戦艦の論 THE SEVEN XIII「作ってる本人が、放射能を浴びて死んでしまいますがね。」






シン・ゴジラ』は、初代『ゴジラ』に似ている。それ以上に、今に通じるおもしろさでは、『太陽を盗んだ男』の方が圧倒的に似ている。下述のシンクロ要素を引き算しても、ゴジラシリーズとして成り立つかもしれない。しかし、ミリタリーシーンを除いたら、基本場面については、絶対に面白くはなっていない。よく引き合いに出される『エヴァ』は、少し似ている程度に過ぎない。






【考察】『シン・ゴジラ』への影響作品 5


太陽を盗んだ男似ているところまとめ(感想も混じる)


0.
『日本 対 俺』(原題) と「ニッポン対ゴジラ」のキャッチコピー

1.
山崎留吉と「ゴジラ第二形態」の焦点の定まらない目(キモ怖さ)


画像はイメージ(「せきかわ大したもん蛇まつり」より)
http://www.niigata-kankou.or.jp/sys/data?page-id=2222

2.
ジュリー と「ゴジラ第四形態」海より上陸 & 火炎放射

3.
化学プラントの描写と核物質の紫発光

4.
問題を軽視する政府と初動の混乱

5.
ラジオ聴取者の声とネットの声(動画) & デモ隊のシュプレヒコール(代々木のメーデー霞ヶ関の国会前)、標的を確保するが取り逃がす、再度狙われる東京

6.
民間(半官)各社の一斉協力(戦後政府初の強権発動)、京王線京急線のやられっぷり&国電中央総武線JR中央線山の手線京浜東北線のダイナミズム!!

7.
放射性物質露出・化学防護服着用、簡易な食事・着替え風景、電車&バスで監督カメオ出演、手配者の写真が黒沢清監督&岡本喜八監督、都心のモブ、ジュリーとゴジラが路上の車を蹴散らす・警察隊&自衛隊の包囲網を突破する・喉元に筒状の物体(ニューナンブ&プレーシングブーム)を突っ込む

8.
警視庁 & 警察庁長官へのダイレクトコール & ネゴ、ジュリーとゴジラに唯一の弱点が見つかる、反撃計画、陽動作戦、そして科学技術館屋上で最終決戦、ヴンダーとゴジラが何発撃たれても死なない、かつ、ぶっ倒れた後に極大反抗する

9.
沢井零子とカヨコ・アン・パタースンの、ほそいあごにぷっくり唇、たれ目がちでキュートな顔立ち、男社会と対等以上に渡り合える弁舌と、職場環境にそぐわない色っぽさ(ウェービーロングと胸開きドレス)

10.
要人避難計画 & ヘリに飛び乗るが被災、ジュリーとゴジラの声が段階的に変わる、熱核兵器爆発までのカウントダウン進む、万全対策とれず最後は賭け

11.
たった一人で引き起こした無差別大規模テロ(国家軍事力無効化を証明)

12.
上記人物(理系教員と科学者)の残した膨大な計算式とメッセージ、主人公が皇居を見下ろすビル屋上で本音吐露

13.
社会世相(過激化する反体制勢力・加速化を始めた消費経済・舞台型犯罪)の先取りと大災害(震災・原発災害)の反映(落とし前)

14.
東宝株式会社 製作・配給 & 劇中音楽の選曲が一分の隙もなく完璧 & 監督とメインキャラクターがゴジとゴジラ(キネマ旬報 2016年9月下旬号 特別企画が「シン・ゴジラ」と「長谷川和彦」)








【考察】『シン・ゴジラ』への影響作品 6





以下は過去ログよりの転載




第2部『サムライ交響曲






第10番第1楽章「撃て、撃ち殺せ、かまわん!」


『戦争の記憶』前編
http://www.variety.jp/eiganoron/samurai10-1.html


「ハグレニンゲン 対 最強アニマル軍団」の『猿の惑星』(1968)、
「先進民主国家 対 最強帝国海軍」の『トラトラトラ!』(1970)、
「開かれた国民的英雄 対 閉ざされた最強政府機関」の『カプリコン・1』(1977)。

作曲家「ジェリー・ゴールドスミス」は、存亡をめぐる闘いをテーマにした映画と所縁が深い。例えば、アクション映画の代表格とも言える『ランボー』(1982〜)シリーズ。ここでは、「国家システム 対 最強帰国兵士」の無茶苦茶な死闘を猛々しい楽曲を用いて表現して見せている。

キル アニマル

シリーズ3作目以降急速に人気を失う『ドリヴン』のシルベスタ・スタローンは、『ランボー 怒りの脱出』(1885/米公開)が日本で公開された約15年前の夏当時、若い男達の絶大なる憧れの的だった。ゴールドスミス節の良く似合う全身マッスルなその男が、ゴジラのような刃を持つ大型ナイフ(俗称「ランボーナイフ」)を研ぎ、高性能爆薬を矢じりに装着した「コンパウンド・ボウ」(弓)を放ち、「M60アサルト機関銃」を乱射する。無尽蔵な弾丸はすべて敵めがけて命中するが、高圧電流も機銃掃射も迫撃砲の乱打も、ナパーム弾の火炎も正確な空対地ミサイルも、「大怪獣ランボー」には通用しない。

傑作コメディー『ホット・ショット2』(「チャーリー・“プラトーン”・シーン」主演。その実父「マーティン・“地獄の黙示録”・シーン」もパロディーに協力している)の元ネタとなったこの映画を今さら誉めると知能程度を疑われそうだが、共産国兵士を虫けらのように殺しまくる派手なガンファイトの一方で、2作目までは割とヘヴィーなテーマと、質の良いシナリオを持っていた。

大国の都合で永い眠りの床から連れ出された「ゴジラ」に悪意がなかったように、あり余る力が便利すぎる都会の調和を乱そうとも、拘留されるランボー自身に原罪はない。「むしろ純粋に磨き上げられた彼が、鏡のように映し出した世俗世界の方がどこかゆがんでいた。」そして、祖国を愛しながら「時代システム」の変化にキャッチアップできず、はみ出し者にされるその孤独なベトナム帰還兵をスタローンは好演し、映画と無敵のヒーローの人気は絶頂を極め、多くの亜流ムービーを世に送りだすことになった。

坂下門外の変

武者宇宙服と忠君アンドロイドを登場させて、スペースホラーというB級ジャンルを芸術域に高めた「日系宇宙企業人 対 最強宇宙生物」の『エイリアン』(これまた音楽はゴールドスミス)が公開された20年以上前の日本映画には、すでに和製ランボーが登場していた。精神異常の旧帝国軍人を上洛させて、「ゴジラ」も避けて通った宮城への門を無理矢理こじ開けたのは、恐れを知らぬ「最強日本映画『太陽を盗んだ男』」。最下層の“若い御家人”がたまたま遭遇したバスジャック事件の犯人「山崎留吉」(伊藤雄之助)は、手榴弾と機関銃で武装して、単身「天照大神より続く『万世国家』」に挑戦状を叩き付けた。

