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『カンフー・ハッスル』周星馳

 物語中盤での主人公の不在については、監督業に専念したいという周星馳の事情ではないかという説がパンフレットにも書かれていた。そうなのかもしれない。

 しかしそれだけというにしては、この映画には気になる箇所が多い。作品中に、意図的と思えるほど唐突に説明を欠いた部分がいくつかあって、個人的な解釈を誘わずにいないのだ。それは、逆にそれこそがこの作品の狙い、周の映画に対する態度の表明なのではないかと思えるほどで、だからここには誤読を覚悟で個人的な解釈を書くことにした。


 「意図的と思えるほど唐突に説明を欠いた」と書いたいくつかの部分は、それぞれバラバラではあるけれども、説明の欠如によって、主人公であるはずのシンを巡る謎を深めるという点で、一貫している。だから、もし意図があるとするなら、一貫した解釈も可能なのである。

 説明の欠如とは、例えばこんなことだ。

 アパートとすら言えないボロ集合住宅の大家夫妻、楊過と小龍女は、立ち退きを迫る悪質な斧頭会から送られた刺客の襲撃に際して、自らの実力を隠し、3人の店子を見殺しにすることすら已むなしとした。かつて復讐の連鎖の中で息子を失い、その死の発端となった自らの一流の巧夫を封印すると誓ったことがその理由であるという。当然観客はそこに深い因縁を、つまり物語の伏線を想像するのだが、詳細はついに回想されることがない。

 また、インチキ教本1冊しか読んでいない割に空威張りの主人公は、傷ついた後なぜか信号機についたゴンドラ状の櫓に篭り、巧夫の奥義を用いて自らの傷を癒す。しかもシン自身には治癒の記憶がない(この櫓の中のシーンは狭く昏く、棺の中を思わせる)。

 さらに、故あって斧頭会に与したシンは、そのアジトで火雲邪神と大家夫妻とが死闘を続ける土壇場になって不意に寝返った。味方に殴られた火雲は「なぜ殴った」と問うが、シンは答えられない。

 そしてクライマックス、真の達人として復活後の主人公の放つ人が違ったような神々しさは、象徴的な如来との邂逅シーンを待つまでもなく仏のそれだが、大家は唐突に息子を思い起こし「末は医者か弁護士だ」と口にする(これはシンが子供の頃なりたかった職業でもある)。


 ここから結論されるのは、次のような物語だ。シンは豚小屋砦大家夫妻の死んだ息子の亡霊そのものか、あるいは亡き息子に憑依された人物である。それまで大家の亡き息子は、潜在人格となって表の人格(宿主)シンを維持してきた。急を要する時や怪我をした時には、気づかれないうちに表面化して(身体を乗っ取って)事態を収拾するのがきまりなのだ(そうしたシーンは前半に幾度も描かれている)。ところが、火雲との決闘という両親の危機に息子は動揺し、その動揺がシンを不意に動かしてしまう。結果としてシンは火雲に殺され、ここへきて初めて、天上界で真の如来神掌を会得してきた息子が両親の前に蘇ることになる。

 つまり、実のところ主人公はシンなるチンピラではなかった。主人公は中盤いなかったのでなく、冒頭からおらず、最終盤にのみ登場して事件を解決する。それが『カンフーハッスル』をコメディらしからぬ異様な作品にしている。

 この大家の息子の物語を、しかしこのように堂々と物語ってしまうことは、クリント・イーストウッドが『ペイルライダー』において牧師の過去(既に死んだ人間であるという事実)を幾度となく匂わせながら、ぎりぎりのところで語らないのと同様に、映画作法としてはなかなかに微妙だ。だからこそ、主人公の過去を知る証人(アイスクリーム売りフォン)は口が利けないのではないのか。

 ちなみに、『ペイルライダー』では、牧師の正体に気づいた保安官は、その瞬間に牧師と同じ場所を撃たれて死んでしまう。これは「死人に口無し」だが、フォンの場合は生きていても医学的に(作品的にも)口無しで、彼女が知っていた少年が大家の息子であったかシンであったか、また同一人物であったのかは判らないままだ。


 今回は海外資本もつき、香港人脈も大量投入して、周にとっても正念場と言える作品だったはずだ。そこでしっかりと王道のコメディやアクションを撮りながら、こういう解釈を誘う映画作法を目指すというなら、周は香港映画の系譜に収まりきらない映画監督になっていくだろう。もちろん、これは全くの個人的解釈に過ぎないけれど。