感じられるような関係を、なんと表現すればいいだろうか。

 

 人は永遠を望むくせに、終焉ともいえるゴールを知りたがる。

 永遠は時間の長さだと勘違いしてるからではないか。時間のことを言えば、永遠こそ煌めきのように瞬間なものだと、私は思う。恋愛のゴールとは、そういう意味での「永遠」のことなのだと思う。

 小さくて薄っぺらプラスチックカップに容れられたブロッコリーと小エビのサラダを、自分で淹れたコーヒーで流し込みながら、そんな事を考える昼休み。

 食事は命を長らえるため、そして、味わいの歓びのためにあるように、恋愛も生きる喜びのためにあるべきだから、永遠を望むなら一瞬を大切に抱き締めたい。

本当の永遠は

 ある作家の小説の中に「神様とは蚊ではないか」という文章が出てくる。私達が一方的に嫌悪し、小さな怒り以外の感慨もなく、叩き潰してしまう蚊こそが神様の姿だというのだ。

 そして手の中で潰れた神様を見て、私たちは密かでささやかな達成感を得る。小さな復讐が日常の何気なさの中で達成される。

 罪悪感にも似た、ささやかな幸福を私達に与えてくれる。潰されても文句も言わずに、だ。だから、蚊こそ神様の姿なのだ、と。

 出先でのランチは、いつものインドネシア・レストランだった。クミンウコンのスープにレモンスライスを浮かべて、サテとガッパオの辛さを口の中で中和していた。

 両隣のテーブルには、偶然だろう、どちらにも単身の老婆が座っていた。二人とも、片言の日本語を話す店の従業員とは顔なじみのようだった。なにしろ、座ったとたんに「いつもの、で、いいですか」と彼らは話しかけたのだから。

 しばらくして、右隣にも左隣にもバナナフライアイスクリームは運ばれて来た。右のテーブルにはトロピカルな花を挿した炭酸飲料が、左のテーブルにはビールが添えらていた。

「おはようは、何ですか」

 右のバナナフライを運んできたスタッフが、老婆に話しかける。

「グッド・モーニン」

 老婆が答えた。

「では、夜になると」

「グッ・ナイ」

「そうです、そうです」

 妙なアクセントの日本語で老婆を褒めて、笑顔で立ち去った。彼女は節くれ立った指でフォークを使ってバナナフライを切ると、歯の無い口へと運んだ。

 左のテーブルでは、「今日も忙しいねえ」と老婆が浅黒い顔のスタッフを捕まえる。

「はい。いそがしいです」

「いつも繁盛だね」

「は、ああ、はい、いつもね」

 繁盛の意味が分らないらしい彼も、笑顔で立ち去った。そんなテーブルに挟まれて、私は不意に「神様とは蚊なんだ」という文章を思い出したのだった。

 この世の中は、きっと全てとても何気ない、ささやかな事象の積み重ねで出来ているのだ。

 量子論が解き明かす宇宙の神秘とか、小難しい哲学とか、ややこしい財務諸表とか、嫉妬とか憎悪とか、愛だの恋だの、命がけだの、イカガワシイとかケシカランとか、そういう事もそんなに大仰に構えて口にするような事ではないのではないか、と思えてしまった。

 神様が蚊ならば、人は何だ。そんな人の営みには、何気ない時間がそのまま人生であるほうが正解だと思える。

 人の一生はこんなふうに暮れて行く。二人の老婆を視界の端で眺めながら、そう思った。

 さて、私はどんな夕暮れを歩もうか。

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