もはや伝説とも言っていい「バス皇居突入」のゲリラロケ、どこから、どう攻めても落とせない許認可代官。映画完成に必要な外堀は完全に埋めつくした終戦記念日の翌日、最後の最後に無許可で盗撮されたこの晦日収録の裏には、ゴジ組「大将」を逃がすための「しんがり」(逮捕要員)が準備されていた。そして、その荒っぽい出陣からだいぶ経った2001年の8月15日、戦没者を祀る靖国神社には、開戦後60年の忘却を呼び覚ます、兵装のご老人がいて報道カメラの注目を集めていた。言ってみれば浪士山崎もそのような感じだ。

A BATHING APE」や「あゆ(浜崎)」で市民権を獲得しているミリタリーファッションであるが、これは今さら戦争の記憶を揺り戻すしろものでもない。我々は迷彩Tシャツやフライトジャケットを着込み、鎧兜の五月人形を床の間に飾るが、必ずしも軍国思想を表現している訳ではないのだ。だが、実直そうな年寄りによれよれの歩兵服など着てもらいたくはない、普通の人が見たら間違いなく引く、ヤバい、近寄りたくないと思う、そこには明らかに主張があるからだ。とは言え、周りから浮いた過激な装いであっても、老いた彼は農本思想や武力の誇示を好む愛国右翼ではないことは明らかである。落ち武者のような幽気を放つ大逆犯罪人の、あまりにも素朴な主張は他にあった。

たった一人の『侍』軍隊

ところで、『ゆきゆきて神軍』(1987)で知られる無政府主義者奥崎謙三は、「ヤマザキ天皇を撃て!」と叫びつつ、天皇めがけパチンコ玉を撃って投獄されている、こっちの山崎さんはニューギニア戦で犠牲を強いられた戦友のことである。一方、「天皇が御会いになる、御話しする」と聞いて、「ありがたいことだ、畏れ多いことだ」と言って涙する、生き長らえながら、あっちの世界に逝っているヤマザキトメキチは、天皇暗殺を目論む革命論者でもあり得ない。犯行理由は「先の大戦で失ったか、未帰還となっている子供を返してもらいたい」ことに起因している。それを直接陛下に会って話したい、直訴したいというのが要求のすべてであった。数を頼りに自己満な示威行動を取る、ファッショな若い連中とは明らかに動機が違うのである。

頭がおかしいから無理難題の思いつきで「死んだ子供を返せ」と言っているのか、あるいはまだ死んでいないはずの行方不明者を「戦地から探し出して返してほしい」と、何十年も本気で言い続けたから頭がおかしくなったのか、で、このシーンの意味はまるで変わってくる。行動背景を説明する描写はほとんどない、だがそれは不親切であるというよりも、問題の主因を147分の貴重なフィルムの中で語るのが難しかったからだ。なにしろ「広島任侠界 対 東京歌謡界」の異種格闘における主戦場はその直後にひかえている、いずれもサムライに所縁のある彼らが「黒澤時代劇」の立て役者、馬づら“城代家老”の中に何を見い出すのか?

ただ言えるのは、「当て馬」にされた戦中派の彼が、劇中のセリフで子供と言いかけて“息子”と言い換えていることから、子供は皇軍兵士だったと見て間違いないことだ。ハリウッドのマーティン・シーン親子とは違って、二世代に渡り“現実の戦場”で辛酸をなめなければならなかった不遇の父親とその息子である。「八紘一宇」の昭和妄想狂時代、男子を持つ家は皆天皇陛下のために、大切な跡取りを「人殺しの道具」として差し出していたのだった。

業界噂の註: 「我々は明日の城代である」

「広島任侠界」/菅原文太の代表作『仁義なき戦い』。「東京歌謡界」/ジュリーのヒット曲『サムライ』。劇中登場する二人の主人公はなにげに国家公務員である、「士農工商エタ非人」で言うところの士族にあたる。人間性とは無関係の、その悪しき身分制度は江戸時代に確立された。「黒澤時代劇」/バスジャック犯の伊藤雄之助は、『椿三十郎』で武士階級最上位の城代役を演じていた。そのほとんどが人質で、解放される最後まで出演シーンがなかったのはこの映画とまったく正反対。映画の短くない歴史の中ではこういうキャラクターの逆転劇がしばしば起こりうる、またそこに言外の皮肉をこめることもできる。なお、藩内にはびこる不正を暴こうとして、逆に叛乱の汚名を着せられた若い侍達に、彼がもらしたお茶目で倒錯的なセリフは「乗っている人より馬は丸顔」であった。社会主義思想が台頭していた世相にこじつけて深読みすると、乗っている人は天皇、「馬」は権力を持ち得ない民衆ということになる。

「八紘一宇」/天皇を頂点として世界の家族を一つにするという、侵略戦争正当化のための大日本帝国のスローガン。要するに「エタ非人」扱いの第三国人を増やし、馬車馬のように働かされている、国民の政治不満を少しでも回避するための差別主義イデオロギーである。その言葉に象徴される帝国主義はよりソフトな形に姿を変え、敗戦後も天皇をいただく国体は護持された、だるま落としゲームを途中で投げ出したマッカーサーのおかげで。骨抜きをまぬがれたその国に対して、日本刀片手に正面から決闘を申し入れたのは、「我々は明日のジョーである」というセリフを残して日本を脱出した「よど号ハイジャック犯」の赤軍派だった。





第10番第2楽章「陛下にお話しせねばならん。」


『戦争の記憶』後編
http://www.variety.jp/eiganoron/samurai10-2.html


「散り桜」の季節に、次代をになう異なる世界の男達を引き合わせた老兵は、生意気な1クラスの中学生と、熱血の残滓をまとった教諭を抵当に入れて“坂下門の弾幕”に突入していった……。

ターン レフト

「英霊」として祀られていた戦死者が、実は連合軍の捕虜として生きていた例がある(4万人くらいね、シベリア抑留者60万は含まないよ)。一度家族の戦死を告げられた他の遺族達が再び希望を持ってもおかしくない、生きているなら早く返してほしいと願うのは親心として当然である。しかし、待っても待っても息子は帰って来ない、行政機関を始め方々に捜索を頼るが相手にしてもらえない。戦争のことなど早く忘れたい日本人と、忘れたくても忘れられない日本人の意識のズレは急速に広がっていく(そもそも最初から知らなかったりする平成人ってのは民主的なのかよ)。

何年も窓口をたらい回しにされ続け、終いには誰からも煙たがられるようになった落人は、ついに精神病院に放り込まれる。そんないきさつを語る描写ももちろんないが、そんな哀愁は漂っている。そして、このことはシステムを円滑に働かせるためには必要不可欠な社会の異物排除機能である。やがて退院した“怒りの老人”は、狂人としては意外な緻密計画を企て、なぜか隠し持っていた兇器をたずさえて最終手段に訴える。“休火山”(箱根)の静かな息吹きを観察した帰り途、中坊達を乗せたままジャックされた観光バスは、桜花の名所「千鳥ヶ渕」を出て、左へカーブする三宅坂を下り、国会と警視庁を“右手”に見ながら祝田橋を左折する。そのすぐ先をもう一度左へ曲がると坂下門だ。タイヤを軋ませ突然飛び込んで来たその窮鳥は、なんとフロントガラスを割って皇宮詰め所に手榴弾を投てきしやがった!!

