2012-02-01
■[山]明神平
28日は1年ぶりに明神平へ。今年の登山道の雪は深く、途中から早々とスノーシューをつけてガスと寒風の平に登り上げました。そのまま前山の大斜面をめざすと、霧氷を全身にまとったブナが次々にガスの中から立ち現われて、夢幻の世界をさまよっているような感覚にとらわれます。快晴の日の明神平は、青空に純白の霧氷が輝き、登山者に至福の時間を与えてくれますが、こんな天候の日の明神平にも得難い喜びがあります。自分の存在が風景に溶け込んでしまうような、大袈裟にいえば究極の「心物一如」の感覚と言えばいいでしょうか。
もっとも、心は風景に溶け込んでいても、身体はそこにあって凍え切っていますから、さすがに今日の昼食は、ツェルトを張ってその中にもぐり込んで摂ることに。風の音を聞きながら湯を沸かしていると、ようやく指先に感覚が戻ってきました。食後は気合を入れ直して寒風の稜線に上り、三塚分岐から右に振りつつブナの尾根をゆっくり下っていきます。右手には奥山谷源頭の谷をはさんで、ガスの中にブナの古木林がまるで太古の風景さながらに見え隠れしていますが、今日はさすがにそこまで足を伸ばす気になれません。こちらの尾根にもブナ・ミズナラの古木が多く、霧氷の衣で一層迫力を増した幹々の間、繊細な純白の天蓋を広げる枝々の下を、スノーシューに乗って夢見るように下って行きます。こんな時間があるから、厳冬の明神平には毎年一度は訪れずにいられません。
心当てに下り着いた明神平の水場の谷は、あれ、少し印象が変わっています。よく見ると、雪の下にはかなりの数の倒木が横たわっている様子。昨秋の台風の爪痕でしょうか、古木が倒されて空が大きく開けている場所があります。この後、この気持ちのいい谷がどう変わっていくのか、少し心配しつつ明神平に登り返し、帰路につきました。
2012-01-11
■[山]赤谷山
新年8日は4月に足を痛めて以来、初めての本格登山に。戸倉峠からはノートレースのきついスノーシューラッセルが続きましたが、気がかりだった体力は怪我前と変わらない感じで大いに安心しました。十数年間山に登り続けてきた体は、これくらいのブランクでは弱らないようですね。ただ、最近の腹のだぶつき具合はかなり悲惨です。
また、骨折に加えて捻挫を被った右足には、できれば正座は避けたいといった程度の鈍痛と不自由が今も残りますが、ふかふかの新雪クッションのおかげでほとんど不具合を感じることもなく、雪山がリハビリに最適のフィールドであることを実感しました。山スキーでもこうだといいのですが。
去年初めて訪れて気に入ったこのコース、稜線にブナの大木が豊富で、終始楽しく歩くことができます。最高点の赤谷山を通りすぎ、地図で目をつけていたピークまで足を伸ばして、ブナの大木の下で昼食を摂りました。この季節らしい純粋苛烈な風景のなかで過ごす一時は、2年続けて喪に服するという人事のやる方ない不安定感を、少し遠ざけてくれたようです。
下りは戸倉トンネル手前の駐車スペースに直接下降する尾根を試してみましたが、新雪の下りには傾斜が適度で、意外に自然林も残り、正解のルートだったと思います。ただ、最後の最後でかなりの急斜面に出くわし、念のためにスノーシューを外して、壺足で雪まみれになって駐車地に降り立ち、そり遊びをしていた親子連れを驚かせたのは玉に疵でした。慎重に行けばもっと楽な傾斜が選べたかもしれません。
2011-12-24
■[旅] 奈良の裏道
その一 南大門と若草山を望む道
県庁横の駐車場を北側から出て、すぐに交差点を渡った所から、土塀に囲まれたいい道が伸びています。正面には明るい若草山をバックに東大寺南大門の真横から見た見慣れない姿。人通りも車も少ない、お勧めの裏参道です。
その二 戒壇院への道
