尾崎喜八風に


 下山吟 ―但馬氷ノ山―
長い稜線を離れて最後の下りにかかる
谷を埋めた雪にもう冬の危うさはなく
踵に重心をあずけて崩れる雪を踏みしだいていくと
閉じたスキー場のまだ白い広がりがたちまち目の下だ

谷を抜けてなだらかな山すそに降りたてば
慎重に追ってきた大げさなトレースを外れて
明るい疎林の斜面で荷物を投げだし 雪に腰を下そう
行程の最後をかざる静かな反芻の時間のために

ザックにごろり放り込んできた甘夏にナイフをいれて
ほとばしる果汁をむさぼり 鮮烈な酸味で疲れを洗ったら
ひとつ深呼吸をして さて 目の前のおだやかな眺めに
一日心に持してきた山への畏れをとかすとき

もはやここには山上で見てきた峻厳な美しさはないが
谷にとどろく雪解けの沢音と里の改修の響きが
雪まだらの風景に季節のはじまりの生気を与えている
ゲレンデに響く野遊びの子どもたちの声が教える

かく春とまみえること お前にとって年々いよいよ尊しと 

山麓早春