「どうやって武器弾薬を手に入れたのか」という疑問の答えにもなると思うが、人質で円陣の楯を作ってリスクを回避するなどの例から、怒濤の噴煙を上げる山崎は、軍人としては優秀な戦略家であったと考えるしかない。西欧文明と決別して南国の王様となった作戦将校「カーツ大佐」in『地獄の黙示録』(1979/米公開)のように…。さて、そのカーツ(マーロン・ブランド)をターミネート(抹殺)する命を帯びていたのは特殊部隊員の「ウィラード大尉」、演じるのはひと回り以上若いマーティン・シーンであった。『地獄の黙示録』の観客は、「カーツが君臨するカンボジア奥地の森」へと遡上するウィラードの目を通して、属する社会や自らの心の奥底にあるかも知れない異常性を発見していくのだった。

話しを東京にもどそう、「宮様のいらっしゃる千代田の森」へと猛急するのは、所轄で指揮を取る山下警部(菅原文太)。数週後さらに異常な事件解明の特殊任務を、桜田門の長官から直々に命ぜられることになるが、この時はまだ知る由もない…。続々と詰め掛ける応援警察、その他の緊急車両で内堀通りは騒然となる。さっきまで人々に憩いを提供していた皇居前庭にはサイレンと赤色灯が重なり、機動隊員の持つジェラルミンの楯がガチャガチャと高い音を立てて勢揃いする。そして、ジーゼル機がグァラグァラと低いうなりを上げているだけの一瞬の静寂の後に、スピーカーから聞こえて来るのが山下のだみ声でなく、勇壮過激な“ワルキューレの騎行”だったら完璧だった。

君はもう完全に包囲されている

「武器を捨てて出て来なさい!」と、強硬な説得を続ける制服警官から、トラメガを引き継いだキャリア組の山下は、人質のことを考え懐柔策を採用、歩み寄って凶悪犯の要求を聞こうとする。だが、「このとおり武器は置いて行きます」と声を張り上げる山下の背後には、メダリストの狙撃チームが配置に付いて隙をうかがっていた。一方、「地獄の門」をくぐり、ついに首級を奪った暗殺者ウィラードは、カーツを神と崇める原住民の前で血のしたたる牛刀を放り置いていた、脱力しきった目を泳がせながら。その金属音で暗示が解けたように、つられて鉾や槍を地面に置く兵士達。遠巻きに勢ぞろいしたその中には青年「ランス」や「コルビー」(スコット・グレン)もいた。『地獄の黙示録』における、暗い後半部分の唯一の救いが、肉親も心配しているであろう彼らの生還であった。

皇居二重橋前。カーテンで閉ざされた特攻バスのドアが開き、おもむろに事態は動く…、乾いた銃声が城の石垣にこだまし、お掘ではくぐもった爆音とともに水柱が立ち上がる。果たして、天皇陛下との面会はもちろん、息子との再会も幻だった。民主・公明などとはいいながら、「平民にはどうあがいたってできない」ことがあるのだ。血しぶきをあげて墜ちた山崎を、複雑な思いで抱き上げる山下の表情には同情以上のものが浮かんでいる。自らも手傷を負った彼が、世間を騒がせた大迷惑野郎に侮蔑の唾一つ投げかけなかったのはなぜなのか、父親でも思い出していたというのか? その一挙動を呆然と眺めるだけの青年城戸の中で、震えるくらいカッコいい井上堯之のテーマ曲とともに何かが「音」を立てたのはこの時だった。



取るに足らない、敵だとばかり考えていた権力側にも“男気”のある奴はいる、彼となら「一緒に戦える」かも知れない、城戸は偏見を持っていた自分自身へ唾を吐きかけるようにタバコを捨てた。その思考エンジンの逆回転を象徴しているのが、動揺しながら逆さ向きに火を着けてしまった「ハイライト」である。この白く細い円柱型の物体を、渋い顔をしながら投げつける所作は、白骨のこん棒を投げ上げる『月をみるもの』と微かに重なる。『2001年宇宙の旅』に登場したこのヒトザルは、その瞬間、全生態系を掌握し“始祖王”となっていた。映画の中で放物線を描くこん棒は円柱の“核ミサイル衛星”に変身していったが、だったらこのハイライトが変身したものは薄銀色の“プルトニウムポッド”か。それ、の登場は大展開の第2幕、続いて無限のパワーを手に入れる城戸は莫大な力の一部を山下に授けることになる。

アポカリプス ナウ

第1幕の三者糾合シーンは、簡潔に国家観を浮き上がらせると同時に、緊迫する映画導入の山場になった。そして、公開から22年を経た今年(2001年)の夏は「首相の靖国神社参拝問題」、「新しい歴史教科書の採用問題」、そして第2次世界大戦を日米戦に焦点を絞って描いた『パール・ハーバー』(2001)で、時ならぬ国家間戦争の話題で盛り上がっている。“右翼”と“左翼”の違いはおろか、その字句すら知らない世代が主流を占める現在、関係ないからいいやと思ってきたテーマが浮上している。そんな中『くたびれはてた老カーツと、国家を延命させる現代の黙示』とを対照的に取り上げた。長谷川監督による“「国家」なんてものは、「人間が作った最悪のシステムだ」”との掲示板での発言(以下)に、ちょっとした盛り上がりが起きていたからだ。

(2001/08/17の発言“「オフ会」やるかあ!!”より抜粋)

“私は、「掲示板」も「応援団」もまた、個人と個人の出会いの場だと思っている。「国家さん」なんて者が、何処にも存在しないと同じように、「ゴジサイトくん」なんて者も何処にもいるわけではない。そういう意味で、『ゴジサイトが私に喧嘩を売ってきてるんだろう?』という発言には、虚しく哀しい思いがした。

「国家」なんてものは、「人間が作った最悪のシステムだ」と考えている私は、もし、ゴジサイトがほんの少しでも「最悪のシステム」に似てきたら、いの一番に逃げ出すに違いない。社会生活でもネット世界でも、規制やルールなんか、少ないほど良いに決まっている。ルールで縛らなきゃ、維持できないようなシステムなら、潰れてしまうことも別に惜しくはない。いや、潰れてしまえば良いのだ。

ただ、「ゴジサイト」に参加するときに一つだけ肝に銘じるべきは、「自分が他者との出会いを求めている個人である」という認識だと思う。基本はあくまで「個人と個人」なのだ。その認識があるかぎり、他者を傷つければ、自分もまた傷つく。それは誰でも嫌に決まってるから、自然発生的に抑制や諧謔や笑いで、自分の表現を工夫するんだろう。より適確に自分の意志を他の個人に伝えるために……。”  (激動の「ゴジサイト」)


業界噂の註: “ワルキューレの騎行

地獄の黙示録』で、キルゴア中佐率いるヘリ部隊がベトコンの拠点をせん滅する際、敵を心理的に畏縮させるために大音響でかけたワーグナーの曲。勝利は正義にあるのではなく、圧倒的な力を有した者にもたらされるというキルゴアの傲慢さを象徴している。彼はサーフィンをしたいがために、海沿いののどかな村をナパームでイボイノシシとヒトザルしか住めない石器時代に戻してしまった。