上記の道を進むと寧良美術館の門に突き当たりますので左し、しばらく進むと正面に見えてくるのが四天王像で知られる戒壇院。正門まで駆け上がっている古びた石階が、この整った構図にさらに生彩を添えています。両側には趣のある邸宅が続きますが、その一つに入江泰吉の旧居も。奈良の写真を撮る人にとっては、この道は新しい聖地かもしれないですね。うるさい電信柱と電線が残念。
2011-12-13
■[雑] パラダイス
実家への途次、富田林のみかん園に寄ると、そこはパラダイスと呼びたくなる面白い場所でした。といっても、そのままの意味でのパラダイスではなく、ウィキペディアの定義の最後にもある『「探偵!ナイトスクープ」で紹介された(されるような)集客のなさそうなスポット、珍名所』の謂い。
ただ、ここはみかん狩り・栗拾い・イモ掘りという実利的な呼び物があるので、集客はかなりありそうで、遊具やザリガニ釣りで遊ぶ子ども連れやバーベキューを楽しむ若者グループの姿が、寒くなった今も見られます。
けど、そこはやはりパラダイス。上の写真のほとんど偏執的なメッセージボードの数をご覧いただいても、園主が濃厚な思い入れとDIY精神を貫いて構築・運営している特異な施設であることがお分かりいただけるのではないかと思います。
それはともかく、家族4人、バーベキューで腹を膨らし、営業最終日とかで残り少なくなった蜜柑を狩り集めて、十分に楽しんで山を降りました。下り道からは、秋色の丘陵地の向うにわがふるさとの山、金剛山の立派な姿も。
ちなみに左の邪魔な建物は、南河内清掃施設組合第1清掃工場という曖昧な名前のゴミ焼却場。気になって調べてみると、古い基準で作られた施設らしく、EU基準の数倍というけっこうなダイオキシンを出しています。果樹栽培が盛んな土地にあるべき施設とは思えません。
2011-11-29
■[旅] 山を眺めに
4月に山で足を痛めて以来、ずっと登山から遠ざかっています。そろそろと思っているうちに高山には雪が来て、もう近づける山ではなくなってしまいました。せめて近くから輝く峰々を眺めて、今年の空白を埋めようと伊那谷へ出かけました。
まずは伊那谷と南アルプスの間に横たわる伊那山地の一峰、陣馬形山に登りました。といっても自動車で。頂上にキャンプ場があってしっかり舗装された道が達しています。噂通りのすばらしい眺め。
日が傾き、伊那谷には夕靄が流れ始めて、視程はあまりクリアではありませんが、新雪の中央アルプスの稜線が目をとらえて離しません。正面には空木岳、右手には宝剣岳の尖塔がくっきり。長い池山尾根の登りに堪えてたどり着いた山頂が、とても優しかった空木岳。また登る機会はあるでしょうか。
視界を180度転じると、今度は南アルプスの大パノラマ。
ちょっと遠いものの、仙丈ヶ岳から聖岳まで南アの3000m峰が一つ一つ指摘できます。この天末に連なる峰々の神々しいまでの遙けさは、写真ではとても伝えられそうにありません(一応、各画像をクリックして、さらに「オリジナルサイズを表示」をクリックすれば、横1280ピクセルの画像が表示できます)。どれも一度は登った山ですが、かといってそれで山が自分に近しくなったわけではなく、仰ぎ見る度にまた畏怖と憧れをかきたてられる、それが山という存在だと感じます。
翌日は鹿嶺高原に登りました。こちらは南アの前衛峰と呼べる位置にある山で、やはり上にキャンプ場があり、よってまた自動車登山です。人けのないキャンプ場から展望台まで椅子とテーブルを持って上って、山を眺めながらお弁当を頂きます。
さすがにここまで近づくと昨日は遠かった仙丈ヶ岳が目の前に迫ります。その左には甲斐駒ヶ岳も天を衝いています。高曇りで撮影に適した空の色ではありませんが、山はくっきりと見えています。3年前の秋、ウラシマツツジの紅に染まっていた小仙丈カールも、今は岩と雪だけの装いです。