第11番第1楽章「行きはよいよい、帰りはこわい。」


『無限の彼方』編
http://www.variety.jp/eiganoron/samurai11-1.html


歌舞伎モノ「シャア」専用

ちょうど20年前の1982年、季節変わり目の3月、『機動戦士ガンダムIIIめぐりあい宇宙編』にてシリーズは一応の終止符を打った。戦場を離脱する、緋色の戦艦の窓辺にたたずむ「シャア・アズナブル」の“黒いシルエット”とともに。

大戦直後の大阪で、少年「手塚治虫」に国策動画の洗礼を与えて以来、アニメと縁遠くなっていた伝統の松竹劇場は、白を基調に黄色と青と赤で彩られたロボットの登場する、おたく系怪物映画「ガンダムファースト」で大儲けした。「ポスター」やら「セル画」やらの関連グッズも売れに売れ、ボックスオフィスには通常の3倍のスピードで、ざくざくと現ナマが放り込まれて行ったのである。そして、歌舞伎と邦画産業を牛耳る経営者らの固定観念は崩壊し、映画製作環境における実写とアニメの力関係が微妙に変わり出した。だが、どんな企画にも安易にGOが出たので、粗製濫造が相次ぎ、熱に浮かされた支持者が見切りをつけるのも時間の問題だった…。

ガンダムストーリーの基本は、スペースコロニー・サイド7で生活していた少年達が、地球連邦からの独立をはかるジオン公国との戦争に巻き込まれ「肉親と離ればなれになる」という、未来版「十五少年漂流記」にある。彼らの乗船する強襲揚陸艦ホワイトベース」は、避難のために一旦地球に降り立つことができたが、仇敵「シャア」を引き寄せる囮として再び“そら”(宇宙)へと旅立つ運命にあった。そして映画3作目、幾度かの出逢いと戦いの中で、超人的能力を身に付けていった主人公「アムロ・レイ」は、白いモビルスーツを駆り、追撃する戦艦との挟撃をはかった迎撃艦隊を、流麗なオープニングBGMの余韻も醒めやらない間に撃破した。たたみかけるアクションで、出だしのつかみともなったこのシークエンスほど、けれん味があってアニメヲタどもを狂喜させた個所はない。

蒼い地球の成層圏を眼下に見ながら余裕で待ち構える歴戦の猛者ドレン大尉、万一に備え宇宙服の着用を促す部下を一笑に伏す。ただ、噂にとどろいている戦闘機、『RX-78ガンダム』の出撃確認ができていないことだけが不安の種だ。その間、護衛の戦闘爆撃機(『MS-R09リック・ドム』)が一機やられる、そこへ「高熱源体接近」の報、「ミサイルか?」、まもなく隣の巡洋艦もビームの直撃で大破する。至近で衝撃を受け極度に混乱する艦橋、「ガンダム」に違いないと恐れおののくドレンの声に自信はもうなくなっている。「シロイヤツだ…」という言葉を受けて、無限に広がる宇宙に画面が移動すると、そこへ彗星のようにあらわれる「ガンダム」、護衛機もろとも旗艦を吹っ飛ばすアムロの横顔に力んだ表情はない。

子供向け「変型合体ロボ」マンガを、大幅にクオリティーアップしたこの劇場用アニメ作品は、当時の高校生・大学生、あるいは映像研究者をもうならせるオリジナリテイーと完成度を誇っていた。「光る宇宙」の映像や「ニュータイプ(新人類)への革新」など、その大胆な発想には『2001年宇宙の旅』のSF理念、「スターゲイト」 「スターチャイルドの誕生」も貢献している、テレビシリーズオープニングの「サンライズ」(月、地球、太陽の直列)には、確かにオマージュとしての意味が込められている(当初キューブリックは、アトムの手塚治虫に『2001年宇宙の旅』のSF設定に関する協力を求めていた。願いはかなわなかったが、その思い入れは『A.I.』となって結実する。ちなみに、この映画は地の底を這っていた松竹を、奇跡的に救った)。

企画したのは、鉄腕アトムのスタッフが中心となって設立された制作スタジオ「日本サンライズ」(現サンライズ)。映像の中身だけにこだわり、ビジネスを宇宙の果てに追いやった「MGM」(『2001宇宙』)や、その挙げ句倒産した「虫プロ」(『アトム』)がなければ、「大ガンダム産業」は産まれなかった。“ガンプラ”の熱狂(300円のプラモデルを買うために中学生が徹夜の行列をし社会問題にもなった)など、一連のガンダムブームに刺激を受けて、才能を持つ若いクリエーター達がどっとアニメの世界に流れ込んで、従来システムの日本映画の質がガタ落ちしたのも無理はない。だが、『太陽を盗んだ男』が製作された時には、まだかろうじて実写フィルムの方が構造的に勝っていた。

デスドライブ

啓蟄の暴風雨」が去った後、灰色の雲の切れ目から穏やかな陽射しが差し込むように、城戸がハイライトを捨ててから、この青春映画の印象は大きく変質する。それまでどうにか日本映画の枠内に収まっていた異界のマグマが噴出先を探し出し、枯れ枝の上で舌舐めずりを開始するのはこれからである。

この切り替えに、「はっ」として心踊らせない人と娯楽映画の話をするのは難しい。窮屈さに身をよじらせながら、映画は堅い樹の幹に体をこすり付け、時間をかけて脱皮しようとする。この「絶妙の間(タメ)」をどうやって伝えたらいいのか、それを説明するための適切な言語を知っているだろうか。くちなわに見入られた「黒蛙」のように、画面から一瞬たりとて目が離せなくなってしまっている不思議なつなぎ。

生徒達の憧憬と野良ネコとの戯れ、夜露にまみれた偵察と、国家を出し抜くためのトレーニング、物語りの進行を停滞させるようないくつかの蛹のシーンを挟み、城戸はもう一度くわえたままのハイライトを吐き捨てる。場所は中野あたりの集合住宅屋上、国電中央総武線のダイナミズムを見下ろし、カメラは意味ありげに「西新宿の超高層ビル」を写し込む、第1の幕が下りる。レンズのフォーカスが回転しながらスローで落下するハイライトを追いかけ、バックオーケストラに“ツァラトゥストラはかく語りき”を用いていたら完璧だった。

歌舞伎の舞台で大見得を切るように、ウサギ飛んで、「沈む太陽」の逆光を横顔に決めた役者は、茨城県東海村原子力発電所へ、覚悟を決めての深夜襲撃ドライブに至る。惰眠を貪る街の夜闇を背景に、城戸の顔が時おりフラッシュする演出は、「スターゲイト」に迷い込んだボーマン船長(キア・デュリア)と相対している、高速で通り過ぎるイルミネーションが「スリットスキャン」の代わりである。観念的な揺さぶりのピークに射出された彗星のような精子は、発現するチャンスを初めて与えられ、競合する兵隊達と存亡をかけた戦いを続ける。その「ヴァギナ戦」最後の勝者のみが、世を変革する自由を手に入れるのだ。

業界噂の註:“ツァラトゥストラはかく語りき

ニーチェの超人思想を表現したリヒャルト・シュトラウス交響曲。『2001年宇宙の旅』のサルが「骨のこん棒」を投げる(原始人へ進化する)際に、かかっていた曲として知っている人の方が多いかも知れない。コッポラが「ワルキューレ」で現世ヒエラルキーの最上階を見せてくれたのに対し、キューブリックはその上にHALってものを置いてみたかったのだろう、天皇の上に“9番”を置いてみたゴジのように。







第11番第2楽章「親はとっくのむかしに殺した。」


『超人一直線』編
http://www.variety.jp/eiganoron/samurai11-2.html


軍規に違反して手柄を立てようとした、「強権を操る側」に属する一下っ端の勇み足で、アムロは子供マンガの主人公でありながら“核爆発”の引き金を引き、あろうことか父親を廃人に追い込んでいたのだ。

アムロガンダム行きまーす!」

爆撃要請をした後、顔に迷彩ペイントを施して、混濁の沼から這い上がった歌舞伎者ウィラードにとって、「カーツ砦の攻略」は、死と隣り合わせの旅の帰結であった。坂下門の山下に、「王位を継承する」ウィラードと同等の畏敬を見た城戸は、顔を靴墨で黒く塗りたくり、最も警備の薄い海辺、ナトリウムをとかした生命の源流から遡上して「日本原電プラント」にインベードした、彼にとってはこれからが望むべき旅の始まりなのだ…。「スゥー、ハァー。スゥー、ハァー」、処女膜を破り核の卵巣にゼロ方向から接近する「クロイヤツ」。スーパーマンでもヤッターマンでもウルトラマンでも、言い回しはなんでもいいが、城戸は「超・人」への第一歩を踏み出し、未知なる変容の息吹きを体感するのであった。

監視カメラだけが見守る花道を通り、光源を配したステージへ足早に駆け上がるインベイダーは国家の最大機密「プルトニウム」に手を伸ばす、レギュレーターからもれる「呼吸ノイズ」が嫌が応でも緊張を増幅させる。なけなしの予算でカモフラージュした大道具セットも含め、もはやハリウッドもどきの表現技巧であるが、なにしろ効果音である。サイド7に潜入して最初の破壊活動をした、ガスマスクのZAKU-II隊も、エピソードIVのだみ声Darth Vaderも、印象的だったボーマンの呼吸音と無関係ではない。

連想したのは『2001年宇宙の旅』、主人公ボーマンは叛乱したHAL(ハル・コンピューター)をターミネートするため、“スーハー”言いながら立入り制限されている心臓部へ迫った。宇宙船の機能が完全にHALに制圧されていたため、万一に備えてヘルメットとボンベが必要であったのだ。そして通路の大奥にたどり着く、次の扉さえ開けられたら、王様HALは降伏 (チェックメイト)せざるを得ない。

太陽を盗んだ男』がクランクインされる直前の1979年4月7日、ガンダム第1話の冒頭に登場し、子供離れの設定コンセプトを決定づけたのは、量産型未来兵器『MS-06ザク』。ぎこちない動きをしていた従来の格闘ロボットを、いわゆる“モビルスーツ”と呼ばせて命を吹き込んだことにより、子供マンガという現場の下級製作陣の処遇は覆られた。その人型宇宙戦闘機は、“スー、ハー”と、ゆっくり細く息継ぎをしながらスペースコロニー港湾部に接岸すると、圧力扉の開閉レバーをマニュピレーターで器用に回し、小鳥さえずる平和な人工大地へと舞って降りた。

本編が始ってからここまで音声の解説はない、だが緊迫感を伝える「気流音」によって、ルーティーンではない隠密行動をしているのがわかる。そして、偵察のみが任務だったその工作員の一人(新兵ジーン)は、「ランボー」のような正義感からではなく、若さ故の功名心から、上官(シャア少佐)の命令を無視して、サイド7内連邦軍の施設を実弾襲撃するのだった。

ついでながら付け加えると、名画座での上映が絶えることのない、不朽の演目『太陽を盗んだ男』の前奏も、日本男子の半数以上が見ているガンダムインデックスとかなり似ている。大都市を一瞬で溶解させる大熱線、爆響のフェードアウトに闇を照らし始める太陽、一呼吸置いて画面を横切る2羽の鳥影、そして、飄々と吹きすさぶ風の音とともに双眼鏡を覗き込む不敵な男の姿。次にレンズ越しのフレームが厳重警備の大型施設を無言で捕らえて瞬きすると、「大あくび」をもよおす出勤前のありふれた日常に帰っていく…。

ブタもおだてりゃ

その朝、家で研究に没頭していた主人公アムロ・レイは、非難警報にさえ動じなかった、というよりも危機に関して鈍感であった。だが、突然現れた「巨大な敵」を見上げ、幼なじみの家族が爆殺され、蹂躙される“イボイノシシ達”の悲鳴を目の当たりにして、ようやく目を覚まし、「絶望に沈む悲しみ」をふりはらうのであった。

元服とは無縁な世界で生きて来た十五歳、個人としての無力を実感した彼は、軍属の父を頼る道すがら、偶然にも連邦軍の秘密書類を拾っている、これには巨人『ザク』をも上回る“戦略兵器”のことが記されていた。コンピューター好きで有名なアムロは瞬時にしてすべてを理解し、社会法規を忘れてそれの寸借をくわだてる。「スゴイ、5倍以上のエネルギーゲインがある」と言わせた、そのスーパーウエポンの名は“ガンダム”という。

惨禍で行方不明となった正規パイロットの代わりに、女性の体で言えば子宮に位置する操縦席に潜り込んだのは「お約束」である。そんな異変を感じて“白いモビルスーツ”に警戒の銃口を向けるザク、だが絶対的優位にいたはずの攻撃者らが退却を決意するのに、さしたる時間はいらなかった。驚異的なポテンシャルを目の当たりにして、巨体を揺さぶりジャンプして逃げるザクを、操作素人が搭乗するガンダムは追い縋ってプラズマ刃を抜いた。

間髪、を入れず「核熱融合炉」を両断されたザクは、コロニー隔壁をも破壊する大爆裂を引き起こしていた。猛烈な勢いで竜巻き流出する爆煙、ひとり生き残った戦争プロフェッショナルは、土埃の中から我を忘れて突っ込んでくる、仲間を殺された怨念とともに。こいつまで斬ったら、止めどもない殺りくゲームのスタートボタンが押されてしまう、突然浮かんだ冷静な考えが、妙な間合いを生んだ。そして、突き付けた灼熱の刀は急所のみを貫いて、機械制御の獰猛な“ヒョウ”は機関を停止した。