展望櫓があるので上ってみると、全周の眺めが開けて思わず声を上げずにはいられません。南アから目を転じると、広々した高原の向うに連なるのは中央アルプスと乗鞍、そして北アルプス。目を凝らせば、穂高・槍から白馬まですべて正しく同定できそうです。雪のない季節ではなかなかこうは行きません。この鮮烈、雄大、清浄…、峰に雪が来ると山国の風景は格段に美しくなります。
2011-11-14
■[雑]狭山池博物館
実家への途次、ひさしぶりに狭山池博物館に立ち寄ってみました。堤防の直ぐ下にあって、上から見ると二三の四角い箱が建っているだけなのですが、迷路みたいなエントランスを進むと、エレベーターで一気に地下(というか、本来の堤防下のレベル?)まで下ろされ、そこには水を張った大きな空間があり、両側から水のカーテンが落ちています。大して広くもない敷地でよくこんな人口峡谷を出現させる発想ができたものだと感心します。
関西でうろうろしていると安藤忠雄の建築に接する機会は多いのですが、ここの出来はピカイチではないかと思います。巨大な堤防の断面をそっくり展示したり、古い取水塔や石樋を保存していたりと、展示のダイナミックさがこの人の大味なところにハマッたのじゃないでしょうか。
「古代狭山池と台地開発のはじまり」という特別展が目当てでしたが、期待していたのとは少し違ってましたね。常設展示をさらっと見て回ってたら、中学時代の恩師が町内で収集した石器のコレクションにひょっこり再会。当時、後をついて回っていましたので、私も少し持っています。
2011-10-16
■[詩]山田翠雨・山田淳子追記
江戸末の地元詩人、山田翠雨に関して、架蔵の大正10年刊『武庫郡誌』に若干の記事があるのに気づいたので、以下に録しておく。またその夫人、山田淳子についても昭和14年発行の大阪『東区史』に小伝が見つかったので、併せて書き写しておく。万一、両先人の事跡を求むる人あって、その追慕に資することあらば幸い。
なお、後者はGoogleの書籍アーカイブに収録されたものから、その強力な全文検索で見出されたもの。探求本であった翠雨の詩集『丹生樵歌』自体も同アーカイブに収録されていて、欣喜雀躍、デジタル時代の恩沢に浴した次第。Google社の私企業の利益追求を離れた、データの公共化の志には感謝措く能わざるものがあると同時に、外国企業にこんなことをやられてしまっている日本のコンテンツ企業に、少々情けない思いを禁じ得なかったことも併せて記しておきます。
【山田翠雨】※新字新かなに改めた
山田翠雨名は修敬、翠雨は其の号なり。文化十二年中村に生る。家代々医を以て業とす。修敬幼より学を好み、郷学を終えて浪華に出で、後藤松蔭・篠崎小竹の門に遊び、後郷に帰りて父業を続ぐ。性恬淡小節に拘らず、中年より遊歴を好み、六十余州足跡を印せざる所なく、到る所名山勝水を賞し、自家の嚢中作詩の資料として楽しむ。故に翠雨の詩は画家の写実の如く、敢えて工を加えず、専ら其の実況を主とせり。丹生樵歌と称する一巻は、実に翠雨詩集の遺稿にして、天保四年即ち翠雨十九歳の時より、安政元年即ち其の四十歳に至る二十年間の作集なり。
山田の勝たるや、翠雨に依りて生きたるもの少なからず。殊に蝙蝠渓の勝に於いて然りとす。即ち同志に謀りて醵金し、荊棘を艾り道路を拓き巌上に蝙蝠亭を建て、月花雨雪の眺めは更なり、渓間に鮮を漁し、後壑に薇を採る、清遊の地となさしめたり。其の蝙蝠亭の遺跡此の人去りて後は、徒に風餐雨蝕に任せて顧みる者なく、今は勝地の樹石すら伐るに任せ、取るに任じて遂に凡化し、人更に平凡化せり、嗟乎。安政六年翠雨家を京都三条碩町に移す。其の配淳子、亦和漢の学に通じ、殊に国風に善し。(後略)
【山田淳子】 ※同