シロオビ柔道着でフェンスをのぼる

ここでガンダムが使用した「骨の棍棒ビームサーベル”」は、偶然にも『太陽を盗んだ男』のキーアイテム「プルトニウムポッド」にも似ているが、元はと言えばルーカス版『隠し砦の三悪人』に出ていた「ライトセーバー」をまねたものだ。したがって、世界が100人の村でできていたら…、ごめん何人が見ているか知らない。もとい、昨日(5/3.2002)、世界中で一番多くの人間に見られていたハリウッド映画、『スター・ウォーズ』(1977/特別編1997) を意識して作られた『機動戦士ガンダム』には、海を越えて戻ってきた「黒澤“ジダイ劇”」の遺伝子が受け継がれているのである。

くわしく言えばキリがないが、“ジェダイ劇”の騎士「オビ・ワン・ケノービ」(外人には「オビは黒帯」=「強い」がそう聞こえた)の配役に、『隠し砦』で侍大将を演じた三船敏郎がイメージされていた(が無名のルーカスはそのオファーを蹴られる)ことからわかるよう、三船主演映画の最高傑作『椿三十郎』ラストの決闘を再現したかのようなポーズを決めたガンダムに、鎧武者をダブらせるのは無理からぬことなのだ。

ところで、剣の達人ダース・ベイダーが窮地に陥るのは 「ルーク・スカイウォーカー」(なぜか柔道着を着ている息子)との対決の時(エピソードVI)であったが、それと同様な伏線が初回から用意されているところが、この子供マンガのひねくれたところである。連邦軍の最重要秘密兵器ガンダムの開発者「テム・レイ大尉」は、避難民よりもモビルスーツの安全確保を優位に考え息子アムロの反発を買う。そして、孤軍奮闘むなしく、あっという間にバルカン砲を撃ちつくす試作機(RX-78-2)を見て、「なんて攻撃の仕方だ、誰がコックピットにいる!」と、保護監督者にあるまじき無責任な言動をしている。

奇襲に対しなすすべがないどころか、民間人に有線ミサイルを誤射している施設防衛隊に代わって息子ががんばっているのに…。だが直後、そのしっぺ返しに、自分が設計したガンダムのデビュー戦に巻き込まれ宇宙空間に吸い出されてしまう。妻「カマリア」を地球において宇宙開発に生涯を賭けたテムは、言わば「二人の息子」の初陣のために、一命は取りとめたものの、重大な機能障害を抱えてしまうという皮肉な人生を歩むのであった。

業界噂の註:「ヤッターマンでも」

なぜか城戸は原爆を完成させた後「やったー、やったー、“やったーまん! ”」と言っている(と、旧アニメファンは断言している)。1977年から1979年にかけて放送されて子供達の圧倒的人気を得ていたテレビマンガ(後期の演出にはキャメロンやベッソンにも影響を与えた「押井 守」が参加している)のことである。さて、その「ヤッターマン」(竜の子プロ)から流行ったことわざ、「ブタもおだてりゃ木にのぼる」を生んだ悪役「ドロンジョ」「ボヤッキー」「トンズラー」の、かわいいが勝ち気な姫と、ずる賢いがどこか間の抜けたデコボココンビ、というキャラクター設定の原形は、「隠し砦の三悪人」(1958)における逃亡中の姫と、それを助ける百姓侍にあると思われる。イメージしにくい人は「レイア姫」と「C-3PO」、「R2-D2」をあてはめるとよい、だからといって、国を追われた亡きジオン・ダイクン(建国者)の娘「セイラ」や、軟弱者「カイ」、柔道一直線「ハヤト」とも対応しているかというと、そこまで一致している訳ではない。

   秋月の姫「雪姫」(金二百貫)→
      「レイア姫」(デス・スターの見取り図)→ 「セイラ」(「ホワイトベース」と避難民)
 
   秋月重臣「真壁六郎太」→
      「オビ・ワン・ケノービ」(後の「ルーク」)→ 「ガンダム」(後の「アムロ」)
 
   足軽「太平」「又七」→
      「C-3PO」「R2-D2」→ 「ガンキャノン」(「カイ」)「ガンタンク」(「ハヤト」)
 
   敵将「田所兵衛」(『姿三四郎』の藤田進)→
      「ダース・ベイダー」(「ハン・ソロ」)→ 「シャア」(「スレッガー」)

業界噂の註:「巨大な敵」、「絶望に沈む悲しみ」

巨人の星』等で知られるアニソン界のゴールドスミス、渡辺岳夫(時代劇でも数多くの楽曲を手掛けている)作曲による主題歌「翔べ! ガンダム」にあった言葉。全編に流れる意味深いテーマを独特のセンスで表現した作詞者は井萩麟、井萩というのは活動拠点のあった杉並の地名のことで、実は現在アニメ界の神様となっている富野由悠季(「海のトリトン」「イデオン」など)のペンネームである。激烈に仕事をこなすことで有名だった彼は、当時「竜の子プロ」の外注なんかも引き受けていた。また、竜の子では新人であった巨匠押井守(「うる星やつら」「パトレーバー」など)が、地理的に近いサンライズのアルバイトをすることもあったので、彼らが安月給でこき使われていた「中央線沿線」というのは、日本の微ハリウッドみたいなものだったのだ。今であればスタジオジブリ(及びジブリ美術館)を引き合いに出せるから、業界にくわしくない人でも納得いただけるだろう。そのような活力感にあふれた場所を城戸の住居に選んだ、というのも偶然とはいえ悪くない。映画の冒頭、柔道着でフェンスを駆け登っていたサルが京成線の下町や、東急東横、あるいは田園都市線の高級住宅街に住んでいたらがっかりだ。






第11番第3楽章「あんまりバカが博打にこっちゃだめよ。」


『極人の道』編
http://www.variety.jp/eiganoron/samurai11-3.html


人の痛みを計算機に入れ忘れた、連合システム障害の赤っ恥銀行には自らを総括して、『連合赤銀』とでも名付けた映画を撮ってもらおうか(で、二重に振り込まれたショ場代でもう一勝負)。

仁義の墓場

“親”斬りつけ映画『青春の殺人者』でデビューした長谷川和彦の、2回目の監督作『太陽を盗んだ男』にも、ガンダムと似たような「父殺し神話(エディプス・コンプレックス)」は見え隠れしている。殺されたのは観念上のオヤジ、バスジャック犯の「ヤマザキトメキチ」である。身を挺して神国を守り、その身を粉にして昭和の繁栄を築いた世代は、新たに生じつつあった若い文化にとって、もはや路傍の石ほどの存在でしかなかった。なにかと口うるさく子供の面倒を見るのは、すべて愛情のためだったが、あまりにも激しい世俗ギャップは祖国の子孫をいらだたせるだけだったのだ。

無関心という優しさが充満する町の共同体から、ワルガキどもに社会の掟を教えてくれた頑固親父が消え、今や他人同士が介入しあうのは、ひとたび事件が起きてからだけとなってしまった。運悪く渦中に巻き込まれたって、今は「キャッシュ」や「ローン」と引き換えの代理人が、なんでも揉み消してくれる時代であり、システムを介して間接的なふれ合いをした方が、大多数の人間にとって居心地のよい社会を生んだのは事実である。ま、言葉と国籍と健康保険証があり、緊張感のない日本総領事館に駆け込む必要がなければの話であるが。

その、システムを中央で集中的に管理する発想が、人の上に人を作る巨大ピラミッド型国家の成り立ちである。勢い、細かい部分までは目が行き届かないところもあるが、とりあえず言われるまま従っておけば、霞ヶ関のお上に意地悪されることはない。その上意下達の大原則に口を挟めば「武装警官」が飛んで来て、ヤマザキトメキチのような運命をたどることになる。であれば、まして他人同士のもめ事に、自らを危険にさらしてまで首を突っ込む必要はない、さわらぬ亡命者にたたりなしである。

だが時に、生死に関わるトラブルも、自分自身あるいは運転するバスの乗客、家族、社員、生徒の身に、避け切れず降り掛かってくる。恥も外聞もなく逃げだせればまだよいが、相手が卑劣な手段を用いて脅迫に及んだらどうするか。生命保全の権利が万国共通のお題目でないことに気付き、東大法学部で培った法知識も、TBCで磨きあげた女っぷりも、NOVAで学んだ語学力も、銀座のクラブ桃鳳で巻き上げた大金も、築地の料亭匠千久で交わした根回しも、すべて無用となるのは「抗いきれない暴力」を眼前に突き付けられた時である。

近代装備の国家暴力に無条件で屈した日本は、ジャズとハーシーズチョコレートの米軍統治を受ける。「GHQ」(「ジェネラル・ヘッドクォーターズ」)による強力な指導のもと、再び軍の台頭を許さないよう民主意識が移植され、人々に甘い菓子のような安寧が訪れたかに見えた。だが実際ヤミで社会を動かしていたのは暴力団を背景にした旧来の商人達であり、上からのプレッシャーは中間搾取者を通過して、より弱い者へと向かって行くことに変わりはなかった。つまるところ、敗戦により一度御破算になった「ゴリ押しの権力機構」が、軍国時代とは別のあるじのもとに鞍替えしたに過ぎなかったのである。

男は黙ってサッポロビール(三船敏郎)

有産者の権利しか目に入らなかった日帝(絶滅語)は、富国とインフラ整備の美名のもと、庶民の既得権はく奪に成功し、馬場を潰して空港を建設、干潟を埋め立て猛毒を垂れ流すコンビナートを誘致、峡谷を切り開いて鹿しか通らないスーパー林道を行き渡らせた。想えば、トンネル工事の一線で犠牲になったのは強制連行された名もない朝鮮人である、意を決してタコ部屋(絶滅危惧語)から脱走し、前途多難な帰国を果たした文盲の在日労働者がいたのもそんなに昔のことではない。

経済の歩みとはそういうものである。戦後のどさくさにまぎれて復興援助資本を独占した企業群は、アメリカに対しちぎれる勢いで尻尾を振り続け、隣国の戦争では民族の誇りを踏み台にして、景気を大回復(朝鮮特需)することができたのだった。生産調整の為にキャベツやイワシや高級服を大量廃棄する我々は、アメリカが経済利潤の大半を“セイバー”ジェット機と“アポロ”宇宙船の製造に費やしていた頃、だぶついた利益をせっせと銀行に預けて家電メーカーにまわし、ビーバールームエアコンを売ってさらに私腹を肥やして行くことができた。

20世紀の中頃、「親族を切り裂く38度線」から始まったその歪みは、「命がけの亡命劇」として現在も衆目にさらされているが、プロ野球観戦の合間に見る初見映像は、吹き出しサッポロビールほどの切迫感しか与えなかった。飢餓世界の窮状をしばし忘れさせるシズルなCMで、ブランド形成しているそのビールの歴史には、財閥が一儲けを目論んで利権を買い漁った経緯がある、最も利幅が大きい大産業だからだ、そりゃみずほ銀行UFJ銀行もゴマをすりすり金を貸すだろうて。そうやって、体格のいいアメリカ人に憧れて育った貧しい極東の住民は、政治・マスコミ・生産を物欲の下に一体化させ、今や「1400兆円」もの金融資産を長者番付で披露している。

方や、ひもじさに堪えきれない子供のしゃくり声と母親の悲鳴、仮に悪魔に魂を売ったとしても家族を救えない父親の嗚咽…。彼らに0.0000000001兆円だって貸せられない黄色い看板のプロミス、いや「フレンズ・ローン」は、日本の独身中学教師には健康保険証一枚でジャブジャブ大金を貸し付けることができる、文科省(劇中は文部省)が保証人だからだ。だが、先に逃げていた親類からの援助も受けられず、自身と幼子の「生命を担保」(人質)に、瀋陽の領事館へ特攻せざるをえなかった北のオヤジは、その大博打の“ツケ”をどう支払うのか。

一流の“演出家”によって世界中に配信できた「坂下門よりリアル」な隠し撮り突入映像は、くり返しくり返し飽きるほど放映され、一人歩きしだしたことでがぜんパワーを増した。その仕組みを応用し、金融を絡めて製作、配給、興行、回収をシステムとして完成させたものが映画というメディアに昇格する。しかし、影響力がデカイかわりに失敗のリスクも小さくない、銀行は目先のことしか考えないから見えないものへの投資継続は拒む。だから、大企業の大京には税金もらって4000億円の借金棒引きに応じることができても、文化に貢献する映画配給会社のワンマン社長からは身ぐるみ剥がさなければならないのだ。

暴力を巧妙に偽装し温存している、そんな不平等はびこる階級世界のソーシャルボトムでは、不満を抱えた紊乱分子が仁義なき抗争をくり広げている。時に、黙っていられない無鉄砲な男の刃は属する組織の家長に向けられることもあった。

 

業界噂の註:『仁義の墓場

戦後暴力犯罪史上、最も凶暴と恐れられた実在やくざを深作欣二が情け容赦なく描いた実録映画(1975)。自分の親分すら斬りつける外道を演じるのは、「さあ、行くぞ9番」と言ってビルの屋上からダイブした、丸の内警察署警部「山下満州男」の菅原文太、ではなく、西部警察署部長刑事「大門圭介」の渡哲也だから間違えないように。ちなみに、「横列パトカー軍団のカーチェイス」を日本でやったのは『太陽を盗んだ男』の方が元祖である(『西部警察』の放映は1979年10月14日より、『太陽』の公開は同月6日)。さて、6月22日には設定を現代に置き換えた三池崇史版(長谷川監督と同じ「今村組」元舎弟)の新作も公開される、タイトルは『新・仁義の墓場』、アウトローの道を壮絶に生きて、三十そこそこでビルの屋上から飛び下りる男を岸谷五朗が演じる。

普通死ぬな、あそこから跳べば。







第11番第4楽章「ま、じゃまだけはせんように。」


『ブライダル』編
http://www.variety.jp/eiganoron/samurai11-4.html


マニュアルなき戦い

「皇居だ、皇居へ行け!」国権による集団暴力に堪えきれなくなったその男は、ついになりふりかまわない暴挙に出る。目の前で光る機銃のマズルフラッシュと、嗅ぎ慣れない火薬の臭いに「うふぇ、ふぇ、ふぁい…」と、無理矢理絞り出した悲痛な声で返事をするバスの運転手、反して、好奇心旺盛な引率の城戸は毅然と、というか天然入ったボケをかまし山崎の望みを聞き出している、「あのう、皇居へ行って何をするんですか?」。