本姓近藤氏、名は淳子。文政八年、播州加東郡大畠村に生れた。幼少の頃母から「百人一首」及び「古今集」を学び、年十七歳で京都の儒医山田翠雨に嫁し、夫翠雨から儒学を受け、国学を那須繁仲に就いて学んだ。夙に勤皇の志に燃え広く当時の志士と交わり、特に頼三樹三郎・蓮月尼等と親交があつた。又欧化思想を排斥すること甚だしく、嘗て福沢諭吉の小学読本を破棄したこともあった。夫の没後、大阪に来て東区北浜二丁目の花外楼の辺に梅香社を創設し、国学及び和歌を唱導した。これより先、神戸女学院に教鞭を執ったこともあるが、晩年現在の東区餌差町の円珠庵契沖の墓側にささやかな三足庵を結び、其の余生を静かに歌道に過ごした。資性貞淑で、常に各種の新聞を購読し、社会・政治・経済面に至るまで悉く眼を通し、其の欄外に朱を以て各記事に対する感想批評を自ら注していたという。其の博識と老いて尚倦まざる精進とを窺い知るべきである。明治四十年一月二十五日、八十三歳で没し円珠庵に葬られた。遺著「山田淳子歌集」一巻がある。嘗て人の来訪するを避けて、三足庵の柱に貼付した短冊の歌に
わび住の庭の木の葉に埋れて浮世のちりはあとだにもなし
我が宿は人になこその關すゑて心の花をひとり眺めむ
2010-06-10
■[山] 弥山・八経ヶ岳
梅雨入り間近の好天の6月第一日曜は、3年続けて弥山川の岩魚詣でに。今回は趣向を変えて行者還トンネル東口から登ってみる。いつも車でいっぱいの西口に比べて、遠回りになるせいで駐車しているのは他に2台だけと不人気のコース。しばらく樹林をトラバースして尾根に乗り、ジグザグを切りながら稜線に向けて高度を上げる。オーバーユースで荒れている西口からの道に比べてずっと歩きやすい登りだ。
稜線が近づくと満開のシロヤシオが現われて顔がほころぶ。ブナも一貫して多く、北向き斜面で暗い西口コースよりも大いに気に入るが、稜線に出て一ノ垰で奥駈道に合流すると、それどころではない美しい世界が展開し始めた。刈り込まれた芝生のような丈の低い笹が一面に広がり、白いブナの幹が亭々と連なる下を、一筋細い踏み跡が続いている。何という整いと伸びやかさ! まるで神様が差配した天然の公園だ。一ノ垰から小谷林道への尾根を分けて1516m峰の先までそんな美しい風景がとぎれない。山上ヶ岳から釈迦ヶ岳まで大峰奥駈道の核心部はほぼ一度は歩いているが、わずかに未踏だった部分にこんな珠玉の山域が残っていたとは。
登山道は1516mピークの北側をトラバースしているが、何の気なく道を外れて稜線伝いに行くと、爽やかに装ったシロヤシオが次々に現われる。しかも右手に眺めが開けたところでは、稲村ヶ岳から山上ヶ岳、大普賢岳までの大峰の雄峰が一望。ピークを越えて前方にはめざす弥山と八経ヶ岳もほどよい距離で望める。あまりに気持ちがいいので、この辺りをあちこち歩いて撮影して終わってもいいかと思ったほどだが、それは三脚を携えてまたの機会にと、1516m峰を下って弥山に向う。
トンネル西口からの登山道を合わせると、一気に道幅が数倍にも広がって驚かされる。みごとだった笹もすっかり消えてしまう。こうなるとセッセと歩いて頂上をめざす以外にない。遠回りで登ったせいか、いつもよりくたびれて弥山小屋に登りつき、八経ヶ岳から明星ヶ岳を経て弥山川に下る。いつもの大きな淵で水際に腰を下ろして昼食。今年も清流の精は永久禁漁に守られて、つつがなく淵に遊弋し閃いていた。
ゆっくり岩魚を眺めた後は狼平から弥山に登り返し、トンネル東口へ下る。笹とブナと満開のシロヤシオの山上空間にまた溜息。大峰奥駈道の白眉は人気の山頂よりも行く人の少ないこうした縦走路にあることを再確認した。




























山は美しいのですが、いま北の山村は大変そうですね。2006年以来の豪雪になるのでしょうか。