捨て身で妥協の余地のない老人相手には、怒らせないことがなにより肝要だ。日暮れた後、一旦バスを降りて、犯行要求とともに人格破壊者のプロファイルを現場指揮者に伝えると、城戸は再び絶対的権力を握る者の軍門に下る。「スリーピースをまとったスジモノ、という感じの山下という男は頼れそうだ、生徒のことも心配だが、彼がどのように事件を収束するか見てみたい」そんな風情を浮かべながら城戸は踵を返す。喧嘩仲裁屋の極道、ではない、人質解放交渉役の警部と共に、無抵抗の意思表示として「白いハンカチ」をそれぞれ掲げながら。

人類の曙光が差し始めたアフリカのサバンナで、ヒトザル『月をみるもの』が“暴力システム”を発明してから300万年、繁栄を極めつつあった東の国のド中枢では、期せずして妙な邂逅が生まれていた。ゆっくりと、バスのステップに足を踏み入れた二人の男達は山崎の前でひざまずいている。先んじて、頭の上で両手を組む行動を一致させることで、すなわち、年配者に対する服従を共通体験することで、彼らは義兄弟としての契りを交わすのであった、親分の前でけじめの盃を分け合う仁侠道のように。いや、「純白のハンカチ」があるからそれは“婚礼”も暗示していたのかも知れない、時おり女装する城戸のジェンダー(社会的性別)はデジタルに分類することができないからだ。

であればこのセレモニーが、後に「生殖」、「妊娠」、「出産」へと繋がって行ってもおかしくない。「未曾有のパワー“生誕”」を前にして、異なる個体の遺伝子は引き合い、結合するのであった(映画中盤、メーデーの渋谷にはためく目印は“迫る死期”を暗喩する「黒い旗竿」、これらの布きれは記号的に対称関係にあると言える)。やがて、その極限儀式におけるシンパシーは、数発の狙撃弾によって断ち切られ、親分山崎(神父)は職務をまっとうする勇敢な「二人の子分」に見守られながら、志し半ばに人生の幕を引かなければならないのであった。なぜなら個人にとっての最も身近な支配、「父権の征服」、それがより強大な力を手に入れる者の最初の克服条件であったからなのだ。

屈服を装いながら組(家)の威信を守り、ついに最大の手柄を抱きかかえた山下は、出迎えの参列者に見守られながら城戸の前をゆっくり歩み、野太い声でねぎらうと、苦痛にうめきながら自らも救急車の中に倒れ込んで行く…。『太陽を盗んだ男』では、登場人物達の家族関係は明らかにされないが、少なくともこの場面では、城戸の他者に対する介在願望を感じ取ることができる、にもかかわらず力足りずに出鼻をくじかれた切羽詰まった焦燥も含めて。そして、淡く色気付いた末弟の決意は従順な山下とは正反対、“家の因習”を乗り越えようという方向に進む、「まずはこの男を掌中にしよう」。

スカーフェイス

ルークは「フォース」を、アムロは「ガンダム」を手に入れることで、それぞれの「通過儀礼(父殺し)」を成し遂げている。そして、いずれの父親も職務に忠実で、その才覚は組織の中において群を抜くものであった。殊にルークの父親ダース・ベイダー(「アナキン・スカイウォーカー」)は、若き頃、正義の騎士(ジェダイの弟子「パダワン」)として多くの民を救っている。しかし、能力を極めるにしたがって重責がのしかかり、個人を取り巻く状況は劇的に変化して行った(『エピソード1 ファントム・メナス』のポスターでは、地面にのびたアナキン坊やの影がすでにダース・ベイダーのシルエットになっている)。

「全体利益の為に自身の感情を押し殺すのか、それともすべてを敵に回してでも個人の愛をつらぬくのか? 」。非情にもドラマは切迫の度を強め、彼は愛するたった一人のひとをついに護り切れなかった時、“怒りと憎しみ”をライトセーバーに込め、「無用な残虐行為」に一瞬我を忘れるのであった…。彼はなぜ『エピソード2 クローンの攻撃』を境にして邪悪な道に迷い込んで行くのか、その理由は『エピソード3』で明らかになるはずである、事実上の完結編『スター・ウォーズ ジェダイの復讐』の中で、マスクをはずして初めて見せた“顔の傷”の理由も。

このヒントは『隠し砦の三悪人』の終盤、いかにも印象的な“黒い影”となって再び現れた敵将「田所兵衛」にある。彼は旧知の侍大将との決戦に破れ、部下の前で生き恥をかかされた上に、主君からは顔を醜く変える程の暴行を受けていたのだった。アナキンと同様、乗り越えるべき父親のいないシャアは、傷を隠すためと偽り、端正で美しい顔を無表情なマスクで被って、父「ジオン・ダイクン」を失脚させた一族の、ターミネート(抹殺)を謀って行かざるを得なかった。そして遂にアムロとの肉弾戦に及ぶと、事実額に傷を作り鮮血を流すのである。純粋な精神を持ちながら、世を儚んで自暴自棄な感情に溺れた彼らは、ある意味ダークサイドに取りつかれていたと言える。

踊る大逃亡線『太陽を盗んだ男』の最終楽譜、フェニックス作戦が敢行された後の武道館。原爆を奪還して勇走する城戸に、ようやく肉迫するも敗北を許した山下は、目尻から額の生え際にかけて、手負いの深い溝を彫り込んでいる。彼は東京に住む無辜(むこ)の民を救うため、既知の女性を一人死に追いやっていた。スカー(心と体の傷)はその時の代償であった。さて、物語りは“遠い遠い”昔の話にまで遡り、旧江戸城二重橋の前でたたずむ「黒依のシルエット」。場所を北の丸公園に移動し、スーハーと荒い息遣いでバスを強襲した不審者を、カメラはなめるように下から見上げていく、そう、ダース・ベイダー初登場時のように。だから、白髪を垂らし緊張の汗をにじませているヤマザキの顔に、日本帝国覇権戦争の名残り傷、だめ押しで“銀河帝国のテーマ曲”が流れていたら完璧だった。

著: 伊達影介

 

業界噂の註:“銀河帝国のテーマ曲”

「ジャン、ジャン、ジャン。ジャージャ、ジャン、ジャージャ、ジャン」の、言わずと知れた『スター・ウォーズ交響曲、作曲は「ジョン・ウィリアムス」。グスターヴ・ホルスト組曲『惑星』における「火星/戦争をもたらす者」に曲調が似ていることから、理不尽な暴力に対する暗黙のメッセージが込められている、と理解するのが頭良さげでお薦めである。「てーいこくはー、つよーい、つよーい」の替え歌も流行ったなぁ、というところで「ゴジラゴジラゴジラがやあってくる、ゴジラゴジラゴジラがやあってくる」の伊福部昭の曲調を思い出した。忍び寄る怪物(戦争)の緊迫感はジョーズのジョン・ウィリアムスではなく、日本のサムライが世界でもっとも早く効果的に映画館で表現したのだった。

